上華厳寺の南側に下華厳寺はある。屈さんが、元は1つのお寺でしたが、明の時代に上と下の2つのお寺に分けられました。上華厳寺は寄せ棟造りでしたが、下華厳寺は入母屋造りです。下華厳寺も遼の時代に建てられました。約千年の歴史がありますと説明してくれた。
下華厳寺の薄伽教蔵殿も上華厳寺の大雄宝殿と同じく、壇の上にあるため、階段を上ると全体を写すことができなかった。



大雄宝殿の創建よりも古かったんや。
『中国建築の歴史』は、上寺大殿の形式と同様に、高さ4mの磚積みの基壇の上に立っており、前面にには月台がある。 ・・略・・ 軒まわりの柱上組物は二手先の重栱計心形式であり、中庸組物は1組だけで、柱上組物から二手目の肘木(華栱)の上の秤肘木(令栱)と木鼻(要頭)を省いたものであり、したがって全体の高さが一材一栔(けい契の下が木)だけ高くなっている。その下は束(つか、蜀柱)で受け、上に大斗(櫨斗)を施している。軒まわりの隅組物は正面と側面においてそれぞれ、大斗の上から肘木(華栱)を二手持ち出すとともに、45度方向の線上に隅行の肘木(角栱)を三手持ち出して、その上の化粧隅木下持送り(宝瓶角梁)をうけている。その上は格天井(平棊、基の下が木天花)や装飾天井(藻井)になっているが、形式はいずれもきわめて簡素である。建物の中央3間には桟唐戸(槅、隔の辺が木、扇)がつけられ、背面中央間のまんなかには小さな窓がひとつ穿たれているが、それ以外はすべて磚の壁が積まれている。柱の配列は側まわりと入側まわりの二周となっており、不規則なところはひとつもないという。
よく理解できるとは言い難い。正面が木造なので、全て木造かと思っていたが、三方は磚造だったのだ。薄伽教蔵殿は減柱式ではなかった。坊さんをたくさん収容するところではなかったのだろう。


屈さんは、塑像は全て遼の時代のものです。素晴らしいです。菩薩の中にこれだけ他のものと違います。わかりますか?歯が出ています。歯を見せるのは良くないことですが、これは微笑んでいるようで、東洋のビーナスと呼ばれていますと説明してくれたが、ここで買った『華厳寺』という写真集には露歯菩薩となっていた。


※参考文献
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「中国建築の歴史」 田中淡訳編 1981年 平凡社
「図説中国文明史8 遼西夏金元」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社
「華厳寺」 張宏斌 2004年 華厳寺