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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/07/12

上華厳寺大雄宝殿の減柱法は



中央入口から中に入ると、両手に座布団のようなものをつけたお婆さんが尺取り虫のようにペッタンペッタン大雄宝殿内を回っている。五体投地かと思ってガイドの屈さんに尋ねたが、違うという答えだった。内部には、高い台座上の五方仏と、南北の壁に沿って10体ずつ、15度傾いた天王像が中央向きに並んでいる(平面図参照)。明代の塑像で、前日見学した懸空寺の塑像と同じ時代のものだ。塑像については塑像のお話をご覧下さい。 沢村仁氏の「大同の古建築 華厳寺と善化寺(主集 中国建築の現状)」というウェブサイトによると、殿内は彩画のある格天井を張るが、これは明代のもので、当初は化粧屋根裏だったと思われるらしい。
また、屈さんの説明では、遼の時代流行っていた減柱法という建築方法をとっています。12から13本の柱を減らしました。それは坊さんをたくさん入れるためでした。柱が少ないと強度が足りなくなるので、上の方でたくさんの貫(ぬき)を使っていますということで、五方仏の前では格天井のために見えないが、両端の天王像のあたりから上を向くと見えた。また奥の天王像の並ぶ背後の柱と、手前の五方仏の前の柱列とは位置がずれていることも下の写真からわかる。『世界の文化史蹟17 中国の古建築』によると、正面の柱間9間(53.45m)、側面は5間(27.36m)という大きな空間の大雄宝殿は、『中国建築の歴史』には、殿内の柱の配列には減柱法が採用されている。すなわち、左右両端間の梁行柱筋は5間、6本の柱が立つが、その他の柱筋はいずれも3間、4本の柱としており、同時に上部の構架も、各柱筋ごとに2本ずつの柱が省略されるために、構造的にも変化が生まれている。このような減柱の目的は、建物内部の空間・距離を増大させるためには、太くてたくさんあったのでは使用上の妨げになるからであって、完全に実用から出発したものであるという。屈さんが言ったことと同じだ。 前日見学した遼、清寧2年(1056)に創建の応県木塔も『図説中国文明史8 遼西夏金元』 は、機能面での必要性から、柱の配置は唐代建築の厳格な対称構造をやぶって、ほんらい仏像を置いていた場所を後方にずらし、前方の空間を広げましたが、こうした変化はまぎれもなく、金代の減柱法(げんちゅうほう)や移柱法(いちゅうほう)の先駆けですという。

見学している時は、柱の位置が対称でないことには気づかなかった。

減柱法について屈さんの説明を聞いて思い出したのが、東大寺が、平家の焼き討ち後急いで再建するために、かつて宋に行ったことのある重源さんが勧進僧に選ばれ、たまたま宋から来ていた陳和卿と共に工夫したのが、上の方に何本も貫(ぬき)を通して強度を増すという方法で、それをある講座で聴いたのだった。その時の講師の話では、そういう造り方は中国のどこかのお寺に倣ったのだろうと言われているが、それがどこかまだわかっていないとのことだったので、この時私はその工法の手本の一つがこの上華厳寺の大雄宝殿ではないかと思ってしまった。
大雄宝殿が金の天眷3年(1140)に再建されたとして、『不滅の建築5 東大寺南大門』によると、東大寺の鎌倉復興が始まったのは建久元年(1190)7月に大仏殿の柱を立て始め、10月に上棟式が行われたということなので、年代的には問題はない。
しかし、大同は当時金(1115-1234年)という女真族の領土であり、西京であったので、宋に行った重源さんが行けるところではなく、また陳和卿たちも行ってはいないだろうから、遼や金の減柱法と鎌倉再建東大寺とは関係はなかっただろう。
 
※参考文献
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「中国建築の歴史」 田中淡訳編 1981年 平凡社
「図説中国文明史8 遼西夏金元」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社
「不滅の建築5 東大寺南大門」 1988年 毎日新聞社

※参考ウェブサイト
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説などより塑像のお話