ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/11/28
浄土寺浄土堂の阿弥陀三尊像は快慶作
浄土堂は北側の小さな開口部から入る。 入ると内部が暗いので、中央に阿弥陀三尊像が置かれているのだが、よく見えない。西側と南にある部分的な蔀戸(しとみど)から少し明かりが入ってくるので、建物の朱色と白がまず目に入ってきて、朱の色が鮮やかでびっくりした。そして次に驚くのは、外から見たらあまり高い建物に見えないのに、阿弥陀三尊立像の背が高いことである。重源さんが浄土堂を宝形造にしたことの意味がわかったような気がする。化粧屋根裏にして天井がないので、中央の空間ほぼいっぱいに、雲に乗って来迎してきた瞬間の阿弥陀三尊像が立ちはだかっている。
大きな光背のある仏像の場合、背中側は衣文などの彫刻が施されないことが多いが、この阿弥陀三尊は背後まできっちりと彫り込まれているので、前面からだけ拝むために造られたのではないことがわかる。また阿弥陀さんの頭光も身光も透かした簡素なもので、背後からの光が通るようになっている。
浄土堂は、春分秋分の日に行くと夕方真西に来た太陽の赤い光が差し込んで、雲に乗った阿弥陀三尊があたかも迎えに来たようであると、どこかで聞いたり読んだりした記憶がある。
それはこのような光景になるのだろうか?しかし、これでは逆光で、何者がやってきたのかわからないのではないかという気もする。
お寺の人はいろんな人が来て、感激して、自分が来たその時が最高だと書いているだけです。いつ来てもいいんです。強いて言えば7・8・9月が阿弥陀三尊像が一番よく見えるでしょうと言っていた。 しかし、その頃に来てもこのようによくは阿弥陀三尊像は見られないだろうと思う。東側は壁と閉じられた扉となっているのだから。下の写真は東側の桟唐戸を開いて撮ったのだろうか。かつて阿弥陀三尊像の前には木製黒漆塗の三脚卓(みつあしのしょく)が置かれていたらしい。
『大勧進 重源展図録』は、供養具や供物などを置いた。天板の形は三日月形で、輪郭は花弁状の切れ込みを入れている。天板の正面と左右に、先端が蕨手状に巻き返った長い脚が付けられている。天板の下方で三脚を結ぶ横材が渡され、天板と横材が作る間に格狭間(こうざま)を作っている。格狭間はいわゆる蝙蝠形格狭間(透かしの形が蝙蝠に似ているため、この名がある)で、同様の意匠の持ち送りを脚にも取り付けているという。
同展に行った時、この蝙蝠形格狭間というものを初めて見た。面白い形だと思ったが、鎌倉時代以降流行するのだそうな。お寺の人は国宝の阿弥陀三尊像について説明した、重源が宋から持って帰ってきた仏画に似せて快慶に造らせたので、他の快慶の造った仏像とちょっと雰囲気が違います。
重源さんが宋に行ったのは12世紀後半だろう。その頃の阿弥陀三尊像はたくさんは残っていないようだ。一番近い頃の阿弥陀三尊像は普悦画(京都府、清浄華院造)のものだが、あまりにもぼんやりとした描き方のため、来迎雲があるのかないのかわからない。そして、こちらはそれぞれが踏割蓮華に乗っているが、浄土堂の阿弥陀三尊像はそれぞれ1つの蓮台に乗っていて、その蓮台が更に沸き立つ雲に乗っている。 お寺の人は続けた、こんな不安定な上に直立した仏像がよく立っていると思いませんか?実は、仏像は寄木造ですが、その木はずぼんと地中まで達しています。だから倒れません。他の美術館・博物館にも持って行くことができません。それから、浄土寺にはもう1体阿弥陀像がありまして、今は奈良国立博物館の常設展示に展観されています。それも快慶作で重文です。
その像は「大勧進 重源展」で見たような気がするが、どんな像だったかなあ。
外に出て裏側に回り蔀戸を見た。 地中に達しているという木は縁側からのぞきこむと見えるのだろうか。
※参考文献
「日本建築史図集」 日本建築学会編 1980年新訂第1版 彰国社
「大勧進 重源展図録」 2006年 奈良国立博物館
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館