ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/02/05
再び頭塔を見に行ったら
数年後新薬師寺を拝観に行った後、割合近くにあるので、その後頭塔はどうなっているだろうと行ってみた。前回は福田さんに鍵を開けてもらったが、この時は仲村表具店の方が現地管理人になっていた。昔の風情を遺した狭い通りにも今時のお店が進出していた。
仲村さんに鍵を開けてもらい、狭い通路を通っていくと、見えてきたのは土留めと雑草で、その先にはやたら新しい瓦と石が整然と並んでいた。復原というのはこんな風にすることだったのか。頂上には五輪塔が据えられている。
東面の説明板など、親切なのは良いのだが・・・
北面には屋根付きのデッキがあり、そこからは全体を見渡すのが難しい。 このようなパネルがあるので、どこにどんなものがあるか分かり易いかというと、はっきり言って上の方は段が邪魔して見えないし、見えたとしても遠いので何かわからない。 北西の角から見るとこんな感じ。遺跡というより公園みたいで、通路に手すりがなかったら登っていたと思う。これでは上の方の仏像は見えへんやんけ。双眼鏡を持って行っても見えへんやん。
「これから頭塔を見学する方には、潜望鏡か空飛ぶ絨毯を持って行かれることをお勧めします」と、あまりにもきれいになりすぎて切れまくった私でした。 どうどう by夫
仏像はんもなんやらうそっぽい。右下は19 浮彫如来及両脇侍二侍者像(番号は上のパネル通りです。以下同じ)南面はまだ木が残って未整備だが、このままの方がよいと思う。 9 浮彫如来及両脇侍二侍者像 前回も見ました。2 浮彫如来及両脇侍二侍者像 15 浮彫如来坐像 これは前回見たものと同じはずだが、色が違う。きれいに洗ったのだろう。ところでこれらの浮彫仏像の製作年代について、パンフレットは、往時の頭塔は、第1・3・5・7の奇数段4面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていたと考えられています。そのうち28基が現在までに確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩が表されています。そのうち当初から露出していた13基が昭和52(1977)年6月11日に国の重要文化財に指定され、また1基が郡山城の石垣に転用されています。その後の発掘調査で平成11(1999)年までに新たに14基の石仏が発見され、うち9基が平成14(2002)年6月26日に国の重要文化財に追加指定されました。
石仏の図像は、A上方に宝相華の天蓋があり、下方に供養菩薩を配した如来三尊仏を刻むもの。B楼閣を背にして三尊仏を配し、菩薩・比丘を加えた3ないし5体の群像を表すもの。C如来坐像1体の周囲に小仏を多数配置したものなどがあります。
これらは、数少ない奈良時代後期の石仏として美術史上きわめて貴重なものといえるでしょう
という。
何に書いてあったか定かではないが、東大寺の八角燈籠の菩薩に作風が似ているらしいので、参考までに『芸術新潮 1993年4月号』より音声菩薩です。 新たにもらったパンフレットより、手前が北、森のある方が南です。それにしても、頂上に五輪塔があるのは何故だろう。奈良時代に五輪塔はなかったはず。Wikipediaにも「日本において五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃と考えられている」とある。 今回は奈良教育大の東にある新薬師寺に先に行き、その駐車場に1時間なら車を置いても良いということなので、頭塔まで歩いていった。
関連項目
頭塔を見に行ったら
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続)
※参考
「芸術新潮 秘蔵拓本が語る新・奈良古寺巡礼」(1993年4月号 新潮社)