お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/06/21

兜塚古墳とメスリ山古墳


桜井市には最古の前方後円墳とされる箸墓古墳、邪馬台国の候補地纒向遺跡、膨大な銅鏡が出土した黒塚古墳、そして唯一発掘現場を見学した桜井茶臼山古墳の他にも古墳はたくさんある。

聖林寺を拝観後、安倍文殊院に向かう。談山神社行きのバス道ではなく、
その手前の道を行くと寺川の橋の手前に石仏や仏塔が並んでいた。
この辺りの石仏にはそれぞれ赤い前垂れがかけられて、今でも大切に世話をされている様子。
寺川は聖林寺橋を過ぎると大きくカーブしていく。
集落には古いお宅が残っていて、
この道を選んで正解だったと思う。
酒屋の続き。こちらの方が古い。
近くのおうちの人に尋ねると、兜塚古墳へはこの十字路を右に行くらしい。
バス道の手前より、左の森?がメスリ山古墳、右の建物の向こうの木々辺りが兜塚古墳だろう。
さきほどの道からは直接兜塚古墳に繋がる道がないようで、
道路に出てしばし歩き、バス停手前の狭い道から入っていく。
石垣・土塀・生け垣の建物の向こうが兜塚古墳だというが、どこから入って行くのか・・・
右に移動すると。行くと石段があったが、その手前の高い段は老婆には登ることができない。
振り返ると、金属の柵と道路の間の狭い坂道から行くことになっているのだと分かった。いつも焦って、結局遠回りをしてしまう。
石段の上は草茫々の急坂。

これが兜塚古墳の後円部らしく、踏み跡を辿って登っていくと、
突然石棺が👀
しかも、東に後円部があり、石棺も東西方向に安置されている。古い前方後円墳は、後円部がどの方向を向いていても、頭部は北向きと勝手に思い込んでいたが、それに当てはまらない😎
奈良県桜井市観光協会兜塚古墳は、 石室周辺は1954年に調査されています。石室の場所は後円部の中央部から東に偏った場所にある小型の河原石を用いた独特の磚積状の石室です。規模は長さ約3.7m、幅1.4mで床面に粘土を敷きつめ、その上に石棺を安置していますという。
刳り貫かれた内部はあまり深くはなさそう。
ちょっと移動すると家形石棺で、2対の繩掛け突起が残っている。特に左手前の突起が上向きであることが顕著。
石棺に繩を掛けて運び入れるということは、横穴式石室で、右(東)方向に羨道があったはず。石室や羨道を構成していた大きな石は見当たらない。
いや、家形石棺は横穴式石室に収められるとは限らなかった。

宮山古墳 古墳時代中期初頭(5世紀初頭) 246m 1950年発掘 奈良県御所市室(兜塚古墳からは南西に16㎞ほど
『ヤマトの王墓』は、長持形石棺をおさめた竪穴式石室と、その上に並べられた形象埴輪群の様子が明らかにされたという。
だから、兜塚古墳も墳丘頂部の竪穴式石室に家形石棺が埋葬されていたのだろう。
あれ、家形石棺ではなく長持形石棺となっている。それについてはこちら
宮山古墳の橿原考古学研究所付属博物館の常設展示

前方部は西。
反対側は三角形の面がよく残っているが繩掛け突起はない。いや欠けてしまったのかも。
宮山古墳のような石室も見当たらない。
困ったことに古墳の説明パネルがなかった。
事前に見つけていた大和の古墓散策兜塚古墳というページが頼りである。同ページによると、築造年代は5世紀後半-6世紀初頭。
その頃になると、頭部は北向きとは限らなくなっていたのかも。
石材は阿蘇ピンク石。山本ジェームズ氏の畿内家形石棺にみる棺蓋短側辺突起の変化には、熊本県宇土市で産出される阿蘇溶結凝灰岩の一種である馬門石とされている。
上向きが顕著な繩掛け突起。家形石棺で古いものは上向きで段々下向きになるとか。
よく茂った雑草のおかげで前方部には行く気が失せた。
石棺の背後に回ると、古墳で使われたと思われる石ころがゴロゴロ。葺石だったのかな。
戻る時に斜面で見つけたヘビイチゴの実😊

バス道に戻り、浅古バス停を過ぎて、交差点手前の狭い道へ。
しばらく歩いていると住宅地の向こうにこんもりした森が出現。分かり易いメスリ山古墳である。
その先の交差点左に石の鳥居発見。
談山神社の鳥居が何故ここに・・・一の鳥居だそう。
右側の道は聖林寺橋に続いているもよう。
建物や樹木がなくなったところで、談山神社のある多武峰が姿を現した。
斜面なので田んぼが段々になっている。その段に積み上げてある石は、兜塚古墳にあった石と同じみたい。

