お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/02/04

当麻寺本堂に入ると


当麻寺は金堂と講堂が南北に並んでいる。ここにも1対の江戸期の燈籠がある。その西側に東を向いて本堂がある。このように変則的なのは、山麓という限られた境内だからだろうか。
当麻寺発行の冊子『當麻寺』には曼荼羅堂(国宝・天平時代)となっていて、本堂とも呼ばれ、曼荼羅信仰の中心となっている堂で  ・・略・・  その創立の時期は古く、しかも古い伝統の一方を保持しながらも、中世以後の信仰形態の変化に伴って、それへの適応が行われる時、金堂が現存しながら本堂が生じるのである。桁行7間(正面21m)梁行6間(奥行18m)寄棟造、本瓦葺で、東面して建っているということで、何故東向きなのかは書かれていない。
『日本の美術272浄土図』で河原由雄氏は、まず第1に当麻寺には古く、切妻造のほぼ同規模の堂が双堂(ならびどう)形式で2棟あり、天平末期か平安初期に、2棟の古材を転用もしくは則用して、現本堂位置の堂が正面7間の寄棟造に改造せられた。こうした改造は本曼荼羅を祀る六角形宮殿厨子を納置するためのものであって、厨子の細部に残る文様などの時代観点ともよくあい、また、この時か少し遅れた時期に堂の前面に孫庇(礼堂)が建て加えられたことは、本曼荼羅図を本尊とした新しい当麻寺史の開幕を物語っている。ついで平安末期の永暦2年に改造が加えられ、これが現存の曼荼羅本堂であり、このころから内陣に設置されていた曼荼羅厨子にも修理の手が加えられるとしている。
軒下は平三斗と間斗束が交互に並ぶ法隆寺講堂に似た様式だ。何やら屋根の上が寂しいなあと思ったら、寄棟造の棟が短く、鴟尾もないのだ。 石段を登って左側に拝観受付があり、内陣に入ると説明テープが流れてくる。『當麻寺冊子』には、堂内は、中央柱通しで内陣外陣に分けられ、天平様式を伝える二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)の架構をみせ、  ・・略・・  外陣の棟木には、永暦2年(1161)の墨書銘があるということだ。化粧屋根裏で地垂木は角形のようだ。
『週刊古寺をゆく35当麻寺信貴山』によると、 この須弥壇は国宝で、木造黒漆塗り。当麻寺曼荼羅厨子の大改修をおこなった際、須弥壇の框・束・木階(きざはし)に螺鈿で宝相華文の装飾をほどこし、木目を朱で描いたという。前面中央で見ていたが、螺鈿がところどころ残っている程度で、下図のようにきれい残ったものを見つけることはできなかった。
そして須弥壇に置かれているのが、当麻曼荼羅が掛けられた厨子である。同冊子によると、曼荼羅を安置する厨子で、横幅広く扁平で背の高い六角形の漆塗ということで、この扁平な形が珍しかった。
その厨子に納められている当麻曼荼羅(下図は中央部)には、このようにぴったりと金網に保護されていて、ほとんど細部はわからなかった。20数年前にも見たはずのこの当麻曼荼羅。記憶に残らなかったのは、こんな金網に覆われていたからだろうか。
このように厳重に保護して展示されている当麻曼荼羅はしかし、中将姫が蓮の茎で織り上げたといわれているものではない。建保5年(1217)に写された建保本を、更に文亀3年(1503)に写した文亀本と呼ばれているもののはずである。


関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺冊子」 当麻寺発行
「日本の美術272 浄土図」 河原由雄 1989年 至文堂
「週刊古寺をゆく35 当麻寺信貴山」 2001年 小学館ウイークリーブック
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社

※参考ウェブサイト
Schwedenplatz なんやらな?資料館より蟇股のちがい