黒塚古墳は邪馬台国のあったところかと騒がれた纏向遺跡の北方にあるが、もう桜井市ではなく天理市になる。行燈山古墳(崇神天皇陵、4世紀前半)とJR柳本駅の間に位置している。
古墳の南側の道から見ると、東側に後円部、西側に前方部があって、北西-南東にのびるホケノ山古墳とは向きが大きく異なり、南北にのびる桜井茶臼山古墳とは90度異なるが、箸墓古墳とほぼ同じ中心軸だ。

古墳が立地する場所は、東にある行燈山古墳の方向から延びた丘陵の先端部を利用している。墳丘は東西を向いて後円部を東に置く前方後円墳である。全長約130m、後円部径約72m、同高さ約11m、前方部高さ約6mをはかるという。
この古墳も自然の地形を利用して築造されたのか。比率でいうと、ホケノ山古墳よりも前方部が長くなっているが、バチ形に開いている。前方部と後円部が1:1に近いので、箸墓古墳型になるのだろうか。

公園として整備されているので、近隣の人達の散歩コースとなっているようだ。




石室のレプリカか何かがあるらしい。それにしても長いなあ。

古墳の調査で後円部において竪穴式石室が検出された。石室は南北8.3m、幅約0.9-1.3m、高さ約1.7mあり中央部には長さ約6.2mの粘土棺床が残存していたという。
南方には箸墓古墳がこんもりと見える。当時は妨げるものは纏向の建物群くらいだっただろうから、よく見えただろうなあ。しかし、箸墓はまだ木が茂っていなかっただろうから、もっと低くてわかりにくかっただろうか。

木棺はクワの巨木を刳り貫いて作られたが、すべて腐って残存していないという。
3世紀半ばとされるホケノ山古墳には板状にした木が用いられていたが、大木を刳り貫くというのは桜井茶臼山古墳と同じだ。アニミズムの時代、崇拝する大木を切り倒して首長の棺にしたのだろうか。鋸のない時代に板に加工するのは大変だっただろうが、大木をそのまま使うには、運ぶのも苦労しただろう。そこまでして大木を使うのは、やっぱり首長としての権威付けでもあったのだろう。


※参考文献
奈良県天理市作成の説明板