お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/06/29

雲崗石窟の壁面に浮彫の塔



雲崗石窟を見学したとき、塔のようなものがあちこちの窟にあるのに気がついた。雲崗は敦煌莫高窟や天山南路中央のクチャ郊外にあるキジル石窟、そしてトルファン郊外の火焔山の中にあるベゼクリクやトユク石窟などのように、壁画や仏菩薩の塑像が置かれているのではなく、砂岩を浮彫にした石窟なので、建物の表現がその分立体的に見える。多少でも立体的に見えると、本当にそんな建物があったのだと信用してしまう。

1 11窟主室東壁(雲崗中期、465-493年) 
交脚弥勒像の仏龕両側に同じ形をした三重塔がある。簡単にいうと初層には二仏、二層目にも二仏、三層目には一仏が坐している。大きな相輪が1本のっている

2 11窟東側付属窟外9窟(雲崗後期、493-524年)
雲崗石窟では、すでに開かれた窟の前壁をはじめ、後期になるとあらゆるところに小さな仏龕が彫られた。この窟外9窟もその一つで、龕入口両側に同じ形の五重塔が浮彫されている。全ての層に二仏が坐している。相輪は1本である。3 13窟拱門東壁(雲崗中期、465-493年) 
写っているだけで三重塔が5基見える。すべての層に二仏が坐している。上段の三重塔は相輪が1つだが、下段の三重塔は相輪が3本に分かれている。山という文字にも似ている。4 14窟前室西壁(雲崗中期、465-493年) 
単独の仏が坐す平屋の塔がたくさんある。塔と判断したのは3本の相輪らしきものが見えるからで、建物と3本の相輪という組み合わせが縦に並んでいる。 左下には仏龕が3つ縦に並んでいるが、これは塔ではないだろう。5 14窟西壁上方(雲崗中期、465-493年) 
浅浮彫で五重塔が表されているように見える。初層に二仏、二層目に単独仏、三層目に二仏、その上は残念ながらわからない。6 17窟拱門東壁(雲崗後期、493-524年) 
17窟は曇曜五窟の一つで、雲崗初期(460-465年)に開鑿されたが、外側から菩薩の顔が見える明窓や拱門の壁面の奥行きの部分には雲崗後期の仏龕などが穿たれている。ちなみに明窓部には太和13(489)年の紀年名のある仏龕がある。
拱門東壁には三重塔が1基ある。おそらく仏龕の左右にあったのだろうが、窟前に近い方は今はない。相輪が3つあり、軒下の組物まで表されている。 軒の隅には何かが吊り下げられているようだ。 初層には単独仏、2・3層には二仏が坐している。7 39窟主室中央(雲崗後期、493-524年)
中心柱が五重塔となっている。 軒下を見ると控えめな斗栱と人字形蟇股の構成は、雲崗の別の建物浮彫と共通している。これを見ると、確かに四角い五輪塔がこの時代に確かに存在しただろうと思える。
また、初層と2層目にはかく面に5つずつ仏龕があり、その形もいろいろのようだこのように雲崗石窟に浮彫されたり中心柱となったりした塔は、その時代実際に方形の三重塔や五重塔が存在したことの証明となるだろう。しかし、 3・4・6の三重塔や単層の塔の上にある山の字形のものが、どうもよくわからない。想像で相輪が3つもあるものを表したのだろうか。
ひょっとすると神通寺四門塔のように「山華蕉葉を用いて相輪を受けている」(『中国建築の歴史』より)のを正面観で表すとこのように3つの相輪と私が表現した形になるのかも知れない。

※参考文献
「中国石窟 雲崗石窟2」 1994年 文物出版社
「中国建築の歴史」 田中淡訳編 1981年 平凡社


2007/06/25

嵩岳寺の十二角塔を見たら北涼石塔を思い出した



6 嵩岳寺の塔 河南省登封 北魏、正光4(523)年 磚造
北魏時代の仏塔があることがわかり、正直いっておどろいた。中国は度重なる戦乱で古い建造物は残っていないと思いこんでいたこともある。
そして、中国最古の塔が十二角形であったこともまた驚愕に値した。塔は四角形という先入観に囚われていたに違いない。
その上十二角形の塔が磚で造られていたのだから、これはもう想像を絶する。そのような時代に、レンガをそれぞれの形の部材として大量に焼成し、それを積み上げるなんて。しかし、角をできる限りたくさん作って円に近づけたのだと思うと、磚や石だからこそできることのようにも思う。
崇岳寺の塔を見ていると、北涼石塔が頭に浮かんできた。似ているような気がする。

