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2016/05/24
唐招提寺金堂の仏像と翻波式衣文
翻波式衣文は、鑑真和上が将来したものではなく、それ以前から日本の仏像にも用いられてきた様式だった。
では、鑑真和上が造立した唐招提寺の金堂に安置されている3体の巨大な仏像には翻波式衣文はあるのだろうか。
盧舎那仏坐像 奈良時代、天応元年(781)頃 像高304.5㎝ 脱活乾漆造・漆箔 義静
『カラー版日本仏教史』は、力強い新しい作風を示すのが唐招提寺金堂の盧舎那仏坐像である。量感を強調したなで肩で幅の広い体つきは、唐・天宝年間(742-755)の作例にもみられ、そこに鑑真渡来にともなう唐影響が認められる。着衣の表現は、写実的な表現を基調としながら、細部の装飾性が増し、一段と成熟した様相をみせる。緊張感にとんだ雄渾な作風は、世俗臭の漂う盛唐期の作風とも一線を画し、天平後期における最高の製作水準を示すという。
翻波式衣文については言及されていないが、図版で見る限りでは、はっきりとわかる翻波式衣文は採り入れられていない。
同書は、新渡の唐風を積極的に受容した、官営工房の仏工による製作であろう。台座内の各所に残る署名のうち、「造」を冠する漆部造弟麻呂・物部広足は官営工房の仏工と考えられ、中国人名とみられる「練奥子」は鑑真に従って渡来した唐の仏工と解される。本像の造立者と伝える唐僧義静は、天平宝字4-6年(760-762)の同寺造営に関与しており、本像も8世紀第3四半期の製作と思われるという。
正面向きではわからなかったが、左袖には翻波式衣文がある。そういうと、以前に唐招提寺の仏立像にみられる翻波式衣文を調べたことがあったが、その使用は極めて限定的だった。
それについてはこちら
唐招提寺草創期の仏像には、翻波式衣文は見られるが多用することはなく、自然な着衣の襞ということを表現を目指していたようだ。それだけでなく、この像の着衣の柔らかな質感は、脱活乾漆によって制作されたということもあるだろう。
千手観音菩薩立像 8世紀末 木心乾漆・漆箔 像高535.7㎝
同書は、像高が5m余りある巨大な像で、丈八(一丈八尺)というわが国では珍しい大きさの像で、実際に千本の手をつけている(現在953本)。頭には頭上の仏面をはじめ十面を戴き、顔には縦に一眼を刻む。面相はやや角ばり、眼球の膨らみをはっきりと、鼻は太く短めに、上唇はめくれるように表している。制作期は、本尊に遅れる8世紀末頃と考えられるという。
制作時期が四半世紀ほど異なるだけで、盧舎那仏のきりっとした顔立ちから柔らかな表情へと変わり、三道も異なっている。
そして、翻波式衣文はというと、どうもなさそうだ。
大腿部が極端に張り出すようなこともなく、肩から脚部まで、ほとんど同じ幅で制作されている。
やや斜めから撮影した図版には、脚部はなかった。
薬師如来立像 平安時代、延暦15年(796)-弘仁6年(815) 木心乾漆・漆箔 像高336.0㎝ 如宝造立
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、奈良時代以前の薬師如来と同様に薬壺は持たない。顔は大きめで、首はきわめて短い。衣端には大きな翻りはなく、股間の衣文線もほとんど真っ直ぐに下りていくので、静謐にたたずむ感がある。左掌から延暦15年の「隆平永宝」が発見されたため、この年に近い時期の造立と考えられている。また『唐招提寺建立縁起』によれば、鑑真和上の弟子の如宝の造立とされるので、如宝の没年である弘仁6年が制作年代の下限となるという。
8世紀末の千手観音立像の容貌とも異なっている。
左袖に翻波式衣文はあるのだろうか?
どうやら翻波式衣文は、金堂の仏像ではあまりないか、あっても非常に限定的なようだ。
東大寺法華堂不空羂索観音立像に翻波式衣文←
関連項目
平安前期の立像は
翻波式衣文はどこから
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文
唐招提寺の四天王像
※参考文献
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社