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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/02/26

敦煌莫高窟20 427窟に四天王像、金剛力士像、そして新たな三世仏


北周期の428窟に隣接して隋代に427窟が開鑿された。
莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

427窟 隋代(581-618)
平面図では前室は窟門もなく開放されているようだが、見学した時は下図のように木造の建物のようになっいて、内部も柱や梁も木材で、天井は化粧屋根裏になっていた。
『敦煌莫高窟2』は、この窟は前室と主室がそのまま残っていて、隋代では最大。前室は幅6.8m、奥行3.4mで、三間四柱の宋代の木造建築であるという。
崩壊した窟前半を南宋期(1127-1279)に修復したのだろう。

入るとまず巨大な天王像群に圧倒された。
同書は、南北各塑造の天王2体は高さ約3.6mで宝冠を戴いている。四天王像四方を護る仏法の神である。東方は持国天、南方は増長天、西方に広目天、北方に多聞天が配されている。
西壁の両側には塑造の金剛力士像があり、高さ約3.7mで宝冠を被り、上半身は裸、披巾に裙をまとう。四天王と金剛力士は隋代に新たに加わった像である。それらの像は宋代に重修されている。
また前室窟頂には宋代の涅槃変相図があるが、その中に隋様式の涅槃図があるという。
壁画や天王像なども宋代の色彩の特徴を示している。
中国で邪鬼を踏む天王像を見るのは珍しい。四天王像や金剛力士像が加わったのは隋代からだったのだ。では、北魏時代の北石窟寺165窟前の天王像は何?

北壁東側で宝塔を左手で掲げているのが多聞天、西側は広目天、
427窟前室 隋代と宋代 『敦煌莫高窟2』より

南壁西側のこの像は増長天、東側は持国天だろう。
427窟前室南壁西側 広目天及び邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

持国天の踏む邪鬼
427窟前室南壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

広目天の踏む邪鬼
427窟前室北壁西側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

多聞天の踏む邪鬼
427窟前室北壁東側 邪鬼像 隋 『敦煌莫高窟2』より

邪鬼は日本のものに比べると人間ぽい。
日本の四天王像が踏む邪鬼については下の関連項目参照のこと

『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。

中心柱東向き壁 釈迦三尊像 
前室の巨大な二天像や四天王像を見た衝撃で心が落ち着かないまま主室に入ると、これまた背の高い三尊像が立ち塞いでいるのに驚くことになる。しかもその背後が中心柱だとは気付かなかった。それは主室壁面のほぼすべてが千仏で覆われているので、空間的な把握ができなかったこともある。
床から2段の反花と一重の受花の蓮台があり、その上に現在仏の釈迦と二菩薩が立っている。釈迦の着衣は通肩で、体の線が出るくらいに薄くて密着している。

とりあえず千仏だらけの天井や壁面の中を、中心柱を左繞していった。
427窟 東向き壁仏三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱北向き壁 
図版にはないが龕内には説法する塑像、龕外には二菩薩が描かれている。細身の菩薩たちは、それぞれの身の動きで描かれるが、左手には水瓶を下げている。
427窟 中心柱北向き龕外 二菩薩図 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱西向き壁
龕内には釈迦が説法し、右手には若々しい阿難が女性のように美しく表されている。通肩の衣を着けた阿難は珍しいのでは。
427窟 西向き龕内 阿難像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱南向き壁の説法像
龕内には年老いて痩せた迦葉が合掌している。
主室前半人字披天井のところに未来仏の弥勒三尊像が安置される。三尊像が前方に傾いているのは、信者に顔がよく見えるように造られているからだと、黄土高原の石窟めぐりでお世話になったガイドの丁さんが言っていた。 
427窟 中心柱南向き龕内 説法する釈迦と迦葉 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

南壁 未来仏の弥勒三尊像
『仏教美術のイコノロジー』は、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているというので、莫高窟にはもっと巨大な仏像も2体あるが、窟内の大きさからすると大像として表されたのかも。
その隣の何も描かれていないところには何があったのかが気になるなあ。
427窟 主室前半南壁 弥勒三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