7 高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼、承玄元年(428) 高44.6㎝ 蘭州市甘粛省博物館蔵

『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、甘粛省の酒泉や敦煌など五個十六国の北涼の地域から発見されている小型の石塔は、国外に流出したものを含めると現在20件近くの作例が知られている。頂部に相輪、身部は上層に仏坐像7龕と交脚菩薩像1龕の計8龕、 ・・略・・ というほぼ共通した形式で造られ、北涼の年号や420-430年代の年記や干支が確認できる。
高善穆の石塔は1969年に甘粛省酒泉城内から出土した。7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、 ・・略・・ これらが過去七仏と未来仏の弥勒菩薩の計8躯であることは、他の作例に記された題記からも明らかである
という。

数は同じではないが、7つの相輪の全体から受ける雰囲気が、嵩岳寺の十二角塔の密檐式の15の軒と重なる。
8 仏塔 五胡十六国時代・北涼、太縁2年(436) 高43㎝底径12㎝ 甘粛省粛州区博物館蔵
『中国国宝展図録』は、北涼(397-439年)は五胡十六国の1つで、現在の甘粛省に興った。中国の西に位置し、中央アジアやインドに近いこの地域から、北涼石塔とよばれる ・・略・・
塔は、下から基壇、胴部、覆鉢、城塞文の区画、7重の傘蓋、鋸歯文のついた半球形で構成される。 ・・略・・ 覆鉢は、蓮弁の下に8個の龕を設け ・・ (上と同じのため略)・・ 相輪は7重、頂部は土饅頭形で表面は周縁部を除いて無文だが、類品には蓮弁文を刻出する例がある。最頂部に穴をうがつ。塔の形状はガンダーラやカシュミールの作例の影響を色濃く示し、七仏と弥勒の組み合わせもガンダーラにはよくみられる。インドと中国の要素が融合し、当時の信仰のあり方をうかがわせる興味深い作である
という。

北涼石塔は『中国の仏教美術』で北涼塔として紹介されており、興味を持ったが、同書には残念ながら相輪のないトルファン出土の北涼塔の白黒写真が掲載されていた。
中国国宝展でこの北涼石塔が展示され、何度も周りを回って眺めたので、嵩岳寺の塔の写真を眺めていて頭に浮かんできたのかも知れない。
『中国の仏教美術』は、北涼塔の基層は八角形につくられているものが多く、うち7基にはその一面一面に中国の占いで古来より方角を示す記号「八卦」が刻まれ、八卦の下には天部と思われる円形頭光をつけた男性像と女性像が各4体ずつ線刻されている。男性像は上半身裸形に腰巻きをからげた姿、手に植物あるいは武器を持つ者が多く、中インドあるいは北インドの守護神の姿に近い。  
以上のようにこれらの石塔は北涼という国が、漢文化を基に独自の文化を築く中で、インド、アフガニスタン等の西方文化も取り入れていったようすを物語っている
という。

そのような東西の文化を取り入れた小さな北涼の石塔が、巨大な北魏の磚塔に何かしら影響を与えたと考えられなくもない。

9 楼閣形仏塔 北魏時代(5世紀) 石造・金 高38㎝ 基部16x16 甘粛省粛州区博物館蔵

『中国国宝展図録』は、『三国志』劉繇(よう、遥のつくりと系)伝には、後漢時代の笮(さく、竹かんむりに作のつくり)融という人物が作った塔について、「上に九重の銅槃(般の下に木)を重ね、下面は楼閣を重ね」たものと記す。また、四川省出土の後漢時代の画像磚には、3重の傘蓋をのせた三重塔が表される。これらはわが国でもなじみの深い木造楼閣形で九輪をいただく塔を髣髴させる。もともと中国では高層の楼閣建築をつくる伝統があった。仏塔がそこに融合する形で、楼閣形の塔は仏教伝来からさほど時を経ずに作られ始めたのだろう。 ・・略・・
上部は欠損しているが、残存部分の形からみて、もともと3層塔として作られたとみてよい。表面の一部にごくわずかながら金箔が残る。
基壇に刻まれた銘文に、「曹天護」という発願者の名がある。銘文冒頭の干支「己卯」は、太和23(499)年と解されている
という。 北魏時代には四角形の三重塔があったことが、このような小塔の存在でわかる。四角形の方が一般的だったのだろうか?それなら、雰囲気は違うが法隆寺の五重塔などの原型も中国にあったと言えるのではないだろうか。

