お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/08/31

高昌国のペルシア風建物はソグド人?


高昌故城はトルファンの東40㎞、火焔山の前平原にある。海抜-40mで夏になると蒸し暑く、火州と呼ばれたと小冊子『高昌故城』にある。
海抜以下というのは確かなようだが、何mかは書物によって異なる。トルファンの暑さについては「バケツの水をかぶってもすぐに乾いてしまうほど」と表現する人もいる。我々が行った時は40度だったが、日本の夏のように汗がだらだら出るようなことはなかった。

版築の周壁が見えてきた。地面も壁も同じ色だ。前日は大雨が降り、遺跡が崩れたということだったが、建物でさえ同じ色なので、どこが崩れたのか見当がつかなかった。畑の隣が遺跡というのは、高昌国の時からだろうと勝手に想像している。 高昌故城の歴史は、同小冊子は、前104年(前漢武帝期)に、「地勢が高く、人間が隆盛である」ということで高昌と名づけられ、駐屯部隊の兵士のとりでである「高昌壁」を建てた。327年より前に涼王朝の張駿が高昌郡を設立して高昌城の歴史に入った。 
443年に北涼王族沮渠氏が兵士部隊を率いて、東から高昌城に入った。柔然が沮渠氏を攻めたりした後、499年に麹嘉が登場、「麹氏高昌」の歴史に(499-640)。
640年に唐朝の軍隊が高昌に入って、西州都御府を設立。9世紀中後期に回鶻人が高昌に入って高昌回鶻汗国を建てた
という。

匈奴やウイグル族などの北方民族の侵入はあったが、ペルシア人がトルファンまで侵攻したという事実はない。何故漢族の麹(きく)氏の時代に高昌国の建物がペルシア風だったのだろう。
高昌故城の大きさは早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページの高昌故城によると東西1600m、南北1500mもある。そのためロバ車で見学するのだが、我々はガイドの丁さんを含め3人、10人揃わないと出発しないとオヤジが言うのでしばし待った。 ロバ車に8分ほど揺られ、南にあるβ寺院(その講堂で玄奘三蔵が説法をしたことで有名)の前で降ろされた。帰りも同じ道を通ったので、高昌故城の遺跡のごくわずかを見ただけだ。
上の地図で「可汗堡」というところだろうか。ヴォールトらしきものが見えてきた。 この穴もヴォールト天井だ。 四角い穴もあるかも知れないが、半円形の穴もありそうだ。 ドームのようにも見える。 半分弧を描き、半分四角いようにも見える。こちらはヴォールト天井の部屋が並んでいるようにも見える。殷時代からあるという版築の技術で作られた壁面を間近に見ながら、丁さんが力を入れて説明してくれた、板で囲いをして土を入れて、とんとん突き堅めて、また板で囲いをして、と繰り返して高くしていきますと。
蛇足だが、NHKの『探検世界遺産』という番組の万里の長城後半編で、版築の頂上を私財を投じて修復している人が数人でリズムよく土を突いている場面があり、どのように突き固めるかがよくわかった。その中国の伝統的な工法でペルシア風の建物を造ったというのは面白い。ペルシア風と表現したのは玄奘三蔵である。日本でも長らく正倉院のもので中国でないものはペルシアと言われてきた。「胡」がつくものもペルシアから中国にもたわされたものとされてきた。
しかし、数年前NHKスペシャルで『文明の道』というシリーズが放映された。その第5集に「シルクロードの謎 隊商の民ソグド」というのがあり、以前はペルシアだと思っていた事柄が、実はソグドだったという画期的な内容に驚愕した。番組では、シルクロードの交易を仕切っていたのは同じイラン系のソグド人だという。

