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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/06/18

聖林寺 十一面観音像


聖林寺は桜井駅と談山神社の間に位置している。
『大和路秀麗』は、聖林寺は多武峰に向かう山の中腹にあるという。
大きな看板の矢印の方向を見ると、木々の間から石垣が見え隠れ。
近年はお城の石垣を見てきたので、土塀よりも石垣に迎えられると嬉しくなる。手前の石塀の中は墓地。
この石垣はいつごろのもの?楔跡の並んだものもあるけれど・・・
ここまで来て、山門が見え、やっとお寺に見えてきた。
石垣の下には石仏が並んでいる。
坂道に沿って石垣と板塀、土塀が続く。手前のガラス窓のある部屋も細い木のつっかえ棒が何本もあって、あまりお寺っぽくない。
その下の石段から
右奥の山門へ僅かに上っていく。

『大和路秀麗』は、奈良時代初めに、藤原鎌足を祀る妙楽寺(談山神社)の別院として、鎌足の長子である定慧和尚が建立したと伝えられる。以降、近世までの歴史は不明のことが多いが、三輪の地(大神神社とその周辺)との関係が深かったという。
拝観受付は左。
本堂正面。この先は撮影不可。
同書は、まずは本堂のご本尊、お地蔵様にご挨拶。江戸時代中頃に造られた丈六の大石仏という。
白いので塑造かと思っていた。
本堂の奥の部屋の障子が開かれていて、三輪山と麓の桜井の町を一望できる。遠くには、箸墓古墳も見えるということだが、邪馬台国の候補地の一つ、纏向も遠方に写っているはず。
この部屋には、なかなか良い十六羅漢の一双の屏風が、直射日光の当たらない方向に広げられていた。截金の頭光の各羅漢の様々な場面が絹本着色で表されている。描いたのはなんと元の顔輝という。

本堂の左奥の戸を開いて、十一面観音像に会いに行く。
同書は、世に名高い聖林寺の十一面観音像も、かつては大神神社の最も古い神宮寺(神社に付属する寺院)である大御輪寺の本堂のご本尊として祀られていた。
大御輪寺の本堂にはこの十一面観音のほかに地蔵菩薩などの仏像が安置されており、神さまである若宮の像も祀られていた。慶応4年(1868)3月に新政府から神仏分離を命じられたので、十一面観音や地蔵菩薩などの仏像は聖林寺へ(地蔵菩薩はその後さらに法隆寺へ)、大切に遷された。「御一新に付き、当分拙寺へたしかに預かり置き候」という文書が聖林寺に残されている。観音さまへの信仰はそんなにたやすく変わることはなかった。観音像のお引っ越しはその年の5月のこと。聖林寺のご住職が大八車にお乗せして、三輪から約5㎞のこの地に運んで来られたという。その後フェノロサや岡倉天心たちによってそのお姿の美しさが絶賛され、多くの人々を魅了してきたという。
まずこの階段を登る。
コンクリート製の階段
階段上から見下ろすと、広くはない境内に、建物がひしめいている。

そしてやはりコンクリート製の大悲殿。
重い扉を開き、内扉を開いて中に入ると、まず鉄扉をほぼ閉じ、内扉を締める。そうすると、外からの光が十一面観音像と拝観者を隔てるガラスに反射せず、像がよく見えるのだ。
先に二人拝観されていたが、すぐに出て行かれ、後から入ってくる人もなかったので、ずっと一人でとても心地良い空間にいることができた。

十一面観音菩薩立像 奈良時代(8世紀) 総高240.0㎝ 木心乾漆、漆箔
『天平展図録』は、この像の作り出すゆったりとした大きな空間の中に、極めて尊厳性に富んだ雄偉な姿を現している。
本像はもと大神神社の神宮寺であった大御輪寺に安置されていたものであるが、この点を中心に具体的な造像時期を考え、本寺と関わりのあった文室真人浄三が大神寺で『六門陀羅尼経』を講じた頃(762年前後)を想定する考えがある。本像の並々でない造形は、当時の一流の願主・作者に依らねばできるものではなく、その意味でも浄三は天武天皇の孫という人で、東大寺大鎮でもあった人物であるから、造東大寺司を動かしての造像が推定できるという。 
上半身はほっそりしているのに量感が感じられるのは、奥行観があるからだろう。しかし、奥行観のない飛鳥時代の仏像との類似点もある。それは正面観で、腕の動きを除けば、優美に垂れ下がる天衣までもが左右対称なのだ。
『カラー版日本仏像史』は、同時期の脱活乾漆の遺品と比較すると、概して頭体の奥ゆきが増し、量感を強調する傾向がみられる。表面の木屎漆は脱活乾漆像の場合よりも厚く盛られ、肉身や衣文の抑揚が強まり、作風にあくの強さが目立つものが多い。装身具を木屎漆で塑形しない作例が多い点には相違がみられるという。
この像を図版でしか知らなかった頃は、両目の、眉から鼻筋そして下瞼に達するひび割れのせいで、近寄りがたい印象を持っていたが、240㎝もあり、しかも高い蓮華座に立っているので、遙か上を見上げていると、それほどひび割れも気にならなかった。
また、胴部がほっそりとしているのと、天衣の描く曲線のおかげで、軽やかな雰囲気に包まれて、ガラスの存在も気にならず、そこは収蔵庫ということも忘れるほどの心地良い空間だった。
その中を観音立像の正面から眺めたり、右側から、そして左側から眺めて、ゆったりとした時を過ごした。
『天平展図録』は、木心乾漆造になり、腹部と背面から内刳を施して蓋板を当てること、両膝から台座框まで達する足枘をつけていることが構造的な特色としてあげられるという。
それでもやはりガラスがあるので、こんな風に背面側に回ることはできなかった。
『天平展図録』は、体は胸に張りがあって胴を絞り、腰高に直立する。幅広の肩からゆったりと伸びた両腕は、肘を張っているので、体部との間に大きな空間が生まれ、実に気宇の大きな体軀となっている。条帛は左胸下でたゆませてからその先を長く垂下させるという。
『天平展図録』は、天衣もゆったりと弛んで蓮肉に達し、裳は縁を波状に表して柔らかさをみせる。裳裾をすこし持ち上げて軽快にみせているのは、新薬師寺十二神将像でも見られた表現。全てに渡って、東大寺法華堂諸像から大仏造立へと高まった我が国の造形力が、未だ弛緩せず充実した時期であった頃の造像を物語るという。
裙には繩状衣文が規則的に並び、しかもその間に浅い鋭角の衣文が入る、鑑真和上が将来して唐招提寺の木像に用いられるようよになったという翻波式衣文となっている。
東大寺法華堂の不空羂索観音立像(740年代)の裙の衣文と似はているが、同像は脚部にやや動きが見られる。唐招提寺金堂の千手観音菩薩立像の表現とも似ているが、本像の方が衣文の数が多く、脚も長く、バランスも良い。

