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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/05/20

東大寺法華堂不空羂索観音立像に翻波式衣文


唐招提寺の奈良時代の仏像について調べていると、『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』に翻波式衣文も奈良・東大寺法華堂本尊不空羂索観音立像にみられるという記述があって驚いた。
翻波式衣文は鑑真和上がが当時(盛唐期)の最新流行の量感あふれる体軀と共に将来したものだと思っていたのに、それ以前にすでに日本に入っていたとは。

不空羂索観音立像 奈良時代(8世紀中頃) 像高362㎝ 脱活乾漆 東大寺法華堂(三月堂)
『カラー版日本仏像史』は、東大寺法華堂は、恭仁宮文字瓦の転用や『正倉院文書』における初見年代から、天平12年(740)以降、天平勝宝元年(749)以前の創建とわかる。その本尊、脱活乾漆造の不空羂索観音菩薩立像も、740年代の製作とみられる。雑蜜経典の『不空羂索経』の経説に従い、鹿皮衣をまとう3目8臂の姿に表される。骨格たくましい体軀は、充実した量感を示し、強く起伏する肉身には生命感があふれ、眼瞼裂をうねらせた表情には威厳がただよう。
多臂の変化観音像の製作は、天平7年(735)の玄昉帰国にともなう雑蜜信仰の広まりを背景に本格化した。本像では、多臂の超現実的な像容に確固とした実在感が具わり、雑蜜の造像にふさわしい造形が展開されている。その作風や図像解釈には、新たにもたらされた盛唐期の仏教美術の影響が及んでいるとみられるという。
本像は、法華堂建立以前に造られていたという説もあるらしく、書物によって、あるいは筆者によって見解が違って、未だに定説がないらしいが、とりあえず、8世紀中頃とすると、鑑真和上が来日した天平宝勝6年(756)よりも以前になる。
裙には確かに翻波式衣文があった。
昨年の正倉院展の後に法華堂(三月堂)に行ったというのに、全く気が付いていなかった。しかも、こんな巨像なのに。

奈良時代に翻波式衣文があったのだろうか。『天平展図録』にぱらぱらと目を通すと、いくつかの仏像に翻波式衣文らしきものが・・・

十一面観音菩薩立像 天平宝字6年(762)前後 像高209.0㎝ 木心乾漆造・漆箔 奈良・聖林寺
同展図録は、条帛は左胸下でたゆませてからその先を長く垂下させ、天衣もゆったりと弛んで蓮肉に達し、裳は縁を波状に表して柔らかさをみせるという。
年代的には鑑真和上来朝後になる。
その裳(または裙)の波状のはっきりとした衣文線の間に浅い線が表されて、翻波式となっているような。

十一面観音菩薩立像 8世紀後半の早い時期 像高176.6㎝ 脱活乾漆造・漆箔 岐阜・美江寺
同書は、左手を屈臂して水甁をとり、右手は垂下して直立し、条帛をかけ、天衣を2段にかけて裳を着す。この姿は、聖林寺や観音寺等この期の十一面観音像に共通する。中国より請来されたイメージが、奈良時代の我が国で広く定着した姿をここに見てよかろう。造像期は、8世紀後半も早い時期に考えたいという。
鑑真和上が将来した仏像よりも、渡来仏の影響と考えられている。
裙の膝下に幅広に翻波式衣文が表されている。

薬師如来坐像 奈良時代後半 像高37.3㎝ 銅造 奈良国立博物館
同書は、ずんぐりとした体軀を粘りの感じられる着衣で包み、豊かな頬とうねりのあるややつり目の表情を見せる作風は、奈良時代後半の木心乾漆造・漆箔の諸像にも共通し、本像の制作年代をその頃に求めることができる。下半身を包む裳はさらに蓮台を覆って、蓮弁の先端に引っかかりながら垂下する様子を表している。中国・唐時代の作例にはしばしば見られる形式であるが、日本の現存例では類例の少ないものであり、本像が渡来作品を強く意識して造像されたものであることを示唆しているという。
着衣の各所にはっきりとした翻波式衣文が表されているのは、その手本となった渡来作品によるものだろう。
その像が鑑真和上が請来したものかどうかわからないが、それをまねて作られたということらしい。
顔はかなり異なるが、唐時代(710年)に制作された仏像には翻波式衣文があった。

如来坐像 唐時代・景龍4年(710) 石灰岩 最大幅44.5㎝奥行45㎝ 山西省出土芮城県風陵渡東章出土 芮城県博物館蔵
『中国国宝展図録』は、切れ長の目と引き締まった口元から作られる表情は、おごそかな雰囲気を漂わせる。衣の襞の処理などはややパターン化しているとはいえ、肌には張りを感じさせ、優れた造形感覚をうかがわせるという。

同じような裳懸座に座している。これに似た像が、鑑真和上以前に請来されていた可能性はある。

十一面観音菩薩立像 奈良時代、宝亀年間(770-780) 像高215.0㎝ 木造・乾漆併用・漆箔 奈良・金剛山寺
同書は、条帛以外は乾漆を使用しないのであるが、乾漆の柔らかさを出すように衣端や天衣端などを波打たせるのは、本像の作者の好むところで、乾漆像を意識して作られたものといえる。
製作期は、以上の形式・作風、そして頭上面が唐招提寺金堂本尊の光背化仏に通じる表情を盛っていることを考えると、宝亀頃の8世紀後半を想定したいという。
三曲に捻った脚部を覆う裙は、折返しの部分に始まり、下に向かって茶杓形から波状へと変化していく衣文が、全て翻波式となっているが、全体に彫りが浅いためか、煩雑ではない。
唐招提寺金堂の本尊といえば盧舎那仏、その光背に無数についている化仏に似ているとは。

十一面観音菩薩立像 奈良時代、宝亀年間(770-780) 像高42.8㎝ 白檀 奈良国立博物館
同書は、髻の前にある頂上仏面、右方の牙上出面が笑みを含んでいるかにみえること、大笑面も怒りを含まず笑っていることなど、十一面観音像の中でも古様な表現がみられる。ちなみに宝亀年間(770-780)の作と考えられるという。
裙の深い波状の衣文の間に浅い衣文があり、翻波式衣文であることは明確である。

十一面観音菩薩立像 宝亀年間(770-780) 像高50.3㎝ 木造 大阪・道明寺
同書は、形式面では、神福寺十一面観音像や唐招提寺十一面観音像をはじめとする木彫群に共通した特徴をもつことが指摘され、作風面では唐招提寺金堂の本尊や梵天・帝釈天像の面貌との共通性が説かれている。これより制作期はおおよそ宝亀年間(770-780)頃と推定されている。
以上の指摘をもとに考えれば、本像も鑑真和上がもたらした仏像の影響下にあることは確かで、檀像風でありながら柔らかな着衣部の表現が見られる点において特に伝獅子吼菩薩像に共通し、そこから展開した像との位置づけも可能となるという。
唐招提寺の伝獅子吼菩薩立像と同様に、裙の下部にわずかながら翻波式衣文がある。


見つけた翻波式衣文の見られる仏像はそのほとんどが鑑真和上来朝以降のものだったが、来朝以前から唐から将来された仏像に翻波式衣文があり、その新しい様式を採り入れて制作されたものもあったのだった。

     唐招提寺の奈良時代の立像は

関連項目
平安前期の立像は
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文
翻波式衣文はどこから

※参考文献
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「天平展図録」 1998年 奈良国立博物館
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社