ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2019/06/14
安倍文殊院 渡海文殊群像
奈良桜井市で歩いた順番からいうと最後に行った安倍文殊院だが、記事としては最初になる。
現在の安倍文殊院の南西の方向に、古い安倍寺跡が史跡公園になって残っている。
南東より
桜井市教育委員会作成の説明パネルは、この地域一帯は、阿部氏一族の本拠地であったといわれ、氏寺である安倍寺(崇敬寺)の建立は山田寺の創建時代(641-85年)とほぼ同じ頃で「東大寺要録」では阿部倉梯麻呂の建立であると伝えています。
ほぼ伽藍が整備されたのは阿部朝臣御主人(みうし)の時代だということもわかってきました。
また寺の範囲は約200m四方で、伽藍は南面し、東に金堂、西に塔を配し、北に講堂という法隆寺式、あるいは川原寺式に近いようですという。
東の金堂跡
石段を上がって基壇を写すが、礎石の残る気配はない。
西の塔跡
基壇上には四角い石や丸い石状のものが幾つかあるが、中央の丸いものは古いものではない。
礎石が一つだけ北に残っていた。
壇上から西を見ると、両側の石段が回廊へと続き、中央の低い部分には西門があったのだろう。
塔基壇上より金堂跡。
どちらも小さな建造物だったようだが、法隆寺西院伽藍と比べると、2つの建物の間隔が広くとってある。
案内図に従って、安倍文殊院へと向かっていると、畑の向こうに立派な屋敷が残っていた。すぐ先のT字路を左折してしまったので、近づけなかったが。
背後の山は談山(かたらいやま)のある多武峰?
程なく右折。安倍文殊院の山門は奥にあるのだった。
境内図
参道を突き当たって左折、奥の石段を上がると、
正面が本堂で、拝観受付は左向こう。
本堂の最奥部の壇上に大きな渡海文殊群像が安置されている。壇と同じ高さまで上がれるし、ガラス張りでもないのだが、奥行があるので、博物館の展示のようには間近では見られなかった。
『国宝文殊菩薩』は、当山の文殊菩薩は、獅子に乗るお姿でその総高は7mと、現存する日本の文殊菩薩の中では、最大の大きさを誇ります。そのお姿は、獅子に乗る文殊菩薩を中心として、左に優填王が獅子の手綱を執り、右に仏陀波利三蔵(須菩提)と、最勝老人(維摩居士)が前後に侍し、この一群を善財童子が先導する渡海文殊の群像です。
この渡海文殊群像は、文殊様が説法の旅に出られ、おりしも、雲海を渡るお姿を表したものと云われております。文殊像が伴われる4人の侍者は、学説的にはいくつかの説があり必ずしも統一されている訳ではありませんが、当山においては、古来より善財童子、優填王、維摩居士(最勝老人)、須菩提(仏陀波利三蔵)と名付けられておりますという。
『国宝文殊菩薩』は、天長5年(828)に創始された国家的規模の法会であった文殊会は『文殊師利般涅槃経』の経説に基づいて貧窮孤独の人々を救済することを目的に、畿内七道諸国において広く実施されたその社会福祉事業としての性格は、文殊の化身とされた行基の活動内容を受け継いだものだったとみられます。
重源上人は東大寺大仏殿の再興を締めくくる総供養の御仏として、行基菩薩即ち文殊菩薩の造立を発願されたのです。
平安時代から東大寺と当山は本寺と別格本山で別院という極めて重要な関係にあり、加えて既に平安時代から当山が、重源上人が信奉する阿弥陀如来を本尊として、大和における阿弥陀信仰を広げる念仏聖の根本道場となっていました。
そういった理由が根本にあって、重源上人は日本最大である文殊菩薩を、本山・東大寺の仁王像を造立した快慶によって、別院の安倍文殊院へ造立し、東大寺総供養の日に合わせ、渡海文殊群像の開眼法要をする計画であったと考えられるのですという。
獅子の口や鼻、目の周囲の赤い色が際立っているが、お堂の中では、文殊菩薩の坐す蓮台は、紺色に截金の葉脈のある蓮弁に見え、左足を置く小蓮台は緑色に葉脈が截金で表されているように見えた。
ところが図版で、文殊菩薩の坐す蓮台もやはり蓮弁は緑色で、葉脈が截金で表されていることも判明。色の見え方も光によってさまざま。
着衣の彩色もよく残っているし、透彫の宝冠の細工もみごと。
善財童子像 高134.7㎝
同書は、華厳経における善財童子の物語によると、彼は生まれながらにして賢いと評判の子供でした。ある時、善財童子は文殊様が大衆を相手に説法される所に遭遇したのです。
文殊様の説法を聞いた彼はいたく感動し、仏の教え、悟りを得たいと発心するのです。