同書は、周囲を城壁で囲まれたペンジケントは、13ヘクタールという小さな都市と、その周囲の農耕地が領土のすべてだった。城壁のなかには、土でつくられた小さな家々がびっしりと建てられていた。当初、ペンジケントは家々が整然と並ぶ町だったが、人口の増加によって、2階、3階と建て増しされ、通りの上にまで家がつくられた。  ・・略・・  建て増しの際の強度を保つため、天井はアーチ型という。
また、2000年に西安郊外で見つかったソグド人の墓の墓碑銘について、北京大学歴史系教授の栄新江氏は、・・略・・  商業を目的に中国にやってきた多くのソグド人たちが、交易に便利な場所を選んで集落を築き、定住していたことが、明らかになってきたと説明する。
ペルシア人が高昌国にペルシア風の建物を伝えたのではなく、高昌国に住んでいた隊商の民ソグド人が、中央アジアの故地の建物を造ったのではないだろうか。

ところが、一緒に出土した数枚の石のパネルに描かれたレリーフが彼らの生活を現代に伝えている。  ・・略・・  『墓主夫婦図』には中国式の館のなかで暮らす、主人とその妻の姿が描かれていると、取材班の文が続いていた。「高昌国はペルシア風の建物ばかり」と玄奘三蔵の見たものは、麹氏の趣味だったのか。

※参考文献 
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会

「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送出版協会
「高昌故城 シルクロードの名城の1400年の歴史を総観する」 2001年 新疆美術撮影出版社

※参考ウェブサイト
早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページ高昌故城

2007/08/23

トルファンのウイグル族の家



『中国大陸建築紀行』の著者たちは交河故城付近の維吾爾(ウイグル)族の民家にも足を運んでいる。
維吾爾族の住居は  ・・略・・  オアシス地帯に限ってみれば、日乾しれんがの中庭型が一般的で、夏・冬住まい分けるためか部屋数が多く、比較的大きな家となることが多い。その中にあって気温の寒暖が特に激しい吐魯蕃では、ほとんどの家に地下室や半地下の部屋があり、オンドル式のベッドを備えた冬の寝室や、夏の台所など、季節に応じた使い方がなされている
という。
下の写真が添付されているが、このヴォールト(トンネル型)天井についての記述がないのが残念だ。
上の写真を見ると、トルファン郊外の火焔山の中にあるトユク村を思い出さずにはいられない。小さな村の中心には、ドームとそれを取り囲む鉛筆のようなミナレットのモスクがあった。少し上流のダムから見たものだが、隠れ里のように思っていたこの村から、遙か向こうに広がるトルファン盆地のオアシスが見渡せる。そのダムのために、トユク村を縦断するのはこのような小さな流れでしかない。渓谷の奥にあるトユク石窟を見学するには、この村を通り抜けることになる。 小川に沿った道を歩いていると、何故か道路の上にヴォールト天井があったのだった。日乾しレンガでつくられていて、その先はまるで誰かの家の中の通路のような道だった。突き当たり(京都ではどんつきと言う)はオート三輪車の車庫となっていて、その前を右に曲がり、さらに右折したように記憶している。その道に面した民家の扉が開いていたので写させてもらった写真には、天井が写っていないのが残念だ。町の中には、ドイツ人シルクロード学者勒柯克(ルコック)が住んだ家というのもあった。ウイグル人の村なのに、木の枝を使って漢字でそれを表しているのが面白くて撮った。扉の上部には、北京の四合院の玄関で見かけた一対の木の突起と同じものがあった。ここだけ漢族が作ったのだろうか。 ウイグル族は遙か昔からトユクやトルファンで暮らしてきた民族ではない。『中國新疆壁畫全集6』では、同じく火焔山中の渓谷に開かれたベゼクリク石窟は9世紀中葉より回鶻(ウイグル)期となっている。そしてここトユク石窟は、五胡十六国時代の前涼が高昌郡を置いた327年から麹氏高昌国が唐に滅ぼされる640年までの間としているので、おそらく石窟を造営したのは漢族だったのだろう。

ウイグル族はトルコ(テュルク)系の遊牧民族なので、元来は平面が円形の穹廬(きゅうろ、パオ・ゲル)または平面が方形のフェルト製テントに住んでいただろうと勝手に想像するのだが、ウイグル族は何時頃からこのような日乾しレンガで作った家に住むようになったのか。
『シルクロード建築考』 に面白い記述がある。
『大唐西域記』によると、玄奘三蔵一行が高昌城を訪ねたときは、初唐の太宗貞観2年、紀元628年の春のころである。
玄奘が広大な外城を通って内城に入ってみると、各種の建築は殆どペルシャ的で、壁面には美しい壁画が色鮮やかに飾られていたという。だが、残念ながら、中国的な建築遺跡は一向に見当たらなかったらしい
という。

