正倉院宝物には大量のガラス玉がある。『第57回正倉院展図録』の深黄瑠璃の解説に、
褐色味のある黄色ないし透明感をもった深黄色玉を集めて一連としたもので、その数は300個を越える。宝庫には同色のものが43連存在し、それぞれ一連に大小200ないし300個あまりの玉を通している。発色や大きさに若干のばらつきがあるが、深黄瑠璃は全部で約11074個にも上る。
この一綴りは便宜的なものと思われ、単独で首飾りのように用いられたわけではない。本来は他色の玉と組み合わせて装飾品を構成するのが一般的であり、現状はそれが破損したために整理したものと思われる。材質は鉛ガラスで ・・略・・ 国産の鉛が使用されている例があり、この種の玉も国産品とみられている
とある。同展では他に黄瑠璃・緑瑠璃・碧瑠璃・黒瑠璃が出品されていたが、碧瑠璃が5700個余り、他は1万個を超えるという。そんなに多くのガラス玉を使ってどんなものを作っていたのだろう。

雑色幡は実際に見ると、色とりどりのガラス玉を通して網のように仕上がっていて、まるで夢のような幡だった。
この雑色幡を見て舶載品と思ったが国産だった。そう言えば科学的な成分分析ができるようになった昨今は正倉院宝物をはじめ様々な遺物が、従来は外来の製品と思われていたが日本製であったことがわかったりするようになってきた。


593年(推古天皇元年)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を建てた。その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳にに埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。古墳が造られる一方で、豪族たちの間に仏教が広まりだしたころのようすが、よく現れている
ということだ。飛鳥寺の塔が6世紀末というと、藤ノ木古墳の少し後で、高松塚より100年ほど前ということになる。
これらが塔の心礎に埋納されていたということを知ると、当時においてガラス玉の連なりは、装飾品というよりも魔除けや護符のような役割を担っていたものと思わざるを得ない。

藤ノ木古墳南側被葬者のものとして、ガラス棗玉というやや大振りな無色に近い透明カットグラスと極小のガラス粟玉が出土している。透明ガラスは紀元前8世紀のものがあるが、日本で6世紀後半となると古い方に属するのではないだろうか?

和歌山市紀ノ川北岸の大谷古墳は5世紀後半の築造という。出土のガラス小玉はカラフルである。


飛鳥資料館、橿古研附属博物館に続いて、奈良市学園南の大和文華館近くにあるギャラリーきのわに立ち寄った。田上恵美子氏のすきとおるいのち展の期間延長の、しかも最終日。滑り込みセーフ!


ここでもまた、夢のようなガラス玉の組み合わせを見ることになった。
田上恵美子さんは田上惠美子さんでした。
※参考文献
「第56回正倉院展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「第57回正倉院展図録」(2005年 奈良国立博物館)
「金の輝きガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
尚、博物館内で撮った写真は、写しても良いものです