中心柱を回って主室に戻ると、左右の側壁にも大きな三尊像が立っているので、三世仏であることを知るのである。

萩原哉氏の三世仏の造像-鐘山石窟第3号窟の三仏を中心としては、三世仏は本来過去仏(過去七仏の一体)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)だったが、賀世哲氏は、敦煌莫高窟の三世仏造像について検討を加えるなかで、莫高窟には北涼時代以来、過去七仏中の一仏と、現在仏・釈迦、未来仏・弥勒の三尊で構成される三世仏造像の伝統があったこと、過去仏として阿弥陀仏をあらわす新たな三世仏は、隋代造営の第276 窟に出現し、以後、唐代を通じて盛んに造像されたこと、そして、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊で構成される新たな三世仏の出現と流行の背景には、隋唐時代に隆盛した阿弥陀浄土信仰の影響が認められることなどを指摘しているという。 

北壁 過去仏の阿弥陀三尊像
427窟 主室前半北壁阿弥陀三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

主室最下段には供養者図が一巡する。


関連項目
東大寺戒壇堂の四天王像

参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館

2021/02/19

敦煌莫高窟19 428窟は一仏二弟子二菩薩像の最初


莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌莫高窟の428窟(北周)と427窟(隋)は、隣り合う中心柱窟で、それぞれの特徴がそれぞれの時代の様式を表している。
敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

428窟 北周期(557-581)
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。
中心柱四面龕内には結跏趺坐する如来が説法する様子を表現している。如来の顔は四角く、着衣は褒衣博帯という。

『中国の仏教美術』は、この時代を代表するのは第428窟である。莫高窟の北周塑像もまた、坐像にあっては胴長、全体としては頭部が大きめで、いわゆる童子形といえるという。
やはり中心柱を右繞する通路の天井はラテルネンデッケが並んでいる。
428窟中心柱東向き壁 釈迦説法像 北周 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

龕外にいるのは菩薩で、天王ではない。龕内には、上図では釈迦の右手に阿難が、下図では釈迦の左手には迦葉という十大弟子の最年少と最年長が釈迦の説法を聴いている。
『敦煌の美と心』は、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
なんと、そうだったのか🤗 一仏二弟子二菩薩という群像の成立は北周期だったのだ。
428窟中心柱東向き壁 一仏二弟子二菩薩像 北周期 『中国の仏教美術』より

どの図版にも阿難と迦葉を写したものがないので合成してみたが、若い阿難はそれなりに見分けることができるものの、『中国の仏教美術』では、清代の彩色もあって、年老いた雰囲気が伝わってこない。
428窟中心柱東向き壁 一仏二弟子二菩薩像うち阿難と迦葉 北周期

主室北壁
人字披天井とは、切妻天井で、頂部に平たい部分がある中国式の天井のこと。
この狭い三角形の頂部にも、説法図が描かれているが、千仏の下にはもっと大きな説法図が描かれているのが、下図に部分的に見える。
428窟前室北壁 釈迦説法図 北周 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

説法図の続きには千仏の下に仏伝図が並ぶ。 
『中国の仏教美術』は、北周の莫高窟において顕著な現象は、本生、仏伝、因縁といった、小乗仏教的な壁画主題の扱われ方に変化が生じた点である。5世紀に造営された現存左の窟からも北周が敦煌を治める6世紀中頃にかけて、多くの場面を連続して表す形式の小乗的主題は、後壁や側壁といった石窟内の目立つ部分に描かれている。しかし、6世紀後半の北周時代にそれらは前壁に移され、やがて追いやられるようにして天井に表されるという。
428窟北壁 千仏と仏伝図  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

仏伝図としては、

釈迦説法図の左に降魔成道図
『シルクロードの仏たち』は、釈尊が菩提樹の下で禅定に入り、成道(悟り)の時が近づくと、マーラー・パピヤス(波旬)が現れた。マーラーは欲望を満たしてくれる最高神で、釈尊のように欲望を棄てようとする菩薩にとっては邪魔者である。降魔は悪魔のマーラーとその一族が降伏する意味で、降魔の後に釈尊は清浄な四禅定と呼ばれる状態に至ったという。
428窟北壁 降魔成道図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

