お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/02/29

山田寺東面回廊から連子窓


『奇偉荘厳 山田寺展図録』によると、治安3年(1023)、藤原道長が山田寺を訪れて後、あまり年月を経ずして11世紀前半には、東斜面の土砂崩れによって、東面回廊から南面回廊の東半、宝蔵が倒壊してしまった。発掘調査で出土した東面回廊は、その時の様子を生々しく伝えている。ただ、不幸中の幸いというべきか、金堂の被害は食い止められたようであるという。
写真に撮らなかったが、山田寺の東側には崩れるような山は見当たらなかった。御破裂山が破裂したのだろうか?御破裂山から土石流が押し寄せたのではないかという説もある。山田寺址の東北部に駐車場があるので、宝蔵に続いて、連子窓の出土した東面回廊址の基壇は近い。同展図録によると、回廊外側柱筋に腰壁と連子窓を設ける。東西の回廊は中央の12間目に扉が開く。
1982年の発掘調査では、東面回廊が倒壊したままの状態で出土した。北から13・14・15間目が最も残りがよく、出土材に材を補足して回廊の再現が可能になった。これにより、法隆寺をさかのぼる寺院建築の様相が明らかとなった。基壇は花崗岩や安山岩の自然石を立てて並べる。礎石は、花崗閃緑岩製で、方座と円形の蓮華座を造り出す。蓮華座には12弁の蓮弁が彫られる。地覆石は流紋岩質溶結凝灰岩(榛原石)を使用。扉口は、地覆石を回廊内側に広げ、軸摺穴が穿たれ、穴底には鉄製の軸受け金具と、座軸を保護した金具が残っていた
という。その13~15間目の石組みの様子が再現されている。 昨秋、飛鳥資料館では、『奇偉荘厳 山田寺展』で出土物と新たな部材を組み立てて、当時の回廊を復元展示してあった。ところが、新春に再び訪れると、同じ物が常設展となっていて、カメラ撮影可だった。 3間分だけとはいえ、迫力ある展示です。 そしてこちら側が回廊内部。出土した木材が並べてあった。7世紀の寺院では、本薬師寺、法隆寺など方座や円柱座のみを造り出した礎石や、川原寺のように方座上に円柱座を造り出した礎石はあるものの、山田寺のような装飾的な蓮弁は例がないのだそうだ。単弁の花弁が12枚で円柱の周りを巡っている。組物は平三斗で、大斗上で虹梁と肘木を相欠きに組み合わせる。組物上に断面角形の桁をのせる。虹梁上には叉首組をのせ、上の三斗組で棟木を受ける。棟木と桁に垂木をかける。垂木は丸垂木で一軒(ひとのき)。  ・・略・・  垂木の上に野地板を張り、垂木先端上には瓦座を兼ねた茅負(かやおい)を置き、瓦を葺いたという。本当に古い建物ほどすっきりとした組物やねえ。この中も通り抜けることができます。 こんなものも出土していた。回廊隅部では棟が直角にあたるため、双頭鴟尾をのせていたのだ
という。お寺の塀の隅を思い浮かべても、このような鴟尾がのっていたどうか、よく見ていなかったことが判明しただけだった。出土物とはいえ、現存の法隆寺よりも古い建築物が、復元できるくらいに残っていてなによりです。

※参考文献
「奇偉荘厳 山田寺展図録」(2007年 飛鳥資料館)

