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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/07/13

下華厳寺は遼時代創建のまま


上華厳寺の南側に下華厳寺はある。屈さんが、元は1つのお寺でしたが、明の時代に上と下の2つのお寺に分けられました。上華厳寺は寄せ棟造りでしたが、下華厳寺は入母屋造りです。下華厳寺も遼の時代に建てられました。約千年の歴史がありますと説明してくれた。 
下華厳寺の薄伽教蔵殿も上華厳寺の大雄宝殿と同じく、壇の上にあるため、階段を上ると全体を写すことができなかった。薄伽教蔵殿の方が小さく、壁面が木造なので大雄宝殿のような重厚感がない。雨が降っていなければ、もう少し分かり易い写真を撮っただろう。 中に入ると、仏菩薩と見学者の間に鉄格子がある。見学者が立ち入らないようにということだろうが、檻の中に仏菩薩が閉じこめられているような感じがする。その仏菩薩はほこりが積んでいる。屈さんが、下華厳寺はお寺ではなく、博物館となりました。坊さんがいないので掃除をする人がいませんと言うのだが、信仰から離れたとはいえ、山西省の遺産でもあるのだから、心ある展示なり保存なりをしてほしいものだ。 『世界の文化史蹟17 中国の古建築』は、正面の柱間が5間(27.65m)、側面が4間(18.47m)上に入母屋屋根をのせて、  ・・略・・  内部の梁に重熙7年(1038)に建てたという墨書があるという。

大雄宝殿の創建よりも古かったんや。
『中国建築の歴史』は、上寺大殿の形式と同様に、高さ4mの磚積みの基壇の上に立っており、前面にには月台がある。  ・・略・・  軒まわりの柱上組物は二手先の重栱計心形式であり、中庸組物は1組だけで、柱上組物から二手目の肘木(華栱)の上の秤肘木(令栱)と木鼻(要頭)を省いたものであり、したがって全体の高さが一材一栔(けい契の下が木)だけ高くなっている。その下は束(つか、蜀柱)で受け、上に大斗(櫨斗)を施している。軒まわりの隅組物は正面と側面においてそれぞれ、大斗の上から肘木(華栱)を二手持ち出すとともに、45度方向の線上に隅行の肘木(角栱)を三手持ち出して、その上の化粧隅木下持送り(宝瓶角梁)をうけている。その上は格天井(平棊、基の下が木天花)や装飾天井(藻井)になっているが、形式はいずれもきわめて簡素である。建物の中央3間には桟唐戸(槅、隔の辺が木、扇)がつけられ、背面中央間のまんなかには小さな窓がひとつ穿たれているが、それ以外はすべて磚の壁が積まれている。柱の配列は側まわりと入側まわりの二周となっており、不規則なところはひとつもないという。

よく理解できるとは言い難い。正面が木造なので、全て木造かと思っていたが、三方は磚造だったのだ。薄伽教蔵殿は減柱式ではなかった。坊さんをたくさん収容するところではなかったのだろう。 『図説中国文明史8 遼西夏金元』は、経典を収める戸棚が壁に沿って38間(けん)ならび、「天空の壁蔵」と呼ばれています。金代の華厳寺石碑によれば、華厳寺にはかつて遼の大蔵経『契丹蔵』が収蔵されていました。  殿内の塑像や、正方形や八角形の藻井(そうせい、彩色模様を描いた天井)は、すべて貴重な遼代の遺物である。塑像は、過去・現在・未来を表現する諸仏と、十方菩薩・羅漢など、合わせて29体があるという。

屈さんは、塑像は全て遼の時代のものです。素晴らしいです。菩薩の中にこれだけ他のものと違います。わかりますか?歯が出ています。歯を見せるのは良くないことですが、これは微笑んでいるようで、東洋のビーナスと呼ばれていますと説明してくれたが、ここで買った『華厳寺』という写真集には露歯菩薩となっていた。遼代の仏像というか、仏教美術は、この旅行まで全く知らなかった。仏坐像の顔はやや違和感があるものの、菩薩群は穏やかな表情で、丸顔に近い。契丹人(タングート族)の顔だろうか。また、体の表現も唐代のようにでっぷりもしていず、着衣の結び目がやや煩雑な感もあるが、全体にまとまっているように思う。そう言えば、太原西南郊外の晋祠には侍女の塑像群があったなあ。

※参考文献
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「中国建築の歴史」 田中淡訳編 1981年 平凡社
「図説中国文明史8 遼西夏金元」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社
「華厳寺」 張宏斌 2004年 華厳寺