そのペルシア風建築がウイグル族に受け継がれてきたのだろうか。 

※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「中國新疆壁畫全集6」 1995年 新疆美術攝影出版社
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術

2007/08/20

トルファン、交河故城にも窰洞(ヤオトン)



夏になると思い出すのが西域旅行だ。このところ猛暑が続いているが、トルファンはもっと暑かった。お昼前に見学した東南郊の高昌故城では40度もあったが、トルファンにしてはものすごく暑いとは言えない温度だった。
現在の市街地から西10㎞にある交河故城は翌朝見学した。文字通り2つの河に挟まれた中州にある。
トルファンに戻ってバザールの近くにたまたまあった書店で見つけた小冊子『交河故城』は「シルクロード城郭古都の美を感受する」という妙な直訳の日本語訳の副題がついている。本文も日本語訳がすごいので、それを意訳すると、台地の断崖の高さが30mで両側にヤルナーズ河が流れている。台地の形は柳葉状で南北1700m、東西で一番広いところが300mです。紀元前2世紀から車師人が暮らし、その王国の都城として最古の記述が「漢書西域伝」にある。漢代より北涼(5世紀)まで存在した。 

640年に唐王朝は高昌国を滅ぼし、交河郡を設立して西州に属した。
9世紀にウイグル族が交河城を建築し、高昌ウイグル風の遺物も少なくない。13世紀の末になって(元代)交河故城はだんだん廃棄されたという。
様々な時代・民族の遺構が残る遺跡だ。南側にスロープのある道があり、そこから入城した。当時も両側の河の交わるこのあたりから人々は行き来したのだろう。北側は青空が見えているのに、南側は雲に覆われていたおかげで、前半は日陰の状態で見学することができた。『建築巡礼16 中国大陸建築紀行』は、船首に相当する南の入口から城内に入ると、幅10mほどの大通りが交河城最大の遺構である仏教寺院まで続く。  
住居をはじめ多くの建築が自然の大地を掘り抜いて造ってある交河城にあって、用途のはっきりしない地下建築がある。高さ2mほどの土塀が巡らされた一角に、1辺が約10mの矩形の竪穴を深さ6mほど掘り下げ、これを中庭とする四周の壁に横穴を穿った遺跡で、形態的には私達の旅の目的である黄土高原の地下住居、「下沈式窰洞住居」そのものだが、城内に一つしか見られないところから住居とは考えにくく、廟とか監獄の跡という説も実証するものは何もない。しかし私達にとっては下沈式の窰洞建築には違いない
という。

それを読んで、私の頭に浮かんだのは、「官署遺址」だった。その説明板には、1994年に一大型古井が考古学的に発掘されたというようなことが書いてあった。我々は金属の囲いの向こうの階段から降りて入ったが、四角い空間しかなく、その周囲ばかり撮って、空間そのものの写真は撮らなかった。小冊子『交河故城』に平面図があった。階段(A)を下りてその四角い空間(D)へ入る。土地を掘り下げた壁面が両側にあり、同じ色ながら、版築や日干しレンガとはまた風合いの違うものだった。確かに、ヴォールト天井(半円筒形・トンネル型の天井。中国語では巻頂天井)の部屋が周囲にあった。これが窰洞だとは思ってもみなかった。Bは崩壊したのか、明かり取りなのか、奥に穴が開けられていた。Cは逃げ道であると、ガイドの丁さんが教えてくれた。左にカーブしながら続いていることがぼんやりと見える。Bと比べると天井の堀り方が雑なので、秘密の通路と言われれば、そうかなと思うようなものだった。これも窰洞というのだろうか?同書によると、東から段階を降りると天井庭院に着く。庭院は方形で交河県の官署であると天井という言葉がでてくる。そして平面図には、天井院和窰洞面積・・・と、窰洞という文字もあった。この本には簡体文字で記してあるのだが、ヤオトンが窰洞という漢字であることも知らなかった。
説明板には、官署は唐時代に安西都護府の最高行政機関があったとしているので、漢族が唐時代に造ったものとわかる。『中国大陸建築紀行』で中澤氏が「高さ2mほどの土塀が巡らされた」 というのは、このような途切れ途切れの周壁のことだろう。『シルクロード第5巻 天山南路の旅』は、南区の中央に一段深く7、8m堀りこまれた広場があった。監獄跡だろうという。下に降り、門口と思われるところから入ると、10mほどの「トンネル」を通って広場に出る。15m四方はあろうか。ここには、小作料を払えなかったり、賦役や兵役を逃れようとしたり、「過料」をもたずに旅した人たちが押しこめられたのだろうか-さえぎるもの一つない陽光が容赦なく注ぎ、暑熱はたまって動かず、往時の人びとの怨嗟の声が聞こえてくるようだという。

