ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/02/10
騎馬が先か戦車が先か
騎馬像を探して遡る2に書いたように「前12-9世紀に乗用の馬をもつ遊牧民の活動が開始され、前9-8世紀には馬のもつ機動力を利用して、多数の羊、山羊、馬を飼育する遊牧社会の成立がみられた」ということで、騎馬の上限がこのあたりだと思っていた。そして、騎馬よりも馬車あるいは馬に牽かせた戦車で移動や戦闘をおこなう方が先だとも思っていた。それは、私の知っている範囲では、馬に牽引させた馬車(荷車または戦車)を表したものが騎馬像よりも早くから現れていたからだった。
44 馬車模型 青銅 イラク、テル・アグラブ出土 前3千年紀前半 バグダード、イラク博物館蔵
残念ながら、この像からは、物資を運ぶ車両を後ろにつけていたのか、戦車の一部なのかわからない。45 ウルのスタンダードより戦車図 イラク、ウル王墓出土 ウル第1王朝時代(前2500年頃) 大英博蔵
ウルのスタンダードにはこれ以外にも戦車が数台表されている。私はこの図を見るたびに、ウマの背中に乗っているネジは何だろうと不思議だった。『ウマ駆ける古代アジア』でこれが「手綱とおし環」というもので、ながえの上につくものであることがわかった。4頭のウマの手綱をまとめるためのもののように見える。ウルの墓より銀製のものが出土しているらしい。このように馬車が前3千年紀に出現し、騎馬像はずっと時代が下がるので、牽引する馬車の方が、馬に乗るよりも、馬を使いこなす上では容易なのだろうと思っていたのだった。
ところが、『ウマ駆ける古代アジア』は、ウクライナのデレイフカから前4000年頃の骨や鹿の角製のハミ留が出土した。特別に埋葬された馬は臼歯にハミ使用の痕跡らしいものがあるらしい。そして川又氏は銜留が出土するのに銜が出土しないのは、腱とか革とかの有機物であったからという。
また、この銜の使用は、牽引か騎乗か駄載か。この設問には騎乗と推定する人が多い。橇や犂や車両が発見されていないということと、ウマ家畜化を考えるとウマやウシのような足の速い大型獣の大群を放牧(柵でかこった牧場を使うのではない)するには、騎馬が必要だからである。またウマを狩る、あるいは捕獲するにも、ウマに騎るほうがつごうがよいと、馬車よりも騎馬の方が早かったと考えられているようだ。
車輪というものを造る、あるいは発明するのは容易なことではなかったのだ。なるほど、44・45共に車輪はスポーク(輻式)ではなく、円盤状にした板(板車輪)だ。より原始的なものにはこしきがなく、車輪と車軸が一体で回転するものさえあったということだ。馬車がそんなに大変なものなら、簡単なハミやハミ留があれば、ウマに騎って駆ける方が簡単かなとも思った。
しかしながら、松川節(大谷大学文学部助教授)氏の「モンゴル草原の祈り」第2回(テーマ1のその2)10月3日:遊牧のしくみは、しかし近年,デレイフカ遺跡の年代決定にはさまざまな疑問が提起されており,この遺跡だけをもってウマ利用を紀元前4000年に遡らせるには無理があるというのが最近の学界動向という。川又氏の『ウマ駆ける古代アジア』だが、現在は絶版になっていて、復刊ドットコムで復刊リクエスト投票が行われているようだ。しかし、出版されて13年ともなると、発掘や研究はかなり進んでいるだろうし、その上記のように当時とは見解が異なってくることもあるだろう。
『ウマ駆ける古代アジア』の続編が出ることを願っている。
※参考・引用文献
「ウマ駆ける古代アジア」 川又正智著 1994年 講談社選書メチエ11
「世界美術大全集16西アジア」 2000年 小学館