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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/01/13

養久山1号墳・丁瓢塚古墳の次は箸墓古墳

 
丁瓢塚古墳養久山1号墳が箸墓古墳の相似形なら、箸墓古墳は是非見てみたい。

箸墓古墳は三輪山の近くにある。 前方部の先端に沿って畦道程度の通路があった。低い生け垣がまわっていて、立ち入り禁止らしい。 中ほどに行ってみると、鳥居と共に屋根付きの立て札があった。
「孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命 
大市墓
1、みだりに域内に立ち入らぬこと
1、魚鳥等を取らぬこと
1、竹木等を切らぬこと
宮内庁」と、なんの説明もない内容だった。「箸墓」の「は」の字もないやん。地図ではここが箸墓古墳のはずやのになあ。
『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』には箸中山古墳(箸墓)となっている。箸墓は俗称だったのか。 そのまま進んでいくとやがて坂になって堤に出る。
こちら側には池があり、確かにクビレ部が曲線になっている。やっぱり箸墓古墳やん。いくら干上がっているとはいえ、ここは歩いて良いものか。

同書で石野氏は、箸中山古墳は、3世紀末の全長280mの大王墓である。その築造年代は、一部に3世紀中葉説があるが、容認できない。宮内庁が所蔵する円丘部墳頂の壺型土器や特殊器台、あるいは前方部の特殊器台とによって、3世紀の後半、より厳密には第4四半期、暦年代は280~290年と考えている。したがって、邪馬台国がヤマトにあって女王ヒミコの墓がヤマトに築かれたとしても、それは箸中山古墳ではない。可能性としては、次に女王となったトヨがふさわしいという。卑弥呼の墓でもなかった。  戻って、箸墓古墳に沿った道路を歩いてみよう。 ところが、クビレ部には車が置いてあり、写真が撮りづらかった。その上後円部は建ち並ぶ民家の裏側になっていて、歩くところがなかった。 結局池の北側から箸墓古墳を眺めるしかなかった。瓢塚や養久山1号墳と違って、古墳が森になっているので、2つの古墳と同じ形かどうか判断できない。 同書は、100mの幅の周濠、円丘部に接した幅10mの内堀という。円丘部の直径も前方部の長さも記されていないが、ほぼ同じ長さに見えるので、約140mの後円部と同じくらいの幅の内濠、周堤、外濠が巡っていたことになる。古墳の大きさに対して周濠がえらく大きいように思うが、専門知識がないだけで、ひょっとするとこんなものかも。  こういう図を見ると瓢塚や養久山1号墳の形に似ていることがわかる。
養久山1号墳は山上にあるので周濠はなかっただろうが、瓢塚古墳には周濠が巡っていたのだろうか。

※参考文献
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」051)
宮内庁作成の立て札