トルファン住民の言い伝えから空想を膨らましている。我々も「官署遺址」よりも「監獄跡」の方が熱心に見学できたかも知れない。「10mほどのトンネル」というのは、Cの逃げ道のことだろう。せっかくだから、我々も通ってみたかったなあ。

※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「交河故城 シルクロード城郭古都の美を感受する」 2004年 新疆美術撮影出版社
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 陳舜臣・NHK取材班 1981年 NHK出版

2007/08/10

窰洞(やおとん)と四合院



車窓から見る窰洞は、平地に造り上げたものだった。『建築巡礼16 中国大陸建築紀行』ではそのようなものを地上窰洞と呼んでいるようだ。
平遙の四合院にも地上窰洞が用いられているので、地上窰洞は遅くとも清代にはあったようだ。渾源県から大同市の道中で見かけたものは、最近作られたというのでもないのかも。
ところで、平地に作られたものを地上窰洞と呼ぶなら、これぞ窰洞と思っていた、黄土高原の崖に横穴をを掘って作られた窰洞はなんと呼ぶのだろうか。
それは靠崖式(こうがいしき、カオヤー)窰洞というらしい。

同書は、黄土高原の窰洞集落を一つでも多く訪れたかった私達は、考察の回を重ねる度に新しい地域を加え、靠崖式の集落も数多く訪れた。  ・・略・・  自然にとけこんだ景観の美しさがある。三門峡市から車で1時間弱、黄河の峡谷に横たわる三門峡大ダムに向かう道筋にある位家溝村(ウェイチアコウ)は、私達の誰もが「桃源郷」と口にした美しい村だったという。
そんなに美しい村なら、今でも桃源郷であり続けていてほしいものだ。 同書では、我々が探していた靠崖式窰洞よりも、下沈式窰洞(かちんしき、シアチェン)というもを探して中原のあちこちを調査している。
平坦なユアン(土偏に原)上に四角い中庭をぽっかりあけた下沈式  ・・略・・ 地坑院(ティーコンユアン)と呼ばれる下沈式窰洞住居の中庭の穴が、規則正しく並ぶという。

