学生時代、ある小説で「金壺まなこ」という表現が非常に気になった。そして、どんな名の特別展だったか忘れてしまったが、「重源上人坐像」を見て「これが金壺まなこに違いない」と思った。
数年後、ある展覧会で「初公開の重源上人坐像」が目玉となっていて驚いた。では私の見たあの重源さんは何だったのか?それがずっと引っ掛かっていた。
ところがこの重源さんの800年忌に当たる今年、奈良国立博物館(以下、奈良博)で『大勧進 重源-東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出』という特別展があった。
金壺まなこの重源さんに会いたいと思って見に行った。会場にはなんと「重源上人坐像」と呼ばれるものが4体も展観されていた。
第一室の中央に「重源上人坐像」はあった。低く3段に広い台を作り、更に像を見るのにちょうど良い高さの台にその重源さんは坐っていた。この重源さんはやっぱり金壺まなこで、私が昔見たものだ。奈良・東大寺蔵である。
360度全方向からこの像を見られるようになっていて、ガラスのケースに入れられていない、素晴らしい展示の仕方だ。
左手の方には他の3体が壁を背にして並んでいた。その中の1つが、驚くほど先ほどの東大寺の重源さんに似ていた。
それは三重・新大仏寺蔵で、東大寺蔵よりも少し若い頃の重源さんらしい。私はこの2つの像を同時に見て混乱してしまった。
そして、東大寺蔵の重源さんがいつかの「初公開の重源上人坐像」で、それより前に見たのは新大仏寺蔵の「重源上人坐像」ではないか、そういう風に頭の中を整理した。
重源上人坐像だけでなく、重源上人その人にも関心があった。それは奈良博の教育室長、西山厚氏の話を聞いたからだ。
西山氏は土曜講座で重源上人について、1180年の平家焼き討ちで焼失した東大寺の復興に尽力した勧進僧として熱く語った。
上人は、広く浅く万人と結縁して「尺布寸鉄、一木半箋」つまり多くの人々から少しずつもらうという勧進の方法をとった。
そのため、1185年大仏の開眼供養が行われた日は、後白河法皇が大仏に目を入れる筆に800mの紐が12本も繋がれ、僧以外にも結縁した貴族から一般庶民に至るまで、大雨の中を混乱状態で大仏の周りをぐるぐる取り囲んですさまじい有様だった。
しかし、1195年の東大寺供養も大雨だったが、大仏に目を入れる頼朝は鎌倉から大勢の武士を連れてきたので、庶民は建物に入ることができなかった。すでに武士の時代となっていたのだ。
以上は九条兼実の日記「玉葉」(今回展観)に記されているとのことだ。
全ての展示品を見て回った後、もう一度重源さんを見に戻った。すると東大寺蔵「重源上人坐像」の前に白木の台が置かれていた。見ていると、その上に造花の蓮の葉が入った1対の花瓶が置かれ、続いて東大寺の老僧が前に立って般若心経を唱えだした。
お経が終わり、台もなくなったので、私は重源さんをもう一度右繞して出口に向かった。
※参考文献
『重源展図録』2006年 奈良国立博物館