花瓶を持つ左手。
下に下ろす右手の指先、
その内側。

『天平展図録』は、本面は卵形のすっきりとした顔立ちで明快な目鼻を表すが、口もとを下げた点にやや晦渋な表情を含ませるという。
十一面のうち、残っているのは、頂部1面と、下段左右に各3面程度だった。
『カラー版日本仏像史』は、菩薩像の頭髪に毛筋をあらわす点は共通するという。
半眼の瞳は暈繝とは言わないまでも、少なくとも3色で描いている。
横顔は頭頂面と同じ顔。
ただ残念だったのは、顔貌の左側は、花瓶から出ている花(蓮華には見えない)に隠れてよく拝見できなかったことだ。もっとも、背の高い人には難なく見えるのかも。

『天平展図録』は、本像の台座は当初のものという。
目立たない蓮肉、7段の蓮弁、大きな敷茄子、反花、円形の框座は、上に立つ観音像と同様に漆箔仕上げで、文様は描かれない。

同像光背断片 奈良時代(8世紀) 総高240.0㎝ 
『天平展図録』は、下から柄、光脚、身光部がかろうじて残った。身光部の上方にある蓮華は、像体部の中央にあたると思われるから、当初はおおよそ光脚から円相までを二倍したくらいの高さをもっていたと推定できる。また周囲は、東大寺法華堂本尊光背などを参照すると舟形状に界線が何重か巡り、頭部を中心とする円光が付けられ、各界線の間に宝相華の透彫をおいていたのだろう。ただし法華堂や二月堂の光背とは、光脚部の形や身光部に蓮華を配することなどが異なっていることも考慮しておく必用があり、また柄部に残る何本かの茎も他例がない。これらのことから、この光背断片の持つ意味は極めて高い。
上方に伸びてゆく茎やそれに先をからませる葉の生命力、萼部の重厚で先の反転する鋭さなど、各所に見事な表現をみせていることも見逃せない。
身光部はほとんど木彫からなり、光脚部は木心に鉄板を打ちつけて補強した上に乾漆を盛り上げ、柄からでる茎は鉄心に乾漆をもっているという。

聖林寺の本堂縁側には池田久美子の『聖林寺十一面観音立像「光」の復元の過程』というタイトルのパネルが数枚立てられていたので、全てではないが、撮影させてもらった。
池田氏のいう「光」とは光背のことだそう。

十一面観音立像がかつて安置されていた大神神社内の神宮寺、大御輪寺において、身長1.6mの人が堂の外から拝観する観音立像と光背。
同パネルは、「光」の中心と経文に説かれる、仏像の額にある白毫の点と視線を結び、人が下から見上げた位置で、「光」の中心は像よりも高い位置となるという。
パネルは、当「光」残欠部の総高244.4幅75.3㎝。木心乾漆。鉄芯あり
周辺の火炎部は、三月堂不空羂索観音立像と法隆寺伝法堂阿弥陀坐像を参考とした。身光を形造る圏帯の紐の曲線は、二月堂十一面観音立像、三月堂宝冠阿弥陀如来立像を参考とした。身光圏帯中の文様は、当「光」の残存部分を参考とした。頭光の圏帯中の文様は、残存部分と唐招提寺千手観音菩薩立像の文様を参考とした。高さは復元された奈良時代の建築を参考に割り出している。構造は法隆寺伝法堂阿弥陀坐像を参考としているという。

光背各部の組み立て方

ところで、1998年に開催された『天平展』の図録は、最近、大御輪寺の当初像であることを、推定される光背の高さと堂舎の天上高の関係から疑う考えが提出されている。改めて、光背を備えた在りし日の本来の姿を正確に描く必要に迫られているといえようという。
この素晴らしい十一面観音立像、どのお寺のために造られたのだろう。

    安倍文殊院 渡海文殊群像←      →兜塚古墳とメスリ山古墳

関連項目
箸墓古墳
東大寺法華堂不空羂索観音立像に翻波式衣文

参考にしたもの
聖林寺のリーフレット・絵葉書、池田久美子氏の2015年3月の「聖林寺十一面観音立像「光」の復元の過程のパネル
「大和路秀麗 八十八面観音巡礼」 監修西山厚 本文執筆愛川純子 2014年 八十八面観音霊場会
「カラー版日本仏像史」 監修水野敬三郎 2001年 美術出版社
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」 石野博信 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」051
「日本の美術15 天平彫刻」 杉山二郎 1967年 至文堂
「日本の美術456 天平の彫刻」 浅井和春 2004年 至文堂
「天平展図録」 1998年 奈良国立博物館