涅槃の場面
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期壁画の中では唯一の涅槃図。釈迦は沙羅双樹の下で涅槃に入り、右脇を下にして臥しているという。
キジル石窟では中心柱の奥の壁面には必ず涅槃図あるいは涅槃像があるが、この窟では西壁に描かれている。釈迦の足をさすっているのは、説法に出掛けていて釈迦の涅槃に間に合わなかった迦葉。顔料が変色してしまって、人物の顔貌は想像もできない。
横向きに臥しているのに、その足だけは上を向いている。こんな絵が私は好き😊
428窟西壁 仏涅槃図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

『シルクロードの仏たち』は、インドでは古代から輪廻が信じられてきた。過去における前生の出来事の物語-これをジャータカ(本生譚)と呼び、釈尊が過去における別の生涯で善行をした物語が多い。初期仏教(上座部)では「ジャータカ」が多く、大乗仏教が盛んになると「仏伝」(釈尊の生涯)が比較的多くつくられるようになったという。

スダーナ太子本生図
自分の持ち物を請われるままに与えてしまうスダーナ太子の物語。
『敦煌莫高窟1』は、上段は白象をバラモンに求められたため与える太子の場面。中段は宝象に乗ったバラモンたちが国に帰り、太子にもらったことを告げる場面。下段は太子が山に入り修行する場面を表すという。
428窟東壁北側 スダーナ太子本生図 北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

サッタ太子本生図または捨身飼虎図 
左上の場面では、太子は寝そべったが、弱った母虎は食べることが出来なかった。その右の場面では、自分の首を落として崖から飛び降り、肉体が砕けた状態で地面に落下したので、母虎も子虎たちも肉を食べて生き延びることができた、というような話。
下段では、そのことを聞いた2人の兄が遺骨を拾い、国王が供養塔を建てたという。
428窟東壁南側  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

盧遮那仏 南壁中層
『敦煌莫高窟1』は、通肩の袈裟を着けた盧舎那仏は、立ったまま説法をしている。左右には眷属の菩薩たち、敦煌莫高窟で最初期の盧舎那仏説法像であるという。
大乗仏教の毘盧遮那仏は隋代に登場する。上座部仏教の本生図などもあって、その分岐点が428窟なのだった。
428窟  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

同書は、袈裟に描かれた絵画は、「欲界」を表している。上部は天で、仏像、天宮、阿修羅、飛天。
大衣の裾までの中部には人界の4場面。赤い衣文線で4つに分けている。
下部は無間地獄で刀の出た山、剣の池、餓鬼などが表されている。図の下には供養者が描かれているという。
428窟  北周期 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より 

北魏による長期の統治の後、東魏、北周、隋と短い政権がころころと建っては滅んでいった。短期ではあっても、それぞれの時代の特徴が仏教美術に表れている。


「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健監修・山田樹人著 1990年 里文出版

2021/02/12

中心柱窟とは


これまでに見学した石窟の中には、中心柱窟は幾つか見てきた。最初に行ったのは敦煌莫高窟だが、歴史的にはキジル石窟の中心柱窟の方が先行する。

キジルの中心柱窟
貴重書で綴るシルクロードの西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什(以下『貴重書』)は、主な構造には中心柱窟・方形窟・僧房窟の三種があるが、中でも特徴的なのは中心柱窟であるという。
『中國新疆壁畫全集 克孜爾1』(以下『克孜爾1』)は、初創期(3世紀末-4世紀中頃)に中心柱窟は出現しているという。

発展期(4世紀中頃-5世紀末)の38窟でみていくと、細長い矩形の平面のかなり奥に中心柱が彫り出されている。
キジル石窟38窟の外観と平面図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『キジル大紀行』は、中心柱の手前の大きな部屋は「主室」、後ろ側には「後室」と呼ばれる小さな部屋があり、この二つの空間は「側廊」と呼ばれるトンネル状の通路で結ばれている。このような主室と後室をトンネルで結ぶ石窟形式はキジルで生まれ、後に敦煌や雲崗、龍門など中国の主要な石窟寺院に受け継がれていったという。