いよいよメスリ山古墳。後円部が見えている。
道標もあったので間違いない。

これが後円部の端とは・・・丸くないやん🤔
削られたのか角張っていて、そこに錆びた説明パネルがあった。
この古墳は、阿部丘陵の南端に構築された西向きで二段構成の前方後円墳である。墳丘は全長約230m、後円部径約120m、同高約11m、前方部幅約80m、同高約9mの規模で、後円部に比べ前方部がきわめて低い。周濠は存在せず、前方部前面に約45m幅の切り通しがある。石室内は乱掘されていたが、鏡、石釧、車輪石、鍬形石、玉類、椅子形石製品、鉄剣、直刀などの副葬品が遺存していた。また、この石室の東側に並んで小竪穴式石室があり、多数の銅鏃、鉄製弓矢、石製鏃、玉杖、工具類が出土した。
この古墳は古墳時代前期の4世紀のもので、同じ桜井市域の箸墓古墳、桜井茶臼山古墳などの全長200m級の大型前方後円墳と一系列をなすものと位置づけられる。これらの古墳は、全国各地の同時期の古墳のなかでは最大級のものであり、政治集団の連合の頂点にたつ首長墓と考えられているという。
箸墓古墳は卑弥呼あるいはトヨの墓とされていて3世紀後半、茶臼山古墳が4世紀初頭、そしてメスリ山古墳は4世紀前半。箸墓古墳はともかく、茶臼山古墳の墓主とは同族の首長だったかも。
 形が掴めないまま側道を歩いて行く。
後円部の盛り上がりはまだまだ。
この辺からこんもりしてきた。
墳丘への踏み跡?
前方部と後円部のくびれが向こうに見えるので、
墳丘の東の端?
説明パネルは昭和34-35年に後円部が発掘調査され、墳丘上では人頭大の葺石や、墳丘を三段にめぐり、前方部に向かって二列にのびる円筒埴輪列が確認されている。また後円部頂には、径1mの大型円筒埴輪を含み矩形にめぐる埴輪列が検出され、この方形区画内に墳丘の主軸に直交して竪穴式石室が存在する。さらに石室上方の外周には、約1mの高さに塊石を石垣状に築き、内側を低くした方形区画が形成されているという。
円筒埴輪は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の常設展示で見ていた。
後円部の西の端。前方部はよく見えないが、間に深い凹部があるので行くのを止めた。
頂部の下には2段
一段下りて前方部の方へ。
前方部の眺め。
くびれ部あたりで道路に降りてきた。前方部は120mの長さ。
二段構成の前方部は途中から樹木が茂る。
端の方が高くなったまま残っていた。

古い航空写真(『最初の巨大古墳 箸墓古墳』より)。後円部が東、前方部が西を向いている。
『最初の巨大古墳』は、独立丘陵を整形してつくられた前方後円墳。後円部には、竪穴式石室の周囲をめぐって大型円筒埴輪が方形に二重に立てられていた。
(箸墓古墳は)前方部北側の側面で池の下の部分から、河原石を使った葺石帯が検出された。南側の側面調査ではこのような葺石は使われておらず、北側部分のみの状態である。
このような葺石の葺かれ方は、以前にメスリ山古墳前方部北斜面の調査でも見られたもので、これはどちら側から見られるのかを意識していたことを示したものであろう。つまり、メスリ山古墳では北側の大和平野を意識し、箸墓古墳では北側の纏向側から見られることを意識したものであろう。メスリ山古墳でも前方部は北の平野側は三段に、南の高田側は二段につくられているという。
写真手前側に集団の居住地があったのだろう。
『ヤマトの王墓』は、茶臼山古墳から南西に1.6㎞のところにある。
この古墳も、前方部が広がらない柄鏡形の墳丘であり、茶臼山古墳から直接つながる大型古墳とみて間違いない。なお、85年の桜井市による北側の発掘調査で、墳丘裾より約15m北に広がる葺石列がみつかり、墳丘の範囲はさらに大きくなるようだ。
墳丘の段築は、後円部三段で、それに対応する円筒埴輪列も見られ、前方部の埴輪列は未確認だが二段になるだろう。墳丘の姿をよくとどめる後円部では、斜面に今でも人頭大から拳大の葺石がごろごろしているという。
同書は、後円部頂上の平坦部の縁をとり巻く円筒埴輪列は、直径33mの円弧を描くように立て並べられていて、その中央に巨大な埴輪に囲まれて竪穴式石室が築かれていたという。

同書は、後円部中央の竪穴式石室(主室)は、墳丘の主軸に直交する南北方向に築かれていて、長さ8.06m、幅は北端で1.35m、中央で1.18m、高さは南端で1.76mになる。天井石は8石でおおい、四壁は板石を小口積みにしてほぼ垂直に積み上げているという。
主軸に直交する南北方向の石室は、おそらく古墳時代前期の大和古墳群同様、被葬者の頭部が北向きだったと捉えてよいのだろう。
石室内は盗掘の被害が著しかったが、その床面に木棺をすえるための粘土による棺床があり、その痕跡から幅約80㎝、長さ7.5m以上の長大な木棺が置かれていたことがわかる。
主室の竪穴式石室は、天井石の上を厚く粘土で覆い、その上を囲む石垣で長方形の区画をつくり、礫を詰めて方形の壇を築き、その周囲に埴輪を二重に立て並べていた。この石室は、今でも現地に行けば天井石が見えるようになっているという。
樹木が邪魔して墳丘中央部には辿り着けていなかったのだ。
大和古墳取調室メスリ山古墳によると、南側の後円部にある八坂神社の階段を上がって、社殿の右に小さな立て札があるとのこと。同サイトには、草に見え隠れしている天井石の画像があった。
同書は、この石室は、先に築造した墳丘に墓壙を掘り込んで築くものではなく、粘土棺床の周囲に「栗石囲み壁」を設けて、そこから石室を構築するとともに盛り土を完成させたと考えられる。
その盛り土の途中に、石室の4.75m東にもう一つの竪穴式石室(副室)が築かれていたという。