2008/02/27

山田寺といえば仏頭


飛鳥資料館の2007年秋期展は『奇偉荘厳 山田寺』だった。 同展図録によると、治安3年(1023)には、藤原道長が高野山と南都諸寺参詣の途上に山田寺を訪れ、金堂内の様子を「堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず」と記し、  ・・略・・  驚嘆ぶりを伝えている(『扶桑略記』)という道長の言葉が特別展のタイトルだった。望月の欠けたることのなしと言ったあの道長をして「奇偉荘厳」と言わしめたほどの金堂はとうになくなり、講堂跡の西北部に観音堂が建っている。鬼瓦の銘文によれば、元禄15年(1702)の再建だけが残っている。
発掘調査で金堂の壁画断片が発見されたが、何が描かれていたのかよくわからない。仏像の衣文だろうか。そして、仏頭は興福寺にある。なぜかというと同展図録によると、興福寺は、治承4年(1180)平重衡の南都焼打によって、伽藍の大半を焼失した。すぐに復興工事が始められ、東金堂も文治元年(1185)頃には再建されたが、本尊の造立は難行し、仏師の選定などもめていたという。『冊子興福寺』によると、文治3年(1187)東金堂衆が無断で仁和寺宮領の山田寺に押しかけ、講堂の金銅丈六薬師三尊像を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという暴挙が行われた。事件は和解されたが、応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祭祀されたという。この仏頭は、道長が驚嘆した金堂にあったのではないし、薬師如来だったのだ。  同展図録によると、興福寺に持ち去られた仏像は、幾度か災害に見舞われ、本尊も頭部を残して失われた。発掘調査によれば、金堂・塔は12世紀後半から末頃に焼亡しており、興福寺の東金堂の僧乱入の時期にも重なる。講堂も中世以前に焼失しており、興福寺僧の乱入時に山田寺が焼き討ちされた可能性も指摘されているらしい。
『冊子興福寺』によると、東金堂とともに被災し、幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座の中に納められ、昭和12年に発見された。造立年代が明らかであり、白鳳彫刻の基準作として高く評価されるという。 同展図録によると、『上宮聖徳法王帝説』に「誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。13年辛丑春3月15日、浄土寺を始む、と云々」と記される。「浄土寺」とは山田寺の別名に他ならない。「13年」は舒明13年(641)を指す。発願者は蘇我倉山田石川麻呂。蘇我氏の一族であるが、大化改新の際には本宗家の蝦夷・入鹿を滅ぼすことになる。石川麻呂は山田の地を本拠地としており、そこに一族の寺を造営しようとした。  ・・略・・しかし、大化5年(649)石川麻呂は謀反の疑いをかけられ、造営中の金堂前で自害した。  ・・略・・
本格的に工事が再開するのは天武朝(672-685)に入ってのことである。遠智媛の娘で、石川麻呂の孫にあたる皇后菟野皇女(後の持統天皇)の力が特に大きかったと考えられる。  ・・略・・ 天武7年(678)には丈六仏像が鋳造され、天武14年(685)には、石川麻呂37回目の命日にあたる3月25日に開眼法要が営まれた
という。
そのような山田寺は、現在は発掘調査の後、当時の伽藍配置を示す盛り土と、いくつかの説明パネルで当時を表していて、そこでは子供たちが走り回っていた。駐車場の近くの復元図には塔は五重塔とされている。 同展図録では、天智2年(663)塔を構える。天武2年(673)塔の心柱を建てる。心礎に舎利8粒を納めると「塔」とだけ書かれている。 歩き回ってもこんなにはっきりとはわかりません。

※参考文献
「奇偉荘厳 山田寺展図録」(2007年 飛鳥資料館)
「飛鳥京絵図」(明日香村発行 やさしい考古学)

2008/02/25

蘇我入鹿の首塚

本堂で大仏さんを拝観した後は小さな西門から出る。こちらも整備が進んでいた。 
そして、1つの案内板があって、かつての西門はこの位置にあったことを知る。更に西へ。余りにもきれいになりすぎて違和感があるが、敷石の間に蘇我入鹿の首塚がある。板葺宮で中大兄皇子と中臣鎌足に殺された入鹿の首がここまで飛んできたという有名な話があるが、鎌倉時代になって五輪塔がおかれたとお寺の説明にあった。 明日香村のどこかでもらった『飛鳥京絵図』には593~694年当時の飛鳥寺が創建当時の伽藍配置で表され、西金堂と中金堂(現安居院本堂)の間に首塚の位置が示されている。飛鳥寺の南には伝板葺宮が描かれている。飛鳥寺と板葺宮が意外と近い。飛んだという話ができるくらいの距離だ。西側には飛鳥川が流れ、低いとはいえ甘樫丘が南北に横たわっているため視線も遮られるが、南の仏頭山、東の御破裂山と共に飛鳥の地を三方から囲んでいる。
その後また飛鳥寺の境内を通り、車にもどって、教えてもらった通り、狭い道を北に向かったら、すぐに信号があり、3分半も待つこととなった。飛鳥巡りはレンタサイクルが便利やね。

