ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2008/02/01
当麻寺で観世音寺を思い出す
当麻寺は20年以上前に行ったきりで、その時の記憶は、大和高田の町の軒をかすめるような狭い国道と、寒山拾得図の描かれた屏風を庭側から見たなあということだけだった。
今回は南阪奈道路の葛城インターから北上した。交通量の多い竹内街道の交差点を越えると間もなく当麻寺への交差点に来てしまい、そのまま左折してしまった。
ガイドブックを忘れたために、どこかに駐車場があったはずと思いながら、東大門まで来てしまい、左手の有料駐車場に車を置くことになった。ここまで来て、先ほどの交差点のところに駐車場があったはずと思い出した。たいした坂でもなかったので、そこに車を置いて、門前町の古い家並みを眺めながらここまで歩いてくれば良かったなあ。当麻寺はお寺にしては例外的に東大門から入る(當麻寺ホームページ境内図)。 東大門の向こうには、堂宇ではなく山が見えている。 仁王さんはいつの時代のものかわからないが、あばらが浮いていて、あまり強そうにないなあ。それにしても中途半端な金網。 境内に入ってもあまりお寺らしくない。右向こうの高低差のある2つの頂上が二上山らしい。
同寺発行の冊子によると、當麻寺の創立については、伝説の霞につつまれているが、推古天皇の20年(612)に用明天皇の皇子が河内国山田郷に一寺を建て、丈六の弥勒像を安置し、萬法蔵院禅林寺を草創、 ・・略・・ 天武天皇9年即ち白鳳9年(681)2月15日に起工した。同16年に至って、金堂、講堂、千手堂、東西両塔その他ことごとく成り、 ・・略・・ 寺号を當麻寺と改めたということだ。鐘楼は近づくにつれて赤い色がはっきりしてきた。細かい金網を通して梵鐘があるという程度に見える。立て札に日本最古、国宝梵鐘、白鳳時代とあった。あれ~、日本最古の梵鐘は太宰府の観世音寺にあるんやなかったかなあ。でも、これではせっかくの鐘が見えへんやないか。 観世音寺の鐘楼も金網で囲まれて違和感があっても間近にみることができたが、当麻寺の鐘楼は高いところにあるのでほとんどわからない。 観世音寺の立札には妙心寺の鐘のことは出ていても当麻寺の鐘はないなあ。しかし九博のウェブサイトで吉津晶子氏が連載梵鐘の響~鐘の音を聴くとき~第十回で、ここに日本最古級(白鳳期)の梵鐘があることはあまり知られていないということなので、確かだろう。また、梵鐘の響~鐘の音を聴くとき~第一回に観世音寺の梵鐘や菅公の七言律詩についての記事があります。 続いて左に金堂、右奥に講堂が見えてきた。正面に見えているのは本堂。でも、参道に自販機が見えているのはいかがなものか。
町田甲一氏が『美術ガイド奈良』で、かつてこの麓に恵心僧都源信が幼年時代を送り、静かな落日が二上山の山あいに沈むのを眺め、その体験が来迎思想、西方浄土思想普及となって大きな信仰展開をなしとげたという。その二上山下は、中将姫が美しくも華麗に織りなしたと伝える当麻曼荼羅のある当麻寺と表現した雰囲気とはほど遠いなあ。講堂はすっきりした組物やね。鎌倉時代、乾元2年(1303)の再建か。今日は催しがあるということで拝観できなかった。あ、前に燈籠がある。 金堂側にも燈籠を見つけて、ここでかなりのロスタイム。 参道の両側に燈籠が1対ある。 金堂側の燈籠は宝珠がなくなっている。基礎部に目を向けてびっくり。4弁の反花や。観世音寺の燈籠といっしょやないか。どちらも古いお寺なんで、あるものも似ているのかな。
しかし、『石燈籠新入門』という古い本に、江戸時代になると、まず、蓮弁の数が最少に切りつめられて四葉になっています。正面のものは小花です。つぎに、全体や各葉の力が一切なくなり、ぶ厚くバサバサしたものをあとからはりつけたような感じになっていますとあってがっくり。まさか江戸時代とは。 しかも観世音寺の燈籠も江戸期のものだということが判明した。
関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
当麻寺で中将姫往生練供養会式
※参考文献
「當麻寺」 当麻寺発行
「美術ガイド奈良」 町田甲一 1979年 美術出版社
「石燈籠新入門」 京田良志 1970年 誠文堂新光社
※参考ウェブサイト
當麻寺の拝観案内境内をみわたす