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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/02/09

黒塚古墳2 石室は合掌型式

 
黒塚古墳案内板は、黒塚古墳展示館は史跡指定地の東側に位置する。後円部において検出された竪穴式石室は破壊が進行しており、現地での公開は適当ではなく砂を充填して埋め戻された。これに替る公開施設として公園内に設置された。1階では竪穴式石室を実物大に復元し、鏡などの副葬品もレプリカで出土状況を再現したという。 展示館に入って壁面に紹介された黒塚古墳や近辺の古墳群のパネルを見ながら奧に進むと、中央に黒塚古墳竪穴式石室のようすが再現されていた。北側から南側を眺めるようになっている。
棺床やその周辺の赤い色、そして石室の両側に並べられた銅鏡の多さが目を惹くが、その奧の天井の形に驚く。しかも黒塚古墳の5㎞ほど南方の桜井茶臼山古墳の石室と同じように板石が整然と積まれたものだ。

展示館冊子は、竪穴式石室があまり例を見ない合掌型式の長大な石室であることが明らかにされたという。
板石を両側から積み上げて逆V字形の天井を造っている。
桜井茶臼山古墳のように天井石を被せた方が簡単だったのではと思うが、大きな石を運ぶことができなかったのだろうか。それとも、家屋の天井を再現しようとしたのだろうか。 持ち送りで板石を積んだのかと思っていたが、板石は斜めに平行に積まれている。このような天井をどのように築いたのだろう。西洋のアーチは木枠の上に石を組んでいき、後ではずすのだが、古墳を築造した当時は鋸もなく、木を板にするのも大変だったはず。
それとも、ホケノ山古墳の石野氏の案のように切妻造りの構造物があったのだろうか。しかし柱穴は復元石室にはない。
ホケノ山古墳がどのような天井だったかはともかく、木槨に板を使用しているのは確かなようなので、墓室の両側面から板を並べて小屋組にし、板の傾斜に沿って板石を積んでいったのではないかと思うようになった。
板石は自然界にあるものを集めたのか、割って作ったのかわからないが、板石層の外側は割合大きな河原石が使われている。板石も貴重だったのだろう。 地震で破壊した竪穴式石室である。写真の中央が石室の空間部分にあたるが、ここには左右の両壁から滑り落ちた板石が空間を満たしていた。これにより、板石の直下にあった鏡などの副葬品は盗掘から免れたのである。地震は古墳が作られてから程なく発生したようで、強い揺れは石室以外の場所でも影響が観察されたという。
黒塚古墳の築造は、冊子は古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)の古墳と推定されるという。
桜井茶臼山古墳は古墳時代前期(3世紀後半-4世紀代、同古墳現地見学資料より)の築造で、板石で長方形の石室を造り、天井石が置かれていたが、地震による崩壊はなかったようだ。
黒塚古墳を破壊した地震は古墳の築造まもない頃ということなので、その地震よりも後に桜井茶臼山古墳が造られたのかも。
先に築造された黒塚古墳は、古い技法で天井が造られた墓室で、桜井茶臼山古墳は天井石でふさぐという新しい技術が導入された墓室なのだろうか。 しかし、桜井茶臼山古墳は岩山を掘り下げて石室を造っているので、地震の前に造られていたが、破壊を免れたのかも知れないなあ。その場合は、黒塚古墳は自然の地形を利用したといっても、土山だったために地盤が弱く石室が破壊されてしまったのかも。
2つの古墳の間に位置するホケノ山古墳は河原石で埋めつくされていたというが、この時の地震のせいではないのだろうか。

画像には、説明や展示パネルを撮影したものもあります。

※参考文献
「黒塚古墳案内板」(天理市作成)
「黒塚古墳展示館冊子」