※参考文献
「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 東信堂
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社
「中国仏塔紀行」 長谷川周 2006年 東方出版

2007/06/22

仏塔は四角形?八角形?十二角形?



明代に建てられた永祚寺の双塔は磚積みの八角形の塔だった。 日本で塔というと石塔寺の塔など例外を除いて、四角い木造のものを思い浮かべる。だから双塔や遼時代の応県木塔は、実際に見てそれほどの違和感はなかったが、何故八角形なのかと思ってしまう。

1 慈恩寺大雁塔 陝西省西安 唐、長安4(704)年再建 部分 石造
唐代の大雁塔は仏塔ではないが四角形だった。 

『世界文化史蹟17 中国の古建築』は、明代に外壁を厚い磚の壁で包んだので、外形は玄奘のときの現状とは、すでに変わっている。 
初層4面の入口の楣石に刻まれた線刻画のひとつに仏殿図があり、間口5間、寄棟造の仏殿が精緻に描写されており、唐代木造建築の様式を知るうえで貴重な資料を提供しているという。中国ではいつから塔が八角形になったのだろうか?
『中国建築の歴史』は、隋・唐時代のもので現在までのこっている仏塔の平面はほとんど四角形であり、八角形のものはわずかに仏光寺の無垢浄光塔が見られるだけである。 ・・略・・ 遼・宋以後は、八角形の仏塔平面がもっとも一般的な形式になるのであるが、唐代初期の墓塔で八角形につくられたものはわずかにこの一例のみである。このような八角形の平面は、たぶん当時の寺院内につくられた小型の八角形殿堂の平面を模してつくられたものとおもわれる。また、この塔の塔身の彫刻は、正面の円形アーチの入口のほかは、ほとんどすべてが当時の木構造様式の模倣であり、唐代の木造建築の遺構がきわめてすくない情況においては、ひじょうに重要なものであるという。
唐代には塔は四角形だったことがわかった。そして塔が八角形になる端緒となったという経幢をみてみたい。

2 五台山仏光寺 経幢 高さは4.9m 山西省 唐、乾符4年(877)  石造
『中国建築の歴史』は、八角形をなし、下は須弥壇になり、その上に幢身を立て、幢身には陀羅尼経と幢を建てた人の名前が刻まれている。  ・・略・・ 幢身の上には宝蓋があり、その八隅には獅子頭が彫り出され、獅子の口から瓔珞が下がっている。宝蓋の上には屋根があり、その上に山華蕉葉、火珠などがのっている。幢全体の形態は、各部分の軽重と繁簡がひじょうに明確で、比例もすこぶる適切であり、仏教上、一種の宣伝性と記念性に富んだ建築である
という。