橿原考古学研究所付属博物館の常設展示に埴輪の配列図があった。
博物館の説明文は、古墳の後円部中央にある2つの竪穴式石室の上部を長方形に取り囲むかたちで、大型の円筒埴輪・高坏形埴輪と円筒埴輪が二重にめぐっていた。最も大きな埴輪は石室の両端の位置にあり、高さ2.4mは日本最大であるという。
円筒埴輪手前には丸太を刳り抜いたような木棺
穴は下向きの三角形が主だが、一部上向きのものも。
『最初の巨大古墳』は、吉備地方の特殊器台から大和のメスリ山古墳の円筒埴輪へと変遷。器台の形態もさることながら、表面に描かれた弧帯文様が大きく変化し、畿内に入ると形式化してゆくという。
吉備地方の特殊器台はこちら
高坏形埴輪の前まである木棺は、別の古墳から出土したもの。
木棺の蓋はこの部分だけ。
主室と副室
副室について同書は、石室の長さ6m、幅は72㎝、木棺を置かない平らな床面から四壁の石を積み始めていて、下から30㎝ほどは丸みのある石を垂直に積み、それから上はやや扁平な石を使って徐々に持ち送り、天井部は手のひらを合わせたように、左右の壁を合わせる構造になる。そのため、主室の天井石のように、とくに大きな板石は必要なく、その天井の上部は中央がやや盛り上がっていたという。
黒塚古墳(古墳時代前期、3世紀後半-4世紀)も合掌型式とされているが、地震で破壊した竪穴式石室である。写真の中央が石室の空間部分にあたるが、ここには左右の両壁から滑り落ちた板石が空間を満たしていた。これにより、板石の直下にあった鏡などの副葬品は盗掘から免れたのである。地震は古墳が作られてから程なく発生したようで、強い揺れは石室以外の場所でも影響が観察されたという。
その地震の後にメスリ山古墳は築造されているので、副室は当初から合掌型式だった。
副室の調査風景
『ヤマトの王墓』は、副室の天井石がカマボコ形に盛り上がっているのがわかるという。

メスリ山古墳とそれに先行する茶臼山古墳の位置と古墳の方向関係。
メスリ山古墳は長側面の北側に葺石が施されていたということで、、その北側に住む一族たちが拝む方向としていた。では、メスリ山古墳より前に築造された茶臼山古墳も同じ一族の王墓だったのだろうか?
茶臼山古墳の西側斜面に葺石があれば、同族の歴代王墓とみることができる。
『ヤマトの王墓』は、墳丘の規模は、2003年の測量調査によって、全長200m、後円部径110m、前方部幅60mであることが確認され、後円部の広がらない柄鏡形の墳丘である。この柄鏡というのは、日本では江戸時代におもに使われた細い柄のついた鏡のことで、前方部の先端が開いた鍵穴形になるのが主流の前方後円墳のなかでは特徴的な形であり、その代表例にこの茶臼山古墳があげられる。
墳丘は、後円部3段、前方部2段に築造されていて、前方部の頂部は後円部の二段目の平坦面につづき、その上に後円部の三段目がのる。墳丘格段の斜面には、葺石が葺かれているが、埴輪は使われていないという。
墳丘の方向にかかわらず、全ての斜面に石を葺くということは、どの位置からも眺められることを想定した王墓。つまり、墓周辺全域を統治していた王の墓ということになるのだろうか。
それが長く続かず、少し後には支配地域を狭めた王がメスリ山古墳を築造した。それとも、大和平野全域を支配下に収めた王が、その南端に墓を造ったのかな。

   聖林寺 十一面観音像←       →安倍文殊院 西古墳と東古墳

関連項目
意外とある長持形石棺
長持形石棺から家形石棺へ
養久山1号墳・丁瓢塚古墳の次は箸墓古墳
桜井茶臼山古墳見学会に行ってみた
黒塚古墳は東西にのびる前方後円墳
黒塚古墳2 石室は合掌型式
古墳時代前期の大和古墳群は墓室が南北方向
楯築弥生墳丘墓3 謎の弧帯文石

参考サイト
奈良県桜井市観光協会兜塚古墳
大和の古墓散策兜塚古墳
山本ジェームズ氏の畿内家形石棺にみる棺蓋短側辺突起の変化
大和古墳取調室メスリ山古墳

参考文献
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」 石野博信 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」051
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」 2009年 奈良県立橿原考古学研究所
「最初の巨大古墳 箸墓古墳」 清水眞一 2007年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」035
「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」 千賀久 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」049