絵図でいうとも水落遺跡の西にある小さな橋を渡って車を置き、甘樫丘へ上った。展望台から飛鳥寺を見下ろすとこんな感じです。付近の民家と見分けがつきにくい大きさ。「飛鳥京絵図」は後で入手したので、蘇我入鹿や父蝦夷の邸宅跡がどこにあるのかわからなかった。 

※参考
「やさしい考古学 飛鳥京絵図」 明日香村発行

2008/02/22

飛鳥の大仏さん


飛鳥寺の建物が596(推古4)年に完成した時点では、本尊はまだなかった。
『日本仏教史』によると、本尊となるべき銅造と刺繍の丈六仏(ともに左右脇侍をもつ三尊像)については『書紀』推古13年(605)条に、ようやく仏工の鞍作鳥により着手されたことを伝えている。その完成は『書紀』が翌14年、『元興寺縁起』所収「丈六光銘」は同17年(609)のこととし、一般には後者が正しいとされるという。そして、『日本史リブレット71飛鳥の宮と寺』によると、鳥仏師が釈迦像をつくったとき、大工などは扉を破壊しなければ堂内に搬入できないと、苦慮したが、止利の名案で無事に安置できた挿話が『書紀』にみえるという。日本での仏教寺院や仏像の草創期の苦心や工夫が伺える話だが、ちょっと笑ってしまう。

安居院本堂の東に続く建物に拝観受付がある。本堂に入るとたくさんの人が床に座っていて、説明を聞いていた。我々も端の方に坐った。説明が終わると、「写真を撮っていいですよ」と言われて驚いた。考えて見れば金属なので、写真を撮ったからといって劣化するものではないし、この阿弥陀仏坐像は、かなり補修されているからかも知れない。 しかし、大仏さんに近寄って熱心に祈っている人たちもいるので、好きなように撮るわけにもいかなかった。原形を留めないほどに修復されているとはいえ、飛鳥白鳳仏が好きなので、この大仏さんは私のお気に入りの1体である。今回はどのあたりが造立当時のものか確認したかった。
とりあえず、この大衣の衣文は飛鳥時代のものと違うなあ。薄暗いお堂で遠くから見ていた時は、左腕に掛かっているはずの大衣の端がどこにあるのかわからなかったが、近くに寄ってやっとわかった。左肩に掛かっていた(矢印の部分)のだ。法隆寺の小金銅仏の中に一光三尊形式の釈迦三尊像がある。『国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ』(以下『飛鳥のほとけ』)に、光背裏に刻まれた銘文から、戊子年(628)に「嗽加大臣」(そがのおおおみ、蘇我馬子または蝦夷)のためにつくられた像と知られる。  ・・略・・  止利派の工人たちの表現の幅をうかがわせるというこの像のように、飛鳥の大仏さんも造立当時は大衣を左腕に掛けていた(矢印の部分)はずだ。お堂の中に、炳霊寺石窟の北魏時代の如来像に、飛鳥大仏が似ているということで、写真が飾ってあった。いったい、飛鳥大仏はどこまで造立当時のものが残っているのだろう。『日本仏教史』によると、飛鳥・安居院に遺存する像(飛鳥大仏)はかつての中金堂の位置に安置されており、その台座を据えた凝灰岩の基壇も元のまま動いていないことが確認されている。したがって、中金堂本尊のことをさすと考えられる『書紀』の銅造丈六仏はやはり同像のことで、「丈六光銘」もその光背銘とみるのが穏当である。像の現状は大部分が建久7年(1196)の火災で破損した後の補作で、当初部は両眼と鼻、額を含む顔の上半分、さらには髪際や肉髻前面部の螺髪のいくつか、右手の第1-3指など、ごく一部の個所にとどまるという。
『飛鳥のほとけ』に伊東太作氏の復元図がある。たったこれだけだったとは思わなかった。 飛鳥寺の受付で買った『飛鳥歴史散歩』で寺尾勇氏は、室町中期には本尊の背をふいごで吹き抜いて銅を盗みとるものもあったという。鎌倉の補修後にも、とんでもないめに遭ったようだが、衣文や首の三道などは不自然なところもあるが、力強く表されており、継ぎ目も目立つとはいうものの、その時々に、できる限りの補修が行われたように思う。
目と鼻が造立当時のままということで、頬は後補なんや。その補修部にも大きく2箇所に短冊形の傷があることからも、散々な目に遭ってきたことがうかがえる。
そして右手。表面が荒れている方が補修された部分のようだ。
火災に遭った後、文政8年(1825)まで長年風雨にさらされて、造立時の部分はごくわずかなのに、今までよく残ったもんやね。

