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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/11/30

小野浄土寺浄土堂のもう一体の阿弥陀像は



浄土寺の人が言った浄土堂の阿弥陀三尊立像の中尊とは別にもう一体あるという阿弥陀立像は「大勧進 重源」展に出ていた。浄土堂の本尊と同様に光背が非常に簡素であるが、身光・頭光の外側に来迎雲に乗った化仏が計9体付いている。 

阿弥陀如来立像 木造・漆箔 像高226.5㎝ 鎌倉時代、建仁元年(1201)
『大勧進重源展図録』は、阿弥陀仏が諸菩薩を引き連れて浄土から来迎する様子を演劇的に再現する儀式、迎講(むかえこう、来迎会)の本尊として造立された。上半身は裸体、下半身にのみ裳を着用しており、来迎印を結んで立つ。迎講に際しては布の衣を着せ、台車にのせて動かされたと考えられる。その用途に配慮して、半丈六の大像にもかかわらず非常に軽量に仕上げられている。
また『浄土寺縁起』には、迎講始修の翌年にあたる建仁元年に「来迎具足」一式が製作されたことが記されている。その冒頭に安阿弥陀仏すなわち快慶の作として掲げられる「中尊八尺立像」が本像にあたり、建久6年(1196)頃完成の浄土寺浄土堂阿弥陀三尊像と同様、阿弥陀信仰を介した重源との深いつながりの中で、快慶がその技量を存分に発揮した名作と位置づけられる。宋代仏画の影響が色濃い浄土堂三尊に対し、本像は快慶独自の彫刻様式がより顕著に示されており、目尻をあげた凛々しい面立ち、みずみずしい張りをもつ肉身の描写はまことに精彩に富む
という。

そう言えば、浄土堂の阿弥陀如来立像の光背にもあったが、二重の光背の間にある丸いものはなんだろう。迎講で上の阿弥陀仏が引き連れる諸菩薩について、同図録は、建仁元年に阿弥陀如来像とともに、菩薩面27面が、やはり快慶の手で製作された。そのうち25面が現存したものという。同展では、15面が展観されていたというが、横長のケースにずらずらと並んでいて、来迎する聖衆という雰囲気は感じられなかったのは保存という点から仕方のないことだろう。

菩薩面 木造彩色 長18.9~20.8㎝ 鎌倉時代、建仁元年 
迎講というものが、どのように執り行われていたのだろうか。
東大寺の播磨別所・浄土寺では、迎講が重源による正治2年(1200)の始修以来、昭和10年(1935)に至るまで断続的に行われてきた。
重源の六百年遠忌を記念して、文化4年(1807)に修された際の記録では、浄土堂の南に仮殿を設け、仮殿と舞台をつなぐ35間の長さの橋をかけて、八角の台にのった来迎の阿弥陀像を先頭に、仮面をかぶって菩薩に扮した30人ら60人の聖衆の行列がその上を通ったという
という。

浄土寺で迎講を始めたのは重源さんだったのだ。阿弥陀聖衆来迎図などから想像していたものとは異なった、にぎやかなものやったらしい。

そうそう、浄土寺にも重源像がありました、見たのは重源展ですが。


重源上人坐像 木造彩色 像高82.5㎝ 鎌倉時代、天福2年(1234)
同展図録は、その表情や着衣の制、ポーズ、細部の衣文表現にいたるまで、東大寺像を克明に写したものであると考えられる。
像内に墨書があり、智阿弥陀仏の勧進により、天福2年2月15日に南都より浄土寺へ到着したらしいこと、浄土寺内の御影堂に建長8年(1256)に移されたことがわかる
という。

三重県新大仏寺の重源像ほどには似ていると思えないなあ。表現が硬くて、東大寺像を模刻したという感は否めない。私には別人に見えました。浄土寺は、境内図にもあるように、この重源像が安置されている開山堂と本堂(薬師堂)も、浄土堂と同じ宝形造となっている。それに境内中央に池があったりして、他のお寺とはだいぶ趣を異にしている。来年の夏にまた訪れてみたい。

※参考文献
「大勧進 重源展図録」 2006年 奈良国立博物館