『貴重書』は、これは主室・中心柱・回廊の三部分からなり、壁面構成はほぼ一定している。この構造は、以下のような礼拝プログラムにもとづく、一種の舞台装置だ。
窟内に立ち入った者は、まず主室において釈迦の前世や在世時の所行に思いをめぐらしながら、中心柱の本尊釈迦仏を拝するという。
釈迦の前世譚(本生図)や仏伝図が前室下部の側壁に描かれていたようだ。
当時の人々は、釈迦が前世に行った自己犠牲などの話や釈迦の生涯が描かれた絵画を辿り終わってから、釈迦如来を拝んだ。
しかし、現在ではそれらの壁画はよくは残っていなかった。
その後、この図版には写っていない左の通路から後室へと向かうのだが、当時の人たちは小柄だったのだろうか、狭くて天井の低いキジル石窟の側廊を通る時は、どこかに触れてしまいそうだった。
キジル石窟38窟の前室と中心柱の釈迦 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『貴重書』は、ついで中心柱の周囲に穿たれた回廊を右まわりにまわって中心柱を礼拝し、後廊において釈迦の涅槃を目にするという。
左回廊から後廊に回ると、後壁には大きく涅槃図が描かれている。
釈迦の足をさすっているのは臨終に間に合わなかった迦葉。
キジル石窟38窟後室後壁の仏涅槃図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『貴重書』は、そこで無仏の世に生きる自らを思いながら回廊を出ると、主室入口上部に描かれた未来仏たる弥勒を観るというものだ。
中心柱の左右および後部は天井の低い回廊となっており、その壁面には供養者図や僧侶図、ストゥーパ図、涅槃関係の図などが描かれるという。
主室に戻ると、出口の上に弥勒菩薩が描かれていることに気付いた。
キジル石窟38窟前室扉口上の弥勒説法図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

『克孜爾1』は、三面頭飾をつけ、臂釧、瓔珞などの装身具をつける。胸前で説法印を結ぶ。半円形の上部には建物が描かれ、弥勒の両側には菩薩たちが説法を拝聴している。これは兜率天で弥勒が説法する情景を描いている。この壁画は、精細な描写といきいきとした表現で、キジル石窟でもこれほどの優品はないという。
弥勒の説法を聞きながら、菩薩たちはそれぞれの身振りで一人一人がその感動を表している。
キジル石窟38窟前室扉口上の弥勒説法図 『中国新疆壁画全集 克孜爾1』より

敦煌莫高窟の中心柱窟は、キジル石窟と同様に窟の後方に中心柱がある。中心柱の周囲は平天井、その前には人字坡天井となっている。
また、莫高窟は、鳴沙山の東端は大泉河が浸蝕した南北に連なる崖になっていて、そこに窟群が開鑿されているので、開口部は東向き、正壁は西壁となっている。
敦煌に現存する最古の268・272・275窟(北涼時代、397-439)には中心柱窟はなく、北魏統治期(439-534)から造られるようになるが、隋代(581-618)で終了する。
敦煌莫高窟北朝1-4期石窟平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


莫高窟254窟 北魏時代(439-534)の立面図と平面図(見上げ図、天井の装飾)
中心柱は主室後方に、前半は人字披天井で、キジル石窟と同様に礼拝する人々のための空間。
 254窟 北魏 立面図と平面図(見上げ図) 『敦煌莫高窟1』より

中心柱の向き壁及び南向き壁
東向き壁には涼州式偏袒右肩の如来交脚像、南向き壁には2段に穿たれた龕の上側に交脚の菩薩像が残っている。
中心柱4辺の側廊天井には、区画ごとに装飾を凝らしたラテルネンデッケが並んでいる。
ラテルネンデッケについてはこちら
『敦煌莫高窟1』は、高さ1.87mの如来は説法している。光背は火焔と飛天、化生童子。龕内には両側に3段にわたり、各10体の供養菩薩が描かれる。龕頂には飛天が描かれる。龕の外、北側には天王像が1体残っているが、これは当時新出のものであるという。
二天像あるいは仁王像、金剛力士像と呼ばれるものは、敦煌莫高窟の254窟から始まったということかな。
254窟 北魏 中心柱東向き壁の如来交脚像 『敦煌莫高窟1』より

288窟 西魏(535-557)
窟門が崩壊して、前室が露出している。主室は後方に中心柱がある。主室前半は平面図では分からないが、人字披天井となっている。
288窟 西魏 平面図 『敦煌莫高窟1』より