※参考文献
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「日本史リブレット71飛鳥の宮と寺」(黒崎直 2007年 山川出版社)
「国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ」(1999年 朝日百科日本の国宝別冊 朝日新聞社)
 

2008/02/20

飛鳥寺の一塔三金堂式伽藍配置は高句麗風


飛鳥寺も久しぶりに行った。国道169号線を近鉄岡寺駅前の交差点から県道155号線に入り、東へ向かうと亀石・川原寺跡・橘寺などの看板が左右に見過ごし、高市橋の先で石舞台古墳へと南に傾く155号線とも分かれ、狭くなった道を直進する。ところが先はT字路となっていて、飛鳥寺の標識も見落としたが、迷い込んで困ったと思いながら狭い道を北に行くと、飛鳥寺の有料駐車場の呼び込みにふらふらと入ってしまった。車を降りて飛鳥寺に向かうが、塀の前には飛鳥寺の広い駐車場が別にあった。飛鳥寺も東側から入るのだが、それも東大門などというような立派なものではなく、山門とも言えないような塀の開口部から境内に入り込むという感覚である。そんな入口なので、今回も写真を撮るのを忘れていた。入ってまず目に入ってくるのは刈り込まれた木々や鐘楼です。 『日本史リブレット71飛鳥の宮と寺』で黒崎直氏によると、飛鳥時代は、飛鳥寺(法興寺)の創建によってその幕が切っておろされる。588(崇峻元)年のことだ。その前年、「排仏派」物部守屋との権力争いに勝利した「崇仏派」の領袖蘇我馬子が、戦いに臨んで先勝祈願した「造寺」を、さっそくに実行したのである。蘇我氏の本拠地に造営されたこの飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺という意味だけでなく、わが国最初の本格的な伽藍寺院として、文化的にも歴史的にも大きな画期をつくりだした。
百済から派遣された僧侶や寺工(てらのたくみ)・瓦博士(かわらのはかせ)などの技術者たちの援助を受け、造営が開始された。  ・・略・・  596(推古4)年12月には「寺の造作がほぼ終了し、寺司(てらのつかさ)と僧2人が寺に住み始めた」と『書紀』は伝える。造営が開始されて8年目のことだ
という。
しかし、当時の建物は建久7年(1196)に落雷のため焼失したらしい(同書より)。 『国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ』(以下『飛鳥のほとけ』)によると、飛鳥寺は鎌倉時代初期の頃から急速に衰微した。日本最古の丈六仏が露坐のまま痛々しい姿をさらした時代もあったが、文政8年(1825)、この安居院(あんごいん)本堂が中金堂の跡地に建てられたという。
昔拝観した時は、左側から靴を脱いで本堂に入ったような記憶があるが、今回は西側から入るようになっていた。 黒崎氏は、飛鳥寺の跡は、今、明日香村飛鳥の「飛鳥寺」本堂周辺に広がる。  ・・略・・  発掘調査が行われ、  ・・略・・  塔を中心にして、北と東と西の三方に金堂を配置するという「一塔三金堂式」の伽藍配置が確認されたことだ。しかし、わが国に多くの影響をもたらした「百済」には存在せず、ようやく高句麗の古都「平壌」に所在する「清岩利廃寺」がそれで、八角形基壇の塔跡を中心に北・東・西の三方に「金堂」が配置されていたという。 百済の工人たちが日本に来て高句麗式の伽藍配置で寺を建てたというのは不思議やなあ。飛鳥寺の塔は四角形で五重というのは百済系?
飛鳥資料館の飛鳥寺に発掘調査についての画像がいろいろあります。
そういえば五重塔の心礎からガラス類が出土していたが、他にもいろんなものが出土していた。『飛鳥のほとけ』によると、蘇我氏が権力を握る用明天皇以前、すなわち欽明から敏達の時代には天皇家の中心はもっと東北の磐余(いわれ)にあった。それに対して飛鳥川流域に拠点をもつ蘇我氏が、あえてこの地に寺を建て  ・・略・・   
この場所については『日本書紀』にも、「飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)が祖樹葉(おやこのは)の家を壊ち(こぼち)て、始めて法興寺を作る。此の地(ところ)を飛鳥の真神原(まかみがはら)と名づく」 と書いてあります。渡来系の氏族の根拠地だったのですね。おそらく古墳があった場所で、そこを整地した際に出土したものを塔の心礎に納めたのです
ということだ。 魔除けや護符というような意味で心礎に納めたのではなかったみたいだ。
『金の輝き、ガラスの煌めき展図録』によると、硬玉系の勾玉や管玉がみられ、同時期の古墳から見ればやや伝統的な色彩が残る。歩揺のほかに藤ノ木古墳と同じ剣菱形飾り金具が出土しているということで、古い時代の古墳から出土したものであれば、飛鳥寺創建と同時期の古墳の副葬品と比べて流行遅れのものがあっても不思議ではないということでした。

