飛鳥寺も久しぶりに行った。国道169号線を近鉄岡寺駅前の交差点から県道155号線に入り、東へ向かうと亀石・川原寺跡・橘寺などの看板が左右に見過ごし、高市橋の先で石舞台古墳へと南に傾く155号線とも分かれ、狭くなった道を直進する。ところが先はT字路となっていて、飛鳥寺の標識も見落としたが、迷い込んで困ったと思いながら狭い道を北に行くと、飛鳥寺の有料駐車場の呼び込みにふらふらと入ってしまった。車を降りて飛鳥寺に向かうが、塀の前には飛鳥寺の広い駐車場が別にあった。


百済から派遣された僧侶や寺工(てらのたくみ)・瓦博士(かわらのはかせ)などの技術者たちの援助を受け、造営が開始された。 ・・略・・ 596(推古4)年12月には「寺の造作がほぼ終了し、寺司(てらのつかさ)と僧2人が寺に住み始めた」と『書紀』は伝える。造営が開始されて8年目のことだという。
しかし、当時の建物は建久7年(1196)に落雷のため焼失したらしい(同書より)。 『国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ』(以下『飛鳥のほとけ』)によると、飛鳥寺は鎌倉時代初期の頃から急速に衰微した。日本最古の丈六仏が露坐のまま痛々しい姿をさらした時代もあったが、文政8年(1825)、この安居院(あんごいん)本堂が中金堂の跡地に建てられたという。
昔拝観した時は、左側から靴を脱いで本堂に入ったような記憶があるが、今回は西側から入るようになっていた。


飛鳥資料館の飛鳥寺に発掘調査についての画像がいろいろあります。


この場所については『日本書紀』にも、「飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)が祖樹葉(おやこのは)の家を壊ち(こぼち)て、始めて法興寺を作る。此の地(ところ)を飛鳥の真神原(まかみがはら)と名づく」 と書いてあります。渡来系の氏族の根拠地だったのですね。おそらく古墳があった場所で、そこを整地した際に出土したものを塔の心礎に納めたのですということだ。 魔除けや護符というような意味で心礎に納めたのではなかったみたいだ。
『金の輝き、ガラスの煌めき展図録』によると、硬玉系の勾玉や管玉がみられ、同時期の古墳から見ればやや伝統的な色彩が残る。歩揺のほかに藤ノ木古墳と同じ剣菱形飾り金具が出土しているということで、古い時代の古墳から出土したものであれば、飛鳥寺創建と同時期の古墳の副葬品と比べて流行遅れのものがあっても不思議ではないということでした。
※参考文献
「日本史リブレット71飛鳥の宮と寺」(黒崎直 2007年 山川出版社)
「国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ」(1999年 朝日百科日本の国宝別冊 朝日新聞社)
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「飛鳥の寺院-古代寺院の興隆-飛鳥の考古学図録⑤」(2007年 財団法人明日香村観光開発公社)
※参考ウェブサイト
飛鳥資料館の飛鳥寺