 火袋があれば日本では燈籠ではないかと思うような形である。日本の燈籠の原型かも。
では、唐代の四角形の塔を見てみると、

3 薦福寺小雁塔 西安 景龍元年(707)  磚造
『中国建築の歴史』は、塔の全高は約50mあり、初層がの階高がとくに高く、その上の各層は急激に低くなっている。初層の南北の壁にはアーチ型出入口がそれぞれひとつずつあって、その内部は方形のへやになり、頂上に通じる階段を配置している。塔の壁には柱や貫はなく、各層ごとに磚積みの軒を出し、軒先の持ち送りに積んだ磚の間には雁木型突出(菱角牙子)が2層挿入されており、軒の上方はそのまま持ち送りの磚積みによって丈の低い腰組としていて、一般の密檐式の塔の形式とは異なったものとなっている。構造の関係から、軒の出は大きくない。塔身の外形をみると、各層の塔身の幅が下から上にかけてしだいに逓減させているので、外形はまろやかで美しい輪郭線を構成しており、これは唐代の塔の様式のすぐれた点である。 塔の平面は正方形、初層は1辺の長さ11.25mで、磚積みの高い基壇の上に建ち、密檐式になる。軒は全部で15層あったが、明の嘉靖34年(1555)の陝西地震の時に、2層がくずれ落ちて、13層だけがのこり、同時に塔身の内部にも亀裂が生じたという。4  興教寺玄奘塔 西安 太和2年(828) 磚造
『中国建築の歴史』は、唐、総章2年(669)に創建された、インドを遍歴した玄奘法師の墓塔が1基ある。太和2年(828)に、塔身部の徹底的な修理がおこなわれ、同3年に工事を終わり、現在見られるような状態になった。塔は磚築で、平面は正方形、高さは5層、外形は楼閣式になり、初層は1辺5.2m、全高は21mである。塔身部の下に基壇はなく、地面の上に直接建っているが、この種の工法はほかにほとんど見られないものである。塔の初層は他の塔とかわりがなく、南側の壁に半円アーチ形の入口があり、内部には玄奘の塑像を安置した小さな方形のへやがある。 
この塔の持ち送り積みの軒の部分は、内側に彎曲した輪郭線をつかっており、軒の磚の枚数も他の唐代の塔より多いため、軒の出はかなり大きく、しかも分厚く、この塔の特徴になっている。 

建築史的にも、唐代の木構造を模した磚塔の典型をそなえたものとして最古の遺構であるというこ。
このような木造を模した塔が、現存しないが唐代には木造の塔があったことを示している。しかし、このことから法隆寺の五重塔は中国の木造塔の伝播したものだというのは性急すぎる気がするなあ。
5 神通寺四門塔 山東省歴城県 東魏、武定2年(544)  石積み
『中国建築の歴史』は、塔は全部石積みでつくられており、題記をみると、おそくとも東魏の武定2年(544)の作品で、これは中国に現存する最古の石塔である。塔は1層のみであり、むしろ石造仏龕と呼ぶべきかもしれない。唐の軒は数層に持ち送りで跳ね出し、その上に宝形の屋根を積み上げ、頂部は山華蕉葉を用いて相輪を受けている。その全体のかたちは当時の各石窟の浮彫の塔の表現形式と一致しており、素朴、簡潔で、しかも重厚な様式をよくあらわしている。塔の平面は正方形で、四面にはそれぞれ半円形アーチの入口があるため、一般に四門塔と呼ばれている。塔内中央には1本の心柱がある。柱の四面には金光明経の上に四体の仏像がきわめて精巧に彫刻されているという。

宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根は日本にもある。塔よりも仏堂のような印象を受ける。
このように古い塔を探していると、北魏時代の仏塔を見つけた。ところがその形は四角形でも八角形でもなかった。

6 嵩岳寺の塔 河南省登封  北魏、正光4(523)年 磚造
『中国建築の歴史』は、中国で最古の密檐式磚塔である。その平面は十二角形で、後世にあまり見られないものである。嵩山は、北魏のときに禅僧が集まったひじょうに重要な拠点であり、寺院がきわめて多かった。北魏の宣武帝(孝文帝の後)のとき、 ・・略・・ 嵩山の景勝の地を選んで隠居の寺をつくらせた。北魏の正光4(523)年、さらに寺は拡張され、 ・・略・・ 現在は磚塔がのこるのみである。下層の添柱(倚柱)と仏龕などの形式には、なおインド様式がのこっている。密檐式の軒は磚を積んで持ち送り、外方に跳ね出し、凹形の曲線を形成しており、ひじょうに柔和な感じである。また磚材による構造の性質ともひじょうにうまく適合している。塔身部は、半円形の窓と持ち送りに出した軒がたがいに引き立て合って、塔身をいちじるしく華麗で生きいきとしたものにしている。塔身全体は上方に向かってゆるやかな逓減をもち、磚造建築に生硬な感じをすこしもあたえておらず、成功した作品である。塔の内部に床板を用いる手法は、当時の磚塔の特徴のひとつである。この塔は、今日まで1400年あまりを経ながら、なおたいした損傷もなく、磚積みの高度な技術水準をうかがうことができる。塔の初層平面は十二角形で、内部は八角形をなし、高さは約40mであるという。