中心柱東向き龕
『敦煌莫高窟1』は、窟頂の楣飾(中国語のまま)化生童子は花盆を捧げている。両側にはそれぞれ5体の供養菩薩跪いて供養の花を持っているという。
中心柱の4辺の平天井はラテルネンデッケが並んでいる中心柱の上部や通路の壁面には千仏が貼り付けられているが、人字披天井のある主室前半には釈迦説法図などが描かれている。
東向き壁の如来は倚像で、龕の外側で二天が護り、龕の下では薬叉たちが護っている。
288窟 西魏 中心柱東向き壁 如来倚像及び二天像 『敦煌莫高窟1』より

北周と隋時代の中心柱窟が並んでいる。

敦煌莫高窟 427・428窟平面図 『敦煌莫高窟1』より

428窟 北周期(557-581)
『敦煌莫高窟1』
は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。
中心柱四面龕内には結跏趺坐する如来が説法する様子を表現している。如来の顔は四角く、着衣は褒衣博帯という。

『敦煌の美と心』は、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
やはり中心柱を右繞する通路の天井はラテルネンデッケが並んでいる。
428窟の他の特徴については次回
428窟 北周期 中心柱東向き壁 釈迦如来坐像 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

427窟 隋代(581-618)
『敦煌莫高窟2』は、主室前半は人字披天井、後部は平天井で、北朝の中心柱形式にのっとっている。しかしながら変化もあり、中心柱正面には龕がなく、大型の仏立像が安置されている。一仏二菩薩の組み合わせで、蓮台の上に立つ。中尊は紅色で袖口の広い大衣をまとい、高さは4m余りあるという。
三世仏の三尊像が主室3箇所に大きく彫り出されているので、その背後に中心柱があることに気付かないくらいだった。
427窟はほかにも面白いものが残っている。それについては次回
427窟 東向き壁仏三尊像 『中国石窟 敦煌莫高窟2』より

雲崗石窟第6窟 中期窟(470-494)
雲崗石窟の第6窟も大きな中心柱窟で、清代に彩色されていた。
王母宮石窟の中心柱窟について『世界美術大全集東洋編3』は、王母宮石窟は隴東地区の石窟中では早期のもので、構造は中心柱窟、造像は雲岡中期、とくに第6窟にきわめて近い。雲岡様式が西へ伝播した例といえようという。

その6窟の平面図がないので、代わりに同じ中期窟で双窟となっている9・10窟の平面図
雲崗石窟9・10双窟平面図 『敦煌莫高窟2』より

中心柱には各面に大きな如来立像が安置され、脇侍菩薩は小さく、側面に表される。
中心柱に龕が穿たれるというのではなく、四隅の千仏の並ぶ塔のような四柱によって支えられている。
雲崗石窟 6窟中心柱 南面及び東面 如来立像 『雲崗石窟2』より

王母宮石窟の中心柱窟は、如来は結跏趺坐しているが、中心柱が雲崗石窟6窟のように、四隅は層状の柱風になっている。

中心柱窟は、敦煌莫高窟では隋時代を最後に造られなくなるが、雲崗石窟では中期窟に出現し、彬県大仏寺では初唐期の中心柱窟があるなど、ところによっては遅くまで造られているようである。

関連項目

参考サイト

参考文献
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治 2000年 NHK出版
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中國新疆壁畫全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国石窟 雲崗石窟2」 雲崗分物保管所 1994年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣

2021/02/05

法隆寺大宝蔵院 百済観音像


大宝蔵院は塼が敷き詰められた中庭を囲む4つの棟からなっている。南棟は出入口で、まずは左手の東棟から仏像群を拝観していき、その突き当たりで玉虫厨子の四面を見た後は北棟へ。北棟の中央には宝形造の百済観音堂が造られている。そこには百済観音像だけがガラスケース内に安置されて、四方から眺めることができる。
百済観音は何度か拝見したが、その度に惹かれていく、不思議な仏像である。

