東大寺再建の勧進僧重源が新たに採り入れた寺院の建築様式を大仏様(だいぶつよう)というが、東大寺大仏殿は再び灰燼に帰したため、現存する大仏様の遺構は東大寺南大門と浄土寺浄土堂だけらしい。
浄土堂はそんなに大きな建物ではないが、周りにいろんなものがあるため、全体を1枚に納めようとするとこの辺りからがよいらしい。実際に建物の周囲を回りながら見ていると、軒があまり高くないからか、背の低い、横長の建物という印象だが、このように対角線上で見ると宝形造の頂点は思ったよりも高い。
解説をする人?がいて、いろいろと説明を聞いて、その時はなるほどと思ったが、数日たった今ではほぼ忘れてしまったので、『大勧進 重源』展図録に載せられた西田紀子氏の「重源と大仏様建築」と共に、浄土堂をみていきたい。

東大寺南大門は貫がたくさん通っているのがよく見える構造だが、浄土寺浄土堂にはその貫がどこにあるのかよくわからなかった。
山西省では、宋の敵国遼や金の建設した寺院が残っている。その中で、大同市街地にあり、遼創建、金再建という上華厳寺の大雄宝殿は、巨大な建築物で、減柱法で柱を減らして、上の方でたくさんの貫を通しているということだった。



また、組物の斗は、下に板状の「皿斗(さらと)」とつける。皿斗は、世界最古の木造建築である法隆寺の西院伽藍にもみられるが、奈良時代以降の建築には使用されておらず、大仏様で再度導入されたものとみられるという。
確かに端にだけ斗がある挿肘木は、三手先の組物(1・2・3)となって軒を支えているが、上向きのゾウの鼻が並んだようで頼りない気もするし、すっきりしているともいえる。

山西省の晋祠で宋時代の建物聖母殿などもこんな風になっていたのかな。反り返った屋根の形が気になって、ちゃんと細部を見ていなかった。

外側の組物について説明しているが、内部にも同じ組物があって、四天柱から直角の2方向とその真ん中からも外側に虹梁(A・B・C)が出ていて、その虹梁の荷重を三手先の組物(1・2・3)で支えているのだが、これが天柱を突き抜けずに、差し込んだだけでバランスしているんやねえ。
そう言えば唐時代の建築という五台山仏光寺大殿の内部には、四手先の同じような組物が虹梁を支えているようだが、これが挿肘木かどうかわからない。また、反対側に2つ出た小さな木鼻はただの装飾なのだろうか、聞き逃した。

浄土堂は中央の長い柱(四天柱、してんはしら)と外側の短い柱の間(側柱、がわはしら)の間に虹梁と円束を三重に組み、四天柱間には二重に虹梁をかけている。四天柱と側柱の間に虹梁を二重以上組む架構は、日本の中世建築にはほとんど見られず、古代以来の日本建築にみられた身舎(もや)・庇構造と根本的に異なる。日本の架構は柱間を基準とするのに対し、こうした浄土寺の架構は、身舎桁を基準とした中国建築の架構を伝えたものといえるという。
一軒であることは『日本建築史図集』の浄土寺浄土堂見上げ図でよくわかった。

しかし、淮河(わいが)と秦嶺山脈を結ぶ線以南を華南、以北を華北と呼ぶ(Wikipediaによる)らしい。また、中国で漢民族の国家は南宋(1127-1279)で、その背後には金が迫り、いわゆる華南にまで領土を広げていたので、当時の宋の建築様式に、北の騎馬民族国家の遼や金の建築様式が入ってきたということで良いのでしょうか。
※参考文献
「大勧進 重源」展図録(2006年 奈良国立博物館)
「日本建築史図集」(日本建築学会編 1980年新訂第1版 彰国社)
※参考ウェブサイト Wikipedia の華北・華南・淮河・南宋(南宋には詳しい地図が掲載されています)