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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/01/29

ホケノ山古墳2 石積木槨墳の天井はどっち?

 
ホケノ山古墳は纏向型前方後円墳だ。『有年原・田中遺跡公園の冊子』は、2世紀の有年原1号墳丘墓は、ホタテ貝形で、弥生時代の墳丘墓の突出部が祭祀の場として発達したのが前方後円墳という。纏向型は弥生時代の墳丘墓の発展した形なので、前方部が短く、バチ形に開いている。そのまま前方部をのばして後円部との比率が1:1になったのが箸墓古墳だったと記憶している。

しかしながら『シリーズ遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』で清水氏は、3世紀前後の中国(漢王朝末期から三国・西晋王朝時代にかけて)では、神仙思想が流行する。
中国大陸は西が高く東が低いという地形から、西の最高峰崑崙山には西王母と呼ばれる仙人が、東の海の果てにある蓬莱山には東王父が住んで、その周りに仙人の楽園があるとの考え方があった。
中国の沂南画像石墓に描かれた仙人たちの絵では、西王母や東王父は大きな壺の上に座っている。つまり、崑崙山や蓬莱山は壺の形をした山(もしくは島)であるとの考えである。その考えを知った倭の大王やその身内の者たちは、自分たちの奥津城(おくつき、墓所)に壺の形の墳形を採用するのである。それがバチ形に開く前方後円墳の形になったものだ。そして、最初にとり入れられたのが纏向古墳群の西支群であったと見られる
という。
壺の形とは思いも寄らなかった。清水氏が「西王母の坐る壺」としてあげている例は、沂南画像石墓入口(後漢後期、2-3世紀、山東省)の右下に見られます。
この時期の壺は底部が多少なりとも尖っているけど、後円部が尖っているというのは見たことがないなあ。
纏向型前方後円墳が、弥生時代の墳墓の発展した形ではなく、中国の神仙思想からきた形だったとは。そういえば、当時の信仰がどんなものだったか、考えたことがなかった。 清水氏は、南北に長い石積槨は、全長約10m、幅約6m、高さは現状では1.5mを測り、天井にはいわゆる「天井石」がなかった。石槨内にはおびただしい河原石が充満しており、床面には6個の柱穴があったことから、天井部には丸太か太い板材でもって「蓋」をつくって、その上に大量の小型の河原石をのせたものと考えられるという。
墓壙は深さは半分程度だが、桜井茶臼山古墳に匹敵する規模だ。墳頂部に輪郭だけでも表してあれば、大きさが把握できたのに。

桜井茶臼山古墳は板状の石を面のように積み重ねたものだったが、ホケノ山古墳は河原石を積み重ねた石積槨だ。これはホケノ山古墳が桜井茶臼山古墳よりも古いからだろうか。
葺石や石槨に河原石を使ったホケノ山古墳よりも、それらを使わない石塚古墳の方が一段階古いかと推定されるというので、纏向石塚古墳と桜井茶臼山古墳の間に、ホケノ山古墳が築造されたのだろうか。石塚古墳についてはこちら

ホケノ山古墳は何時造られた古墳だったのか。
清水氏は、箸墓古墳の被葬者について、3世紀後半期に確立した大和政権の初代大王の墓であろうとし、出土土器より、箸墓古墳より、ホケノ山古墳は一段階古い古墳とすることから、ホケノ山古墳は3世紀半ば頃とみているようだ。石野氏も3世紀半ばという。

墓室内に石が充満しているというのは、慶州の積石木槨墳と構造が似ているが、5-6世紀とホケノ山古墳よりも後の時代のものだ。南シベリア(アルタイ地方)のパジリク5号墳は前405年と、年代も距離もかけ離れている。  発掘写真ではよくわからないが、細い4本の柱が木棺と木槨の間にあり、6本の割柱が木槨を内側から支えているように見える。そして短辺の中央に太い柱がそれぞれある。この12本の柱はどのような役目があったのだろう。 清水氏は、石積みのなかに柱を立てて、板を並べた木槨がつくられ、そのなかに割竹形木棺が安置され、いずれも真っ赤な朱が塗られていたという(出土した壺と同じ形の土器を並べている)。
模型図を見ると、木棺の周りの4本の柱は、木棺を固定するために立てられているようだ。 ところが、『遺跡を学ぶ051邪馬台国の候補地・纏向遺跡』で石野氏は、その構造は幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いがあり、そのなかに組合式のU字底木棺を納めていたようだ。そして、板囲いのなかには、板囲いをおさえるための6本の柱とは別に、4本柱と、棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設をおおうような、切妻造りの建物が墳丘のなかに設けられていたのであるという。
切妻屋根とはゴルディオンのミダス王の墓室(前8世紀後半)みたいやなあ。規模はだいぶ違うけど。 ところで清水氏は、ホケノ山古墳は、天照大神をつれて元伊勢をめぐった豊鍬入姫命の御陵とされ、地元での信仰の対象とされたため、大きな盗掘をまぬかれた前方後円墳であるという。それなら副葬品もそのまま残っていたのだろうか。

天井から落ちこんだ河原石がぶつかったためにこまかく割れていたが、直径19.1㎝の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国製の鏡が中央部で見つかった。このほか内行花文鏡のかけらが数片出てきた。
漢王朝(紀元前2世紀-2世紀)の時代には、内行花文鏡や方格規矩鏡など文様に機械的な幾何学文を描いたものが好まれるが、漢帝国末期(2世紀)には神仙思想の流行により神仙そのものをモチーフとした鏡が好まれるようになり、仙人とその守護者である動物を描いた神獣鏡が大流行するのである。その一つが画文帯神獣鏡である。
葬られた権力者は、生前に大切にしていた愛用品の鏡を持って、仙人として蓬萊郷(死者の楽園)へ入ったことであろう
という。
私は古墳から銅鏡が出土するのは、舶来の貴重な品を副葬するほどの権力者だったということと、キラキラ光る鏡が魔除けになったのだろうということくらいしか考えたことがなかった。
品物だけでなく、思想まで入っていたのだ。 清水氏は、もちろん仙人の好むとされる赤色の塊・水銀朱を、棺に入れたり棺内を真っ赤に塗ったりもしている。
初期大和の前方後円墳の被葬者は、大陸文化の影響を十二分に受け取ることのできた人物たちであったことは言うまでもない
という。
水銀朱などの赤い色も、魔除けではなく大陸の神仙思想だったとは。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ035 最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
「シリーズ遺跡を学ぶ051 邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)