※参考文献
「日本史リブレット71飛鳥の宮と寺」(黒崎直 2007年 山川出版社)
「国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ」(1999年 朝日百科日本の国宝別冊 朝日新聞社)
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「飛鳥の寺院-古代寺院の興隆-飛鳥の考古学図録⑤」(2007年 財団法人明日香村観光開発公社)

※参考ウェブサイト
飛鳥資料館の飛鳥寺

2008/02/18

当麻寺で中将姫往生練供養会式


東大門へと戻る途中に中之坊の前を通った。  ちょっと中をのぞいてみると、半分ほど開いた障子の隙間から寒山拾得図が部分的に見えた。昔来た時の記憶はここだったのだ。 『美術ガイド奈良』で、荒廃した寺院の境内らしからぬ雰囲気。  ・・略・・  村の老人たちのたたずむ様子に、すでに当麻寺のもつ一種独特の特殊性が流れているというように、東大門に近づくにつれ、お寺にいる気がしなくなる。冬なので拝観者以外の人はみかけなかったが、このような立て札があったり、立て札があるところに野良猫がたむろしていたりして、時は移り変わっても、当麻寺の持つ一種独特の特殊性というのは今でも受け継がれているみたいやね。そのような雰囲気で、東大門へと戻っているうちに忘れてしまいそうだが、この当麻寺は、見学非公開とはいえ、中国にも残っていない綴織の観経変相図があるだけでなく、金堂には日本最古の乾漆像の四天王像があり、日本最古級の梵鐘があり、日本最古の燈籠があり、東の三重塔は日本で二番目に古い上に、創建時のまま東塔・西塔が残る唯一の寺でもあった。