インド風の紡錘形ストゥーパに近い塔を造ろうとして、十二角形になったのだろうか。
『中国仏塔紀行』は、伏鉢部分が退化し上部がすぼまった砲弾型の立面は、ガンダーラ地方に見られる方形塔身を円形に近い12角とし、基壇部分を高くしたストゥーパの系統を引く発展型式と見られたという。
北魏時代、塔が十二角形というのは一般的なことだったのだろうか?『世界文化史蹟17 中国の古建築』は、中国では西暦紀元前1000年以上も前から、丘上とか土をもり上げた人工の高台に木造の高層建築をたてることが流行した。いわゆる台樹であるが、単に台ともいう。神仙は高いところに住むという思想から、台の上部に神仙をまつるのもあった。  
初期の寺院は中心建築として3層などの楼閣をたてて、頂上に銅製のいわゆる相輪をのせ、第1層に金色の仏像をまつった。それはインド系の高塔建築ヴィハラ(精舎)のまねであり、ヴィハラの頂上のストゥーパ形が中国では相輪となった 
第3から4世紀ころからインドにおけるブッダのお骨、すなわち仏舎利の崇拝思想が伝わって、中国では中心建築の浮図で仏舎利と称するものをまつったことから、浮図が自然にインドのストゥーパと同じ建築と見なされた結果、中国系にしかない高層形の塔婆が生まれたのである。・・略・・ 漢字で塔婆と書くが、略して塔ともいうようになった。
かかる初期の四角な木造塔婆の形式のほかに、第5世紀には石造塔婆、磚造塔婆があらわれ、層数をだんだん増加した。北魏の皇帝が467年に当時の首都の平城(いまの山西省大同市)にたてた永寧寺の塔婆は、木造7層であり、また第6世紀の初めに首都洛陽に設立した永寧寺の木造塔婆は9層であって、高さ100mよりはるかに高かったらしい。このように、中国では木造の四角平面の塔が、塔の基本形として唐代まで続いた
という。

現存最古の嵩岳寺塔が誕生するまでの中国の塔の歴史である。

※参考文献
『中国建築の歴史』 田中淡訳編 1981年 平凡社
『世界文化史蹟17 中国の古建築』 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
『中国仏塔紀行』 長谷川周 2006年 東方出版


2007/06/20

太原の永祚寺は双塔だけでなく全て磚で造られている

応県木塔(仏宮寺釈迦塔)は監視塔でもあったでも紹介した太原の双塔は全て磚でできている。明時代の塔ということで、華美なものを想像していたが、北側から近づくと見えてきた塔は、全く違っていた。 遠くから見えるが、山門から入ると一番奥に双塔はそびえている。
永祚寺は明の萬歴年間(1573-1619年)に創建され、その山門もグレーの磚(焼成レンガ)でできているのだが、寺名の扁額、アーチ形門の両側にある瑠璃瓦の装飾が目立つので、軒の木造の組物には気づかなかった。
宣文塔平面は八角形、十三層、高さ54.7m。 間近で見上げると塔のてっぺんは見えない。

こちらの塔は各層屋根の軒瓦が青い瑠璃釉で、多少くっきりと見えるので、その軒が木造の組物のようになっているのに気づいた。
文峰塔も同じような大きさということだった。こちらも層の軒に組物が磚で表されている。『山西古建築通覧』は中国語の本なので、なんとなくしか理解できないのだが、やはり斗栱を刻みというような表現をしている。
軒の裏は角材の垂木を表していて、1つ1つを磚で構成しているのではなく、凹凸のある板状のものをつないでいるように見える。斗栱も部材をそれぞれの形の磚を造り、それを組み合わせているのか、1組を1つの複雑な磚で造っているのか、よくわからない。 ところで、双塔は登ることができるという。夫が内部に入って写真を撮ったのだが、真っ暗だと言って登るのを止めたので、残念ながら上層の内部がどのようになっいるのかわからない。初層は上を支えるために磚を詰めて造ってあるとしても、上層は重量軽減のために、中空になっていたかも知れない。
また、永祚寺は山門・双塔以外の建物も、磚造で、この大雄宝殿も同じように斗栱を組むように構成されている上に、円柱まで凹凸で表している。
見学した時はちょうどボタンの時期で、この庭は紫霞仙という明時代からある古い種類のボタンだけが咲いていた。
では、何故わざさわざ磚で木造風に凝った伽藍を造ったのだろうか。火事を防ぐためかも知れないし、もう山西省にはお寺を建てるほどの大きな木がなかったのだろうか。