そこで彼は、文殊様に弟子入りを志願する訳ですが、文殊様は自分の決心を絶対に変えないという熱心な彼の心を汲み弟子にするのでした。しかし、文殊様が彼を弟子にするには大きな条件がありました。それは、弟子になったからといって文殊様の元で仏道修行に励むのではなく、仏の悟りを得るため文殊様が教導される五十三人の善知識に出会い、その教えの中から自分自身で仏の教えを体得するという条件だったのです。
こうして善財童子は文殊様に指示された五十三人の善知識を訪ねる旅に出たのでした。
彼は、ただひたすらに仏の教えの道を求め、悟りを願いその苦難に耐えるのです。
彼は、至るところで道を問い、言葉を聞き、悟りの姿を見つけたのです。真に悟りを求める為には自らの心の城を守り、城を飾らなければならないことを学んだのでした。
こうして、五十三人の善知識を訪ね終え悟りを得た彼は文殊様の元に返りくるというお話ですという。
この物語について、詳しくはこちら
渡海文殊群像の場面は、善財童子が善知識に会い、普賢菩薩にも会った後のことだったのだ。
風でなびくような着衣の表現は、先導して歩きながら、ふと右側を向いて何かを見つけたみたい。遠くを見つめる玉眼の目が印象的だった。
この群像の配置が当初と異なっていたとしても、目線の高さを考えると、善財童子は振り返って文殊菩薩を見上げるということはしていなかったことになる。
『日本国宝展図録』は、善財童子によく保たれている入念な彩色や、金箔を細く切り、文様の形に貼りあわせた截金など、みるべき点が多いという。
善財童子像は一番手前に置かれていたが、見られる位置からの距離と、堂内の暗さのため、彩色が残っている程度にしかわからなかった。
裾の方は、平安仏画の様々な文様を細い截金で表したものとも異なり、特別な文様のよう。
それに各襞の内側にも金箔の跡が彩色と共に残っている。造られた当初はどんなに華麗な衣装だったのだろう。
最勝老人は維摩居士像 桃山時代・慶長12年(1607)
同書は、般若系の経典の一つである『維摩経』に維摩居士と文殊菩薩の有名な法論の話がのっています。
ある時、お釈迦様は維摩居士が病気であることを知り、この見舞いに仏弟子を慰問させようとしました。
お釈迦様は、十大弟子や諸菩薩を遣わそうとしますが、その任に適さないと誰もこれを受け入れず、遂に文殊様が維摩居士の病床に訪ねることになったのでした(この部分はかなり端折っています)。
維摩居士は文殊様の来るのを知り、部屋に臥床で静かに待ち、ここに二人の法論が始まったのでした。
この法論の結果は、そこに参加した全ての者に大きな感動を与え、維摩居士もまた文殊様の説くその法に感動して文殊様を褒め称えるという物語で、このような関連から当山では維摩居士が文殊菩薩の侍者としておられるのです。
ところで、当山の維摩居士像は、作者が快慶仏師ではありません。
永禄6年(1563)に焼き討ちにあい、維摩居士像は焼失してしまいました。
慶長12年(1607)に当時の一流仏師であった宗印仏師によって現在の維摩居士(最勝老人)像が造立され本堂に安置されたのです。
因みに宗印仏師は、巨像として知られる奈良吉野の金峯山寺の秘仏本尊・蔵王権現像を完成させましたという。
仏陀波利三蔵(須菩提)像
同書は、バラモン僧、仏陀波利ははるばる西国から中国に入り、文殊様の聖地である五台山にやって来ました。
『仏頂尊勝陀羅尼経』を取り、永淳2年(683)西京に請来して皇帝に奏聞し、勅を受けてこの経を日照らと共に翻訳したのです。日照の訳した経は宮内に入ったまま外に出ないので、仏陀波利はご利益の失われることを心配し、再訳して五台山に赴いたのでした。仏陀波利は『仏頂尊勝陀羅尼経』を五台山に請来した功績により、文殊様に会うことが出来、今なお五台山の文殊様の住家である金剛窟に留まっているとされていますという。
右腕から下がる着衣にも彩色が残っている。
優填王像
同書は、各種の文殊菩薩関連の経典や物語にもその名前は全く出てきません。しかし、華厳経の新訳本が、優填国の僧によって成されるなど、華厳経が密接な関係にある事から、文殊菩薩の侍者として執りいれられたものと思われますという。
渡海文殊群像はそれぞれが個性溢れた造形の群像なのである。
文殊菩薩と善財童子← →聖林寺 十一面観音像
参考文献
「国宝文殊菩薩」 日本三文殊第一霊場 安倍文殊院
「国宝法隆寺展図録」 1994年 NHK