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忘れへんうちに 旅編では、フランス南東部の旅を掲載中です。。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/02/08

一大決心して新薬師寺に行く



新薬師寺に行くのにどの駐車場に車を置こうかと言っているうちに、高畑町交差点を左折して県営高畑観光駐車場(地図は再び頭塔を見に行ったら の一番下にあります)を通り過ぎてしまった。とりあえず新薬師寺まで行くことにしたが、狭い道をあっち曲がりこっち曲がりし、いったいどこにあるのだろうと迷い込んだのが、新薬師寺の東門の筋だった。

この門も良かったが、寺の土塀もなかなかのものだった。

『週刊古寺をゆく6新薬師寺と春日野の名刹』は、寺の東土塀の北端にある1間1戸の切妻造りの門。四脚門のようにみえるが、創建当初は2本柱の簡素な建物であり、平安・鎌倉時代に流行した、貴族や武家住宅の棟門(むなもん)の姿をとどめ、そうした遺構の最古のものとされる。両側の土塀が門を支えており、塀に接する本柱は平らに削られているという。
塀が門(の土壁や屋根)を支えているというのは、見ただけでは気がつかないものだ。ロマネスク様式の教会が、天井の重みを支えるために、分厚い壁や扶壁が必要だったというのと同じことなのだろうか。引き返した空き地のようなところが新薬師寺の駐車場だった。 境内にはこれも鎌倉時代で重文の南門から入る。
5本のすじをみせた土塀を従えて、乱積み石の基壇の上に建つ。切妻造り、本瓦葺きの四脚門。正面中央虹梁(こうりょう)上にある両端が巻き上がった板蟇股(いたかえるまた)が珍しい。似たものが東大寺転害門(てがいもん)にある。創建年代は不明だが、様式から、鎌倉中期以後とみられるという。

残念ながら出入りするときは全く気付かなかった。下の写真は境内から撮った写真ですが、虹梁(門上部の横木)の上に板蟇股があることが、拡大するとかろうじてわかります。 南門をはいると両側に草や木が生えていて、奥に燈籠(室町時代)と簡素な本堂とがあった。それほど大きな建物ではなかったが、全体を入れて撮ることができなかった。えっ、これが本堂? と思うくらいシンプルなのは、天平19(747)年の創建当初の建築だからだ。
桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)5間。単層、入母屋(いりもや)造り。
本瓦葺きの屋根はゆったりと流れおち、屋根の反りは気づかないほどゆるやかである
という。
なるほど、ややこしい組み物や極端な軒先の反り返りがないので眼にも静かで、軽やかだ。
「屋根の鬼瓦も、奈良時代当初の特色として、角が生えていない鬼瓦があがっている」と同書にある。鬼面鬼瓦だとは気がついたが、角がないことまでは見ていなかった。ザルのような眼である。建物の簡素さに加えて、 丸地垂木(まるじたるき)も気に入った。垂木についてはホームページ「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」の垂木のお話が分かり易いです。 下の画像は拡大できません。本堂には西側から入る。中は撮影不可。天井がなく、白い化粧屋根裏が外からでも見えた。入ってすぐのところにある柱も、傷んだ部分に別の材を使って埋めてあるのだが、その形がそれぞれ面白かったので、仏像はともかく、それだけでも写させてほしかったなあ。
東大寺の戒壇院や二月堂に行くのを阻んだのは大仏っつぁんだったが、新薬師寺に行く気がおきなかったのは本尊のせいだった。今でこそ奈良後期や平安前期の仏像の時代づけが変わってきたので、ある程度許容範囲は広がったが、若い頃は平安前期、いわゆる貞観仏と呼ばれる塊量感のある作行きが嫌いだった上に、この本尊の気持ちの悪い顔立ちがなんとも言えずいやで、塑像の十二神将像を見たい気持ちよりも上回っていたので、新薬師寺に行く気がおきなかったのだった。
その上、奈良時代創建の寺の本尊が平安前期、眷属の十二神将よりも新しいというのがどうも変だ。当時の坊さんが売り飛ばしてしまったのだろうか?下の画像は拡大できません。
さて、内部に入ると化粧屋根裏が白いので明るく感じた。そして、等間隔にならぶ屋根裏の丸垂木が堂内の雰囲気を軽くしているように感じた。本尊はどっしりとしているし、他の像よりも高いのだが、その周囲の十二神将を見ながら一周できる配置だったので、本尊をあまり見ずに済んだ。
内部はまわり1間通りが外陣(げじん)で、中央は柱間(はしらま)3間分の直径をもつ白漆喰塗りの円形須弥壇(しゅみだん)がある。その中央に本尊薬師如来坐像が安置され、周囲を眷属(けんぞく)の十二神将立像が取りまいている。
十二神将はほぼ等身の塑像で、近くにあった岩淵寺(いわぶちじ)から移されたと縁起は伝える。
因達羅(いんだら)像の台座の墨書から天平年間(729から749)に制作されたことがわかる。宮毘羅(くびら)像のみが安政の大地震(1854年)で損壊したため、昭和の作に代わり国宝から外れている
という。

あれま、もともと新薬師寺にあったのではなかったのだ。この岩淵寺は、白毫寺のところに建造され、いつの頃にか廃絶したお寺のようだ。何時頃から新薬師寺にあるのだろう。
一番壊れやすいと言われている塑造の十二神将立像が、他の寺から移されてよくここまで残ったものだ。迷企羅(めきら、下写真左前)像が、名前はともかく顔が一番知られていると思う。それぞれの像は動きは過激ではないが、迫力がある。しかし思ったよりも小さな像だった。もっと小さなお堂に配されるように造られたのではないだろうか。


そして、この国宝の本堂が、かつて七堂伽藍を誇った新薬師寺の、どの位置を占める建築であったのかは、明らかではない。金堂でなかったのは確かである。衆僧の修行と生活の場である食堂(じきどう)とか、修法をおこなう壇場であったとの説があるという。
このお堂は金堂でもなかったのだった。 新薬師寺は数回火災に遭い、その度に建て直されてきたが、現在本堂と呼ばれるこの建物は、創建以来、立て替えられることなく、当時の建築様式を今に伝えているわけだ。手前の2本の柱には彩色が微かに残っている。 最後に、同書から新薬師寺の創建についての説明をあげておきます。
この新薬師寺は、聖武天皇の眼病平癒を祈願して光明皇后が9間の仏堂を建立。七仏薬師像を安置し、その胎内に仏舎利5粒、 ・略・ を納めた。新薬師寺の「新」とは「新しい」ではなく、「あらたかな」の意味である。
いつも奈良博や旅のついでのようにしかこの辺りのお寺に行っていないので、一度じっくりと白毫寺、新薬師寺、東大寺の二月堂・三月堂・戒壇院、続いて正倉院までゆっくりと見て歩くということをしてみたいなあ。
小さなリュックを背に、元気に歩き回っている中高年の人たちがたくさんいて、その人達よりは少し若い我々が車で回っているのはちょっと情けない。中高年が歩くのは山だけではないのです。

※参考文献

「週刊古寺をゆく 別冊6 新薬師寺と春日野の名刹」 2002年 小学館
岡本茂男氏以外の写真は小川光三氏のものです。
また、十二神将の名称は文化庁の指定名称に従いました。お寺では違った名前になっているようです。