※参考文献
『山西古建築通覧』(1987年 李玉明主編 山西人民出版社)

2007/06/18

応県木塔と太原双塔寺の風鐸とツバメ


応県木塔に春行くと騒がしい。中門をくぐった時点でピイピイ、ツバメの声が聞こえてくる。そして無数のツバメが木塔の周りを飛んでいて、中には木塔の軒に入っていくものもいる。
ガイドの屈さんが言っていた通りだった。そしてその理由が木塔には風鐸がないからだという。 ところが何でもアップで撮る夫が木塔にも風鐸があるのを見つけた。風鐸は鳴っていないのは確かだが、 風鐸があるのもまた確かなことだった。
しかも、5つの屋根の8つの角それぞれについては全てみえるのではないのだが、見える範囲では1つの角に2つ風鐸がついているようだ。何故鳴らないのだろうか。付け方が悪いのか、風鐸が鳴らないくらい風の弱い地方なのか。
しかし、木塔の風鐸が鳴ったという文を見つけた。高見徹氏の「雲崗・鞏県・龍門石窟の旅道中記(2006年10月)」に、各階の屋根の先端には風鐸が吊り下げられており、吹く風にかすかに鳴り響いている。昨年奈良・大安寺の九重塔跡から総高55㎝の風鐸が出土したが、奈良時代にはこの木塔のような音色を奏でていたのであろうかという。かすかには鳴っていたらしい。

話は前後するが、応県木塔には風鐸がないので多数のツバメが巣を作るという話を屈さんがしたのは、前日の太原東郊にある双塔寺でだった。
日が少し傾いたころに双塔寺(永祚寺)に到着し、山門からはしぱらく歩いて階段を上ると軽い風鐸の音が心地よく響いてきた。(双塔の説明は応県木塔(仏宮寺釈迦塔)は監視塔でもあったの木塔と双塔の背比べの箇所です)ほぼ同じ高さらしいが、近い宣文塔の方が高く写る。 もちろん夫はアップで撮りまくったのだが、光線がやや弱いのと、風鐸はかなり高いところにあるのとで、なかなかピントが合わなかった。
宣文塔は各層屋根の軒瓦が青い瑠璃瓦になっている以外はどこも同じ色の磚(せん、焼成レンガ)で造られているということだったが、八角形の角にズームしている内に、夫は各角の1部品だけ磚でないものを発見してしまった。それは風鐸を吊り下げる部分で、なるほどそこだけ板が嵌め込まれていることがわかる。 
きっと昔から山西省では「双塔は宣文塔の瑠璃瓦以外は全部磚でできている」「木塔には風鐸がないからツバメが巣を作る」などと言い伝えられてきたのだろう。
屈さんは「木塔に風鐸はありますが、鳴りません」と少し負け惜しみっぽく最後に言った。

中国黄土高原の史跡を訪ねての「3日目 大同から太原へ」に、塔の前に隕石が展示されている。ここに隕石が落ちたので吉兆だとして塔を建てたのであるという文があった。
我々もこの隕石の写真を撮ってきたので、おまけです。隕石のガラスケースに半分隠れている白い石の八卦は、ここにお寺が建てられるまでは道教寺院だったからですと屈さんに聞いた。



