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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/01/26

ホケノ山古墳の墓室は斜め

 
ホケノ山古墳は箸墓古墳の近くにある。発掘調査が行われる予定のない箸墓と違って、2000年に、大和古墳発掘調査委員会(会長・樋口隆康橿考研所長)の手によって墳頂部の調査がおこなわれ、後円部中央から石積木棺墓が発見されて大騒ぎをした(『遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』より)。
その上、見学できるように整備されているという。それは是非見に行かねば!

ホケノ山古墳は桜井茶臼山古墳とは約2.5㎞の距離でほぼ南北に位置する。国道165号線から168号線に出て北上。箸墓大池から狭い道に入って回り込む。
箸墓の後円部と家並みの間の道路は更に狭かった。これが「上ツ道」だそうです(同書より)。 ホケノ山古墳の道も狭い上にカーブが多く、探し出せないのではと思うほどだった。三叉路には案内板や矢印がたくさんある。自転車や徒歩で古墳巡りをする人達がいて、この道で間違いないことがわかる。ここで左折して巻向川沿いの道へ。巻向川に沿う道に出たら少しは広くなった。すぐにホケノ山古墳の案内があって迷わずにすんだが、最後の左折がギリギリだった。なんとか曲がるとすぐ右手に駐車場があった。 駐車場を出ると説明板があり、そこからホケノ山古墳が見渡せたが、距離が足らずに左端が切れてしまった。
桜井市教育委員会作成の説明板は、この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる3世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の1つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纏向遺跡の南東端に位置します。
周濠や墳丘は前方部前面が旧纏向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりとしませんが、全長は85m前後と考えています。今回復元している前方部については調査区において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括れ部のデーターを基にして復元したものです
という。 
ホケノ山古墳も自然の地形を利用して築造されていた。それにしても、えらくのっぺりとして盛り上がりの少ない古墳やなあ。
『シリーズ遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』は、全長約80m、後円部径約55m・高さ約8m、前方部長約25m・高さ約2mの「纏向型前方後円墳」である。
纏向型前方後円墳とは、寺沢が提唱した、全長、後円部径、前方部長の比率が3対2対1となり、前方部が三味線のバチ(撥)形に開く前方後円墳のことで、纏向遺跡のなかから出現し、初期の段階で全国に広まると規定した。
ホケノ山古墳の前方部はバチ形に開くものの、その先端部は旧河道によって削られ、正確な数値を測定するまでには至っていない
という。
確かに前方部は端に行くほど広がっている。 古墳を道路が寸断しているとは。おかげで断面の構造が見えるけど。  前方部の一角から見たところ。ここからはもう一つの角がどこにあるのかわからない。  後円部は3段に造られていた。葺石の様子がよくわかるように整備されている。どの石も河原石のように丸味がない。 しかし、墳丘の上まで行ったが、墓室はどこにもなかった。私がホケノ山古墳を見たかったのは、墓室が桜井茶臼山古墳のように中心軸上にあるのではなく、斜めに造られていることを知ったからだった。 そして、古墳公園のように整備されていて、レプリカにしろ、墓壙が見学できると思ったからだったので、がっかり。 

※参考文献
桜井市教育委員会作成の説明板
「シリーズ遺跡を学ぶ051 邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)
「シリーズ遺跡を学ぶ035 最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)