百済観音 飛鳥時代 像高209.4㎝ 木造・彩色
『法隆寺』は、丸みをおびた全身からは柔和な優しさが漂う。頬の輪郭、やや小さめに浅く刻まれた口辺、眼と眉の間を少し広くした感じなどは女性的で温雅である。
頭・体部・足下の蓮肉部まで樟の一材からなり、面部から上半身にかけては、乾漆の盛り上げがほぼ全面に施されているという。
この手法は木心乾漆だろう。木心乾漆は脱活乾漆の後に造られるようになり、平安時代にはなくなった技法だと思っていた。
古都奈良の名刹寺院紹介、仏教文化財解説など木心乾漆のお話は、乾漆の厚みが薄いとはいえ乾漆を均一に塗らなければ干割れを起こすため容易な作業ではありませんでした。が、逆に「法隆寺百済観音像」は上半身に施された「木屎漆」が細かい干割れを起こして、その影響でお顔の表情が憂いを富んだ柔和な感じになっており、それが日本女性の感性を揺さぶってうっとりさせる原因となっておりますという。

『法隆寺』は、上半身の肉付け、棟や下腹部のかすかな盛り上がり、天衣の表面を側面へ向け鰭状の突起を前後にする表現、肩にかかる垂髪の側面へのひろがり、さらに宝珠形の光背を竹竿を模した支柱に取り付けるなど、側面からもみられることを意識している。また浅い彫りで表現された衣の重なりや裾の部分にみられる柔らかな布の感じは、飛鳥時代前期の木彫像である夢殿安置の救世観音が、深めの彫り口で正面性を基調としているのに比べ対照的であるという。
特に、正面では細くやや鰭状の天衣が、側面から見ると帯のような天衣が腕のはいごからゆるい曲線を描いて先が前方に向く。正面からは予測できない鋭さで、天衣は幾重にか折りたたまれて、下方で開きかげんで2つの端が開いているのだ。

『法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録』(以下『金堂壁画と百済観音展図録』)で三田覚之氏が「百済観音像誕生の謎」で、この時にもよく見なかった、或いははっきりとは見えなかった百済観音の装身具の細部を、東京国立博物館(以下東博)の法隆寺献納宝物の灌頂幡との比較されている。

「百済観音像誕生の謎」は、百済観音の宝冠から垂れ下がった冠繒と灌頂幡天蓋の蛇舌上部に見られる唐草文様の共通性であるという。

冠繒とは冠から両脇に垂下する帯状のものである。

「百済観音像誕生の謎」は、その文様が灌頂幡天蓋の蛇舌上部の文様と共通性があるという。
法隆寺献納宝物灌頂幡図解 『法隆寺宝物館』より

「百済観音像誕生の謎」は、描き起こし図で比較したように、複雑な唐草の巻き込み方が両者で一致しているという。
灌頂幡天蓋と百済観音冠繒の唐草文様の類似点 法隆寺 百済観音展図録より

「百済観音像誕生の謎」は、この宝冠は明治44年(1911)に法隆寺内の土蔵から発見された。どこまでこの宝冠がオリジナルの状態を保っているかについては慎重を要するが、臂釧・碗釧とともに灌頂幡の意匠を共有していることから、改めて像本体と本来一具であることが確認できるだろう。
重要なのは、灌頂幡について資材帳に記されていることである。これにより具体的な日時は不明ながら、片岡御祖命という人物が灌頂幡を奉納したことがわかる。百済観音像もまた片岡御祖命の周辺で制作が進められ、同時期に法隆寺へ奉納された可能性がみえてくるという。
灌頂幡坪堺金具と百済観音の臂釧碗釧の類似点

「百済観音像誕生の謎」は、化仏を戴く宝冠は『観無量寿経』に由来する。同経には「その天冠の中に、一の立てる化仏あり」とあり、坐像と立像の違いはあるが、浄土思想にもとづく造形であることがわかる。
青い玉の付いた花形の鋲は後補であり、本来は簡素な銅鋲であったと考えられるという。
青い玉を見つけたと思っていたのに🤔
柔らかい笑みが口元にはあるが、全体の表情としては不可思議😮
眉から頰の膨らみなどの表現は救世観音よりも自然になっている。