しかしそれだけではなかった。聖衆来迎の様子を表した當麻寺練供養というものが毎年行われているらしい。『當麻寺冊子』によると、 「當麻寺お練り」、「當麻れんど」、「迎講」と呼ばれるもので、寛弘2年(1005)叡山横川の恵心僧都が、「當麻曼荼羅を帰依し、中将姫の昔を慕って聖衆来迎の有様を見んがために、二十五菩薩の装束と仏面を作って、寄進したのにはじまる」と伝えられる。曼荼羅堂を西方極楽に擬し、その東方にある娑婆堂を人間界とし、その間、約150mの長い来迎の橋を渡す。まず中将姫の輿を極楽から現世の娑婆堂に移し、次に極楽浄土から二十五菩薩の聖衆の面や衣装を着けた人達が、人間界へ来迎し、そして、中将姫は観音菩薩の捧仕する蓮台に迎えられ、再び極楽浄土へと帰って行く儀式で、来迎引接の有様を再現するという会式が毎年5月14日午後4時から行われるそうだ。 小野浄土寺でもかつては迎講が執り行われ、このように菩薩たちが橋の上を練り歩いたのだろうなあ。

関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺冊子」 当麻寺発行
「週刊古寺をゆく35 当麻寺信貴山」 2001年 小学館ウイークリーブック
「美術ガイド 奈良」 町田甲一 1979年 美術出版社


2008/02/15

当麻寺には創建以来の東塔と西塔


当麻寺は東大門から入って本堂や金堂がある西へ西へと進んでいくが、門を入るとすぐに、南側に東塔が見えてくる。
『日本の美術77塔』で石田茂作氏は、木造三重塔は木造五重塔を三層で止めたままで構造的にはまったく同じである。  ・・略・・  法起寺三重塔につづいて古いのは、この塔である。奈良時代の製作といわれ、  ・・略・・  三手先斗栱により、軒は飛檐垂木(ひえんだるき)を添えた二軒(ふたのき)の制をとる。この塔で顕著な特徴は二層三層ともに二間にしていることと、相輪を九輪にせず八輪にしていることであるという。
『美術ガイド奈良』で町田甲一氏は、講堂その他の堂舎を整えて、東西両塔(天平、3間三重塔、東塔23.21m、西塔25.15m)に及んだらしい。東塔の方は平面逓減率が大きく、第二、第三重を方二間とした安定感のある塔姿をみせ、天平時代の造立を思わせるという。ということは、ちらっと見えている三層目の1つの面に組物(斗栱)が3つあるので、その間が2間ということやね。
東大門へと戻る途中、中之坊の白い塀の向こうから東塔を見ようと歩いていったら境内から出てしまい、残念ながら近づくことができなかった。金堂の南側にまわった時、燈籠だけを見るんやなしに、南に続く通路を進んだら東塔への道がわかったんやね。
西塔の方は本堂の西南に道がすぐにみつかった。
町田氏は、西塔は、組物も肘木などのびやかさを失っていて、年代も天平末期か平安前期頃と考えられるという。のびやかさというのはちょっとわからないが、組物がにぎやかに並んでいるように見える。確かに相輪は八輪でした。 石段を登り詰めて三重塔を見上げるとこんな感じ。 石田氏は、相輪を八輪にすること、軒組を三手先を用い、二重繁垂木の制によっていることは東塔と同じだが、一重二重三重とも方三間に造り、下層に間斗束(けんとづか)を置き脇間を白壁にしていることにおいて東塔とことなる。東塔よりややおくれて平安初期の製作といわれるという。そういわれると、東塔よりも組物が多く、煩雑な感がある。けんとづかは文字通り、斗栱の間にある短い柱のようなものです。尾垂木がたくさんあるように見えるのも、三間にして組物が多いからかも。奥の院まで行かなかったが、奥の院あたりまで行くと両塔が並んで見えるらしい。町田氏は、しかもそのプランが中門の外に配置される、東大寺などと同じ伽藍形式をとる点、天平後期に塔の整備されたことが想像されるという。
太原の永祚寺にある双塔(創建は明代)みたいなもんやね。でも、日本では塔が2基残っていることが少ないからか、双塔という言葉は聞かない。

関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺」 当麻寺発行
「美術ガイド 奈良」 町田甲一 1979年 美術出版社
「日本の美術77 塔」 石田茂作 1972年 至文堂

※参考ウェブサイト
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説などの垂木のお話斗栱と蟇股のお話