ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/11/26
小野浄土寺浄土堂の建物は
東大寺再建の勧進僧重源が新たに採り入れた寺院の建築様式を大仏様(だいぶつよう)というが、東大寺大仏殿は再び灰燼に帰したため、現存する大仏様の遺構は東大寺南大門と浄土寺浄土堂だけらしい。
浄土堂はそんなに大きな建物ではないが、周りにいろんなものがあるため、全体を1枚に納めようとするとこの辺りからがよいらしい。実際に建物の周囲を回りながら見ていると、軒があまり高くないからか、背の低い、横長の建物という印象だが、このように対角線上で見ると宝形造の頂点は思ったよりも高い。
解説をする人?がいて、いろいろと説明を聞いて、その時はなるほどと思ったが、数日たった今ではほぼ忘れてしまったので、『大勧進 重源』展図録に載せられた西田紀子氏の「重源と大仏様建築」と共に、浄土堂をみていきたい。同書は、大仏様の特徴としてまず挙げられるのが、明快で合理的な構造である。 ・・略・・大仏様では、柱と柱をつなぐ「貫(ぬき)」が導入された。日本建築では柱間をつなぐ横材として、「長押」と「貫」を使用する。長押は柱の側面に釘付けした水平材、貫は柱に穴を開けて貫通させた水平材である。平安時代までの建物では、長押を主に用い、貫は柱の頂部を繋ぐ「頭貫(かしらぬき)」のみが一般的であった。これに対し、大仏様の建築で、柱の途中の高さに穴をあけて貫を通し、柱と柱を緊結する技法が広く用いられるようになったという。
東大寺南大門は貫がたくさん通っているのがよく見える構造だが、浄土寺浄土堂にはその貫がどこにあるのかよくわからなかった。
山西省では、宋の敵国遼や金の建設した寺院が残っている。その中で、大同市街地にあり、遼創建、金再建という上華厳寺の大雄宝殿は、巨大な建築物で、減柱法で柱を減らして、上の方でたくさんの貫を通しているということだった。
開口部については、扉は、縦横に枠を組み、その間に板をはめた「桟唐戸(さんからと)」を用いた。扉の軸は「藁座(わらざ)」という軸受けを取り付けて納めた。いずれも大仏様の新技法であるという。これはわかり易かった。細部の装飾的なものについては、建築の細部意匠にも、大仏様独自の特徴がみられる。挿肘木の先端や、虹梁の端部には、円弧を組み合わせた「繰形(くりがた)」彫刻がみられる。これらは一方を水平とし、もう一方を曲線を組み合わせた形に造り出した大仏様独自の意匠であると、これらも独特のものであるという。 そして組物については、浄土堂では挿肘木の先端にのみ斗を置いており、上下に斗が並ばない。こうした斗の配置が上下にそろわない組物は、中世の中国から導入された禅宗様でもみられ、中国建築の影響を色濃く反映したものといえる。
また、組物の斗は、下に板状の「皿斗(さらと)」とつける。皿斗は、世界最古の木造建築である法隆寺の西院伽藍にもみられるが、奈良時代以降の建築には使用されておらず、大仏様で再度導入されたものとみられるという。
確かに端にだけ斗がある挿肘木は、三手先の組物(1・2・3)となって軒を支えているが、上向きのゾウの鼻が並んだようで頼りない気もするし、すっきりしているともいえる。
軒の四隅について、南大門では隅柱から外側のみを扇垂木とするのに対し、浄土堂では庇の中間桁から外側を扇垂木としている。これも、より中国風の技法とみられる という。
山西省の晋祠で宋時代の建物聖母殿などもこんな風になっていたのかな。反り返った屋根の形が気になって、ちゃんと細部を見ていなかった。 また、建物の軒下を支える「組物」にも、大仏様独自の新たな技法がみられる。その一つが「肘垂木」である。和様の建築では、柱の頂部に「斗(ます)」と「肘木」を組み合わせた「組物」を置いて、軒下の桁を受けている。これに対し大仏様では、柱の側面に枘穴(ほぞあな)をあけて、そこに枘差しした「挿肘木」を使用し、挿肘木と斗を重ねて軒下の桁を受けているという。
外側の組物について説明しているが、内部にも同じ組物があって、四天柱から直角の2方向とその真ん中からも外側に虹梁(A・B・C)が出ていて、その虹梁の荷重を三手先の組物(1・2・3)で支えているのだが、これが天柱を突き抜けずに、差し込んだだけでバランスしているんやねえ。
そう言えば唐時代の建築という五台山仏光寺大殿の内部には、四手先の同じような組物が虹梁を支えているようだが、これが挿肘木かどうかわからない。また、反対側に2つ出た小さな木鼻はただの装飾なのだろうか、聞き逃した。そして、屋根を支える垂木も大仏様と和様で異なった特徴をしめす。大仏様では、軒先まで一本の垂木を渡した「一軒(ひとのき)」、隅部は放射状に配された「扇垂木」とし、垂木の先端には、木口を隠す「鼻隠板」をうつ。和様では、垂木は建物寄りの「地垂木」と軒先の「飛檐垂木」を用いた「二軒」が多く、隅部も垂木同士が平行に配され、鼻隠板は用いない。
浄土堂は中央の長い柱(四天柱、してんはしら)と外側の短い柱の間(側柱、がわはしら)の間に虹梁と円束を三重に組み、四天柱間には二重に虹梁をかけている。四天柱と側柱の間に虹梁を二重以上組む架構は、日本の中世建築にはほとんど見られず、古代以来の日本建築にみられた身舎(もや)・庇構造と根本的に異なる。日本の架構は柱間を基準とするのに対し、こうした浄土寺の架構は、身舎桁を基準とした中国建築の架構を伝えたものといえるという。
一軒であることは『日本建築史図集』の浄土寺浄土堂見上げ図でよくわかった。 同書は、大仏殿再建に当たり、陳和卿らは、どのような中国の建築様式を手本としたのだろうか。田中淡氏によれば、大仏様にみられる貫・挿肘木・隅扇垂木などは中国福建省地方の宋代の木造建築に類例がみられるが、大仏様の特徴を全て備えた遺構は中国で確認されていない。また、杉野丞氏によれば、大仏様の様式は華南地方の様式に華北地方の様式が混入し始めた、早期の宋様式とみられるという(「建築歴史・意匠部門研究議会 大仏様の源流を求めて」『建築雑誌』114-1433号、1999年)。すなわち、大仏様は、中国で確立した様式をそのまま移植したものでなく、個別の技法を輸入し、あわせて用いることで成立したと言えるという。
しかし、淮河(わいが)と秦嶺山脈を結ぶ線以南を華南、以北を華北と呼ぶ(Wikipediaによる)らしい。また、中国で漢民族の国家は南宋(1127-1279)で、その背後には金が迫り、いわゆる華南にまで領土を広げていたので、当時の宋の建築様式に、北の騎馬民族国家の遼や金の建築様式が入ってきたということで良いのでしょうか。
※参考文献
「大勧進 重源」展図録(2006年 奈良国立博物館)
「日本建築史図集」(日本建築学会編 1980年新訂第1版 彰国社)
※参考ウェブサイト Wikipedia の華北・華南・淮河・南宋(南宋には詳しい地図が掲載されています)