「百済観音像誕生の謎」は、左手の水瓶だが、宮地治氏によると、水瓶は本来ブラフマー(梵天)の持物であり、修行に励む行者的な性格を象徴する。グプタ朝時代からポスト・グプタ朝時代(5世紀中頃-8世紀中頃)になると、西インドの後期石窟において、水瓶を執る観音菩薩が見られる。どこにでも赴き、救いを垂れる観音菩薩の性格により、行者の持物である水瓶が選ばれたのだろう。
水瓶を執る観音菩薩は、浄土からこの世に現れた姿を意味しているという。
水瓶を持っているかどうかを菩薩を見分ける目安としていたが、こんな風に観音菩薩が水瓶を持つようになった歴史があったとは🤗

「百済観音像誕生の謎」は、同経の「この宝手をもって、衆生を接引したもう」という文言からすれば、百済観音像の仰いだ右手は、衆生を救い取るかたちを示すと考えられる。
また、西村公朝氏は「現在は何も持っていませんが、掌には、何かを固定していた小さな枘穴があります。これはおそらく、如意宝珠をささげ持っていたのでしょう」と述べられており、修理技術者の貴重な証言として注目されるという。
百済観音はどんな如意宝珠を持っていたのだろう。救世観音の持つ火焔宝珠?左手の水瓶と同じく木製のものだったかも。

頭光は宝珠形
中心の八葉単弁蓮華文はふっくらとした花弁で、稜線が浮き出ているが柔らかな雰囲気。この蓮華が瓦から採用されてモティーフだとしても、型づくりの軒丸瓦の蓮華とは比べようもない。
その外側の幅の狭い区画には、おそらく五色だったと思われる線が配される。その外側の2つの区画の文様はよく分からない。
一番外は火焔文で、上へ上へと炎が昇っていくように、宝珠形の下の方に同心円文を置いていて素晴らしいデザイン😊

頭光の支柱
「百済観音像誕生の謎」は、竹を模した百済観音像の光背支柱には、その根元に4つの山岳が表されている。肥田路美氏が考察されたように、山岳はこの世の表象であり、山岳を伴った仏はこの世に現れた姿を示している。特に観音菩薩の場合は補陀洛山を意味する可能性があるだろう。像に対して小さすぎるようにも見えるが、『観無量寿経』は観音菩薩の身長を「80万億那由他由旬」としており、小さな山岳との対比において広大無辺な姿が強調されている。支柱自体が竹をかたどっているのも「材木は欝茂して地草は柔軟なり」(『華厳経』)という補陀洛山のイメージにもとづくと考えられるという。
竹のように節や皮を彫り出しているのに、最下部は山を表しているようで不思議だった👀
百済観音像頭光の支柱部分 法隆寺金堂壁画と百済観音展図録より

「百済観音像誕生の謎」で三田覚之氏は、様式的に見た百済観音像の制作年代はどうだろうか。百済観音像の造形をみると、法隆寺金堂本尊の釈迦如来像に代表されるような止利仏師の様式には属しておらず、側面鑑賞性や自然な肉取りにおいて進歩がみられる。このため、止利仏師を重用した蘇我氏が滅んだ後、大化以降から斑鳩寺火災以前あたりを想定するのが現在の基本的な見方と思う。およそ645年から670年が想定されているわけである。
灌頂幡と一具として制作された以上、百済観音像は当初より法隆寺に安置されていたのであり、江戸時代以来その存在が確認できる金堂内陣北側こそ、本来の安置場所として相応しいと。
金堂の建立以来、山背大兄王の追善像たる百済観音像が安置され、聖徳太子の追善像である釈迦如来像とともにあったと考えるが、果たしてそれが妥当な推定かどうか、古代史の大きな謎の前で、百済観音像は微笑みを湛えて立ち続けていると締めくくられている。

東廊を足早に進み、その南端の雲斗雲肘木などをゆっくりと鑑賞するひまもなく、4時半ぎりぎりで大宝蔵院を出た。
奈良時代の食堂と綱封蔵に光が当たり、桜の紅葉が朱塗りの木材と同じ色だった。

前にも拝観を終了したのは日暮れ時だったように思う。
法隆寺の有料区間から出てしまったとはいえ、日が沈んでしまわないかと心配で、足早に歩く。それは、藤ノ木古墳も見ておきたかったから😄 欲張り🦔
次に来る時はもっとゆとりを持って拝観できるように来よう、といつも思う😅


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関連項目
参考サイト

参考文献
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社・NHK 2020年 朝日新聞社・NHK発行