飛鳥資料館の2007年秋期展は『奇偉荘厳 山田寺』だった。 同展図録によると、治安3年(1023)には、藤原道長が高野山と南都諸寺参詣の途上に山田寺を訪れ、金堂内の様子を「堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず」と記し、 ・・略・・ 驚嘆ぶりを伝えている(『扶桑略記』)という道長の言葉が特別展のタイトルだった。望月の欠けたることのなしと言ったあの道長をして「奇偉荘厳」と言わしめたほどの金堂はとうになくなり、講堂跡の西北部に観音堂が建っている。鬼瓦の銘文によれば、元禄15年(1702)の再建だけが残っている。
発掘調査で金堂の壁画断片が発見されたが、何が描かれていたのかよくわからない。仏像の衣文だろうか。


『冊子興福寺』によると、東金堂とともに被災し、幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座の中に納められ、昭和12年に発見された。造立年代が明らかであり、白鳳彫刻の基準作として高く評価されるという。


本格的に工事が再開するのは天武朝(672-685)に入ってのことである。遠智媛の娘で、石川麻呂の孫にあたる皇后菟野皇女(後の持統天皇)の力が特に大きかったと考えられる。 ・・略・・ 天武7年(678)には丈六仏像が鋳造され、天武14年(685)には、石川麻呂37回目の命日にあたる3月25日に開眼法要が営まれたという。
そのような山田寺は、現在は発掘調査の後、当時の伽藍配置を示す盛り土と、いくつかの説明パネルで当時を表していて、そこでは子供たちが走り回っていた。


※参考文献
「奇偉荘厳 山田寺展図録」(2007年 飛鳥資料館)
「飛鳥京絵図」(明日香村発行 やさしい考古学)