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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/02/06

当麻曼荼羅原本は綴織


何度も転写された当麻曼荼羅の原本は綴織で、『週刊古寺を巡る37当麻寺信貴山』によると、根本曼荼羅とよばれるもの。傷みがはなはだしいため、現在は軸装にして朱塗りの箱に納められている。非公開という。當麻寺の冊子をかいつまむと、中将姫が天平宝字7年(763)に尼となって、この世で生身の阿弥陀如来を拝みたいと祈願すると、不思議な尼が現れ、蓮の茎を集めよといわれ、集めると井戸にひたして色糸を引き出した。再び現れた不思議な尼を助けて一日中かかって、縦横とも1丈5尺(約4.5m)の大曼荼羅を織りあげ、節のない竹を軸として掛けられたと伝えられているということらしいが、『美術ガイド奈良』で町田甲一氏は、中将姫が天女の助けをかりて蓮糸で綴った曼荼羅として有名であるが、蓮糸綴織ではなく絹糸綴織であることが研究の結果確かめられたとしている。
『日本の美術272浄土図』で河原由雄氏は、現状をみるに古い綴れが残っている部分は全体の4割にすぎない状態という。実際、写真を見てもよくわからない。また同氏は、本図の成立を伝える記録や縁起が奈良・平安時代にはまったく現れず、かつ流布本の下縁中央に記される織は縁付き自体が原本に在ったか否か疑われる昨今、織技の観点、すなわち即物的な見解にたった故太田英蔵氏の意見が最近有力化しているので、その大要を紹介する。
1 綴織の遺品は小品を除いてきわめて少ないこと。たとえあっても本図のような高度の技術を要する絵様を織るものは絶無であること。
2 中尊の頭光や身光を飾る文様は、多く天平勝宝6年(754)に帰朝した遣唐使によってもたらされた正倉院の錦文と一致し、これらが玄宗の天宝時代様式(742-756)を伝えること。
3 だがこれは文様に基づく下絵の年代観であって、天宝年頃に原図が作られたとしても、織るに要する10数年をこれに加算すると、わが国に伝えられたのは平安初期になるだろう。
4 伝来については長安実際寺の浄土堂に納置されていたかと推定されている。実際寺は善導の弟子、懐揮(隆聞・639-701)が師の寂後、則天武后の命によって寺主となった寺で、懐揮は自ら当寺に浄土堂を建て、また「織成像」を造り、安置したと伝えられ、これがおそらく、善導所画の観経変を踏襲した正系図であっただろう
と中国製作説を引用している。町田氏も、大陸から伝えられた阿弥陀浄土図を写した注目すべき遺品である。阿弥陀浄土図は観無量寿経の所説の造形表現であって、鑑真渡来にさいして舶載されたとも考えられるが、その制作が盛んに行われたのは、天平宝字4年(760)になくなった光明皇后の忌斎に用いられたためといわれている。当麻寺の曼荼羅はその遺品の1つではないかとも考えられているということだ。 しかし、中国には当時の綴織変相図の遺品がないため、こんな状態でも貴重である。
観無量寿経変はどのようにして成立していったのだろうか。まず阿弥陀浄土図からみていくと、

阿弥陀浄土図 浮彫 南響堂山第2洞将来 北斉時代(550-577) アメリカ、フリーア美術館蔵
河原氏によると、浄土三部経-「無量寿経」(大経)、「阿弥陀経」(小経)、「観無量寿経」(観経)を代表とする阿弥陀経典の訳出以来阿弥陀仏に対する関心が漸次高まって来たことはいうまでもないが、なかでも、阿弥陀が主催する西方浄土は往生者の死後の世界観を目のあたりにみせてくれる点で、一番の花形であり、この阿弥陀浄土に願生往生できると説く上記の阿弥陀経典は、浄土教の根本経典となった。  ・・略・・  北魏・六朝時代には阿弥陀の浄土荘厳の相を中心に説く大経や小経に対する信仰であったらしく、その作品で残っているのが浮彫の阿弥陀浄土図である。 蓮華に座す阿弥陀仏の前には宝珠形の香炉があり、その周りには、開敷蓮華に座した往生者、蓮華が開いて頭が出ている往生者そしてまだ未開敷蓮華の中にいる往生者がいることが、描き起こし図でわかる。 河原氏は、唐代に入ると浄土の由来と観想に基づく願生往生の方法と手段を中心に説く観経が俄然優勢となり、なかでも善導大師(613-681)は観経を解釈した「観経四帖疏」などを著わし、わけてもわが当麻曼荼羅の図相がことごとく善導の「観経四帖疏」に基づいて作られていることは周知の通りであり、この善導系観経変相は日中浄土変史に徴する限り、構想の妙といい、ごく発展段階に達していることがよく納得されるのであるという。

阿弥陀三尊五十菩薩図 敦煌莫高窟第332窟東壁南側 初唐(7世紀初)
中央に蓮の茎が延び、そこから左右に枝分かれした茎から生じた蓮華の上に諸菩薩が乗っている。中央の茎には往生者が童子となって化生し、左右に童子が透けた小さな未開敷蓮華が2つ見えている。阿弥陀経変 敦煌莫高窟第220窟南壁 初唐(618-712)
西壁に貞観16年の銘文があるので、この阿弥陀経変も642年前後ではないかと思う。最下段中央には胡旋舞を舞う天人、両側に楽人たち、中央の蓮池には阿弥陀仏の前に様々な化生が見られ、完成度の高い作品だと思う。阿弥陀経変図がだいぶ当麻曼荼羅に近づいてきた。

関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺冊子」 当麻寺発行
「日本の美術272 浄土図」 河原由雄 1989年 至文堂
「週刊古寺をゆく35 当麻寺信貴山」 2001年 小学館ウイークリーブック
「美術ガイド 奈良」 町田甲一 1979年 美術出版社

「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社