2007/06/14

応県木塔の構造



仏宮寺釈迦塔は、『図説中国文明史8 遼西夏金元』によると、遼の興宗(こうそう、第7代皇帝)の皇后の父簫孝穆が建てたもので、官式建築です。1尺を29.4㎝とする唐の寸法が使われましたという。内部は撮影禁止。初層に入ろうとしたら中は真っ暗に近く、内部は土壁でその中に大きな釈迦座像と両側に立像があった。
ガイドの屈さんは、三世仏です。左側に過去仏の燃燈仏、右側に未来仏の弥勒ですという。 更に暗いところに、ものすごく急な、古く長い階段があって、見えない中を前の人にぴったりと付いて登っていった。下りる人に間に入られるのが怖かったからだ。使い古された手すりにしがみついて、振り落とされることなく登っていったが、下りる時はもっとこわかった。 単純に計算しても、67m以上もある五重塔なので、1つの層が12mくらいあるのだから。
途中に踊り場でもなく階段の継ぎ目があった。そこは天井裏のような感じだったが、暗くてよくわからなかった。

『中国仏塔紀行』は、初層に裳階(もこし)を付けた中国に現存する最古の木造塔。塔は2段の基壇上に側柱と入側柱を梁によって組み、積み上げた構造で、外観は5層だが、各層間に暗層(天井裏)が設けられており、実際は9層となっているという。
木造では一番高いのだが、高いものを眺めたなあという気がしない。『図説中国文明史8 遼西夏金元』の断面図で見ると上のようになる。
同書は、塔は八角形で、唐代の四角形にくらべ、より安定している。また上から見ると筒が二層重なったような構造は、心柱を周囲に押し広げて、塔の内側に柱を環状に立てたようにしており、空間を広げるだけでなく塔の強度もおおいに増したという。
「上から見ると筒が二層重なったような構造」については、『中国建築の歴史』に平面図(プラン)があった。唐代の四角形の塔というと、西安にある七層の大雁塔しか知らない。そう言えば夫は大雁塔が印象深いようで、八角形の応県木塔や太原の永祚寺にある明代の双塔に違和感があったようだ。 大雁塔は『中国仏塔紀行』によると、唐652年創建、930年再建ということだ。五代十国時代に入っていたのだ。北方民族の遼(916-1125年)が唐代(618-907年)の建築を基本としたのは、『図説中国文明史8 遼西夏金元』によると、契丹人が最初に住んでいたのは簡単なつくりの穹廬(ドーム式テント)でしたが、燕雲十六州を奪ったのち、勢力範囲が今の山西省や河北省北部など漢族居住区にまで拡大すると、見る見るうちに漢文化を吸収しましたという。
いつの時代にも、北方民族は漢族の進んだ文化にあこがれがあったのだなあ。

さて、二層目に登りつくと古い隙間の多い床だった。 階段手すりの角度からも階段がいかに急かがわかる。また、八角形のため、放射状の梁が強さを感じる。入側柱の内側には塑像が安置されているという『中国仏塔紀行』の説明通り、 あまり存在感のない仏三尊像があった。

『図説中国文明史8 遼西夏金元』 は、遼代建築の設計は唐の特徴を受け継いでいるものの、発展した部分もあり、いくつかの重要な変化があらわてれいます。機能面での必要性から、柱の配置は唐代建築の厳格な対称構造をやぶって、ほんらい仏像を置いていた場所を後方にずらし、前方の空間を広げましたが、こうした変化はまぎれもなく、金代の減柱法(げんちゅうほう)や移柱法(いちゅうほう)の先駆けですという。
 仏像の位置が中央からずれているのは記憶にないのだが、床が傾いているのは歩いていてよくわかった。残念ながら現在はこの二層目までしか登れない。
これ以上登れないので、バルコニーに出てみた。地垂木(じたるき)と外側の飛檐垂木(ひえんだるき)と二軒(ふたのき)構造になっている。四角形の建物だと、角は扇垂木(おうぎたるき)になるのだが、八角形だと平行垂木のように見える。しかし、平行に見えるだけで、わからないくらいの角度で扇状になっていないと、八角形を一周することはできない。上の写真にもあるが、先が鋭角に尖った尾垂木が、少しながら現れている。これは他の建物でも見かけて気になっていたものだ。このたびの旅行で、どこで尖った尾垂木を見かけたのだろう。

※参考文献
「中国仏塔紀行」(長谷川周著 2006年 東方出版)
「図説中国文明史8 遼西夏金元」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「中国建築の歴史」(中国建築史編集委員会 1981年 平凡社)
「山西古建築通覧」(李玉明主編 1987年 山西人民出版社)

