中央入口から中に入ると、両手に座布団のようなものをつけたお婆さんが尺取り虫のようにペッタンペッタン大雄宝殿内を回っている。五体投地かと思ってガイドの屈さんに尋ねたが、違うという答えだった。


また、屈さんの説明では、遼の時代流行っていた減柱法という建築方法をとっています。12から13本の柱を減らしました。それは坊さんをたくさん入れるためでした。柱が少ないと強度が足りなくなるので、上の方でたくさんの貫(ぬき)を使っていますということで、五方仏の前では格天井のために見えないが、両端の天王像のあたりから上を向くと見えた。また奥の天王像の並ぶ背後の柱と、手前の五方仏の前の柱列とは位置がずれていることも下の写真からわかる。


見学している時は、柱の位置が対称でないことには気づかなかった。
減柱法について屈さんの説明を聞いて思い出したのが、東大寺が、平家の焼き討ち後急いで再建するために、かつて宋に行ったことのある重源さんが勧進僧に選ばれ、たまたま宋から来ていた陳和卿と共に工夫したのが、上の方に何本も貫(ぬき)を通して強度を増すという方法で、それをある講座で聴いたのだった。その時の講師の話では、そういう造り方は中国のどこかのお寺に倣ったのだろうと言われているが、それがどこかまだわかっていないとのことだったので、この時私はその工法の手本の一つがこの上華厳寺の大雄宝殿ではないかと思ってしまった。
大雄宝殿が金の天眷3年(1140)に再建されたとして、『不滅の建築5 東大寺南大門』によると、東大寺の鎌倉復興が始まったのは建久元年(1190)7月に大仏殿の柱を立て始め、10月に上棟式が行われたということなので、年代的には問題はない。
しかし、大同は当時金(1115-1234年)という女真族の領土であり、西京であったので、宋に行った重源さんが行けるところではなく、また陳和卿たちも行ってはいないだろうから、遼や金の減柱法と鎌倉再建東大寺とは関係はなかっただろう。
※参考文献
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「中国建築の歴史」 田中淡訳編 1981年 平凡社
「図説中国文明史8 遼西夏金元」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社
「不滅の建築5 東大寺南大門」 1988年 毎日新聞社
※参考ウェブサイト
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説などより塑像のお話