※参考ウェブサイト
日本すきま漫遊記より組み物の各部の名称
風に吹かれて匠の心意気

2007/06/13

応県木塔(仏宮寺釈迦塔)は監視塔でもあった



太原から大同への高速道を新広武料金所で降りて50分程で応県仏宮寺木塔に到着した。方角的には恒山山脈へと向かっているので、多少の勾配はあったのだろうが、ひたすら平たい高原を車で走ったという記憶がある。 ガイドの屈さんが、木塔は正式には釈迦塔と言います。遼の時代に建てられました。高さは67.13mあります。八角形の五重塔です。北東に10度傾いています。専門家が傾きを直すために会議を開きましたが、結論は出ませんでしたと説明してくれたが、他に比較する建物がないこの八角五重塔がそんなに高いことが実感できない。
それで、昔写した法隆寺五重塔(708-715年に再建、高さ32.5m)と比較してみたらこんな感じになりました。前日に太原東郊の明時代創建の双塔寺で八角形の十三重塔を見ていたので、あの細長い塔の方がずっと高く感じた。

屈さんは、宣文塔は高さ55mぐらい。明の時代、万歴帝(1573-1619年)のお母さん、宣文皇太后が建てました。屋根は青い瑠璃瓦で、瓦以外は全部レンガで造られていますと言っていたので、ずんぐりした木塔の方が高かったのだ。同じく宣文皇太后が建てた文峰塔も同じくらいの高さという話だった。
そこで、双塔とも比較してみると、ほぼこんな感じです。 双塔には登らなかったが、木塔は上まで登れるとガイドブックにあったので、この日は登る気でいた。木塔の方が高いとはいっても、幅が広いので安定感があった。
ところが、現在では2階までしか登れなかった、残念。
『図説中国文明史8 遼西夏金元』 に大同市善化寺普賢閣は、外廊の周囲に手すりをめぐらした構造は、遼代建築の特徴をそなえる。宋・遼・金の時代、黄河以北の地域では、仏教寺院で高い塔の形をした楼閣が流行し、景色をながめると同時に、敵のようすを監視することができたという。

北方民族が建国した遼が、清寧2年(1056)に67mもある塔をこの地に建てたのは、信仰心だけでなく、敵を監視するという実用性もあったに違いないと思った。
では、遼が応県の木塔から何を監視していたのか。それは雁門関の周りの土壁はどれも長城に見えるで紹介した『図説中国文明史7 宋』に掲載された北宋・遼・西夏の領土図にあるように、山西省代県の高い山にある雁門関が北宋側の監視塔なら、この木塔は遼側のそれだったことは、実は戦争には関心がなく、日本史も世界史も興味が持てなかった私にでも察することができる。

さて、2層目より一周します。南西側、 真っ平らです。同図の瓦橋関という文字のあるあたりに応県木塔があると思いますが、雁門関と長城で紹介した『地球の歩き方05-06中国』の地図と比較して下さい。地図からこの方向に北宋との国境があったはずです。 南側にも国境。仏宮寺の回廊、山門の両側、南側と全てが新しい。 南東側にも国境。応県は小さな町なので、建物も低いが、中国の他の町同様、新しい住宅がどんどん建っている。
東側にも国境。恒山山脈がうっすらと見えている。お寺の外壁の向こうは屋根に石を並べた古い家々も、いずれはなくなってしまうのだろうなあ。 北東側は遼の領土。恒山山脈が少し続く。境内の北東角にあるのはビニールハウス。敦煌でも見かけたが、この山西省一帯で見られる。北側が土壁となって、南面にカーブしてビニール屋根がかかっている。上に並んでいるのはムシロのようなもので、寒さ除けかな。 北側も遼の領土。下の建物は最近再建された本堂だったと思う。 北西側も遼の領土側。仏宮寺境内の西側は公園として整備されているらしい。大同はこの方角かな。 西側も遼の領土。それにしてもこの広さ。バルコニーを一周して八方を眺めたら、第2層からでも、視界を妨げるものは何もなかった。第5層まで登ると、もっと遠くまで見晴るかせたに違いない。

「図説中国文明史7 宋」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「図説中国文明史8 遼西夏金元」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「地球の歩き方05-06中国」(2005年 ダイヤモンド社)