うっかりと落ちてしまうのではないかと、そそっかしい私は心配になる。同書で中澤氏は、それにしても目の当たりに見た下沈式窰洞住居の印象は強烈なものだった。中庭の際まで近づいて、やっと人の住まいと知れる不思議もさることながら、穴を掘るだけで空間を生み出す窰洞は、柱を建て、壁を築く、私達の知っている「建築」行為とは逆向きの空間獲得の方法である。  ・・略・・  ひとたび下沈式の中庭に降り立てば、その平面構成や住まい方は、漢民族の代表的な伝統的住居形式である四合院そのもの、見上げた青空天井に別称天井院(ティエンチンユアン)式窰洞も腑に落ちたという。
どうやら四合院は内モンゴルからやってきた胡人の住居ではなかったようだ。四合院の原型が下沈式窰洞と理解してよいのだろうか。ところで、用語が少し異なっているが、靠崖式窰洞と下沈式窰洞の作り方が記された本があった。
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、明器は、生者が日常生活において実際に使用する祭器にたいして、墓主が黄泉の世界の暮らしに便なるように用意され、副葬されたものである。したがって、  ・・略・・  個々の陶屋や什器などの明器にも墓主生前の生活が濃厚に反映することになるのは当然であった。  
一般に窰洞(やおとん)と呼ばれる横穴住居は、黄土層の断崖に向かって水平方向に土壙を掘りすすめてヴォールト天井式の居室空間を形成するもので、山西・河南・陝西など、黄土地帯の広域にわたって数おおく分布する。窰洞には、いくつかの類型があり、ほとんど直立に近い自然の断崖をほぼそのまま利用し整形を加えるだけで、直截横穴を掘りすすむタイプ(靠山式、こうざん)がもっとも簡単で、しかも普遍的に存在する。一方、はじめから人為的に、地面に方形の竪穴を掘り下げて院子(中庭)をつくったうえで、あらためて黄土の四面の断面に向かって横穴を掘りすすむもの(天井式)がある。  ・・略・・  窰洞は基本的に一室ずつ水平方向に穿たれた土壙の居室の数室からなっていて、それぞれが地上の住居の一棟に相当するかたちをとり、しかも各室の入口はすべて中庭に面することになる。この構成は人為的に中庭を掘り下げてから作る天井式の窰洞の場合とくに顕著にみとめられるだろう。
このように、土壙と木造家屋とで構造的にも外観としてもまったく異質でありながら、平面配置の原則は軌を一にしていることが理解されるだろう。天井式の窰洞の場合、その四合院との共通点がとくに際だっている
という。

田中淡氏も四合院と天井式の窰洞との共通点に着目しているようだ。塀をめぐらした住居の陶製模型 呉(222-258年)  湖北鄂将軍墓出土 鄂州市博物館蔵
 呉時代(三国時代の一つ)にはこのような四合院に似た明器も作られているので、少なくとも同時代には四合院の原型のようなものが存在したことが伺える。ということは、その時代に沈下式窰洞も存在したと考えてよいのだろうか。

※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 愛知県陶磁資料館他
「図説中国文明5 魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社

2007/08/08

山西省で見た窰洞(やおとん)は



窰洞はみたいと思っていたが、今回の旅行では期待していなかった。黄土高原というと、黄河が柄杓のように回り込んでいる、オルドスと呼ばれるあたりのことだと思っていたからだった。しかし、山西省は一 黄土高原ならびに大同市の概況で、山西省のほぼ全域が黄土高原であることを知った。 
太原から応県木塔へと向かって高速に入ると、あっけないほどすぐに黄土高原の景色が広がったのだった。段々畑状になっているようなのだが、横から見ているので、それがはっきりとは見えなかった。黄土高原は雨などで縦に崩れて深い谷ができますと屈さんが言った。確かに谷があちこちにあった。 窰洞と思われるアーチ形の開口部はところどころで目に入ってきた。そのたびに「やおとん」「やおとん」 と浮かれている我々に、ガイドの屈さんは「あれは粘土を採った穴です」などとあっさりと言うのだった。木塔の後見学した渾源県の懸空寺から大同へと向かう道の途中に、黄土高原が再び出現した。カーブの連続で、めまぐるしく変わる景色に、窰洞らしきものが見えてきた。「やおとん」とまた声を上げると、屈さんは「やおとんです」と、今度は肯定してくれた。しかし、もはや人は住んでいない。そしてやっと人の住む窰洞が現れた。小さな集落だった。屈さんは、平地にヤオトンを造って住んでいます。厚く土を盛ってあるので、夏は涼しく、冬は暖かいですと言った。平地に窰洞のようなものを造っているように見えて、どうも本物の窰洞と思えなかったが、崩れやすい黄土を掘るよりも、安全に生活できるという。 そして平たくなって、道が直線になったところにもヤオトンの集落があった。 黄土の崖に穴を穿って住むというのはもはや過去の話なのだろうか。

2007/08/06

山西省でアーチやヴォールトと言えば窰洞



喬家大院の四合院には出入口や窓もアーチ形になっているところがあったが、室内は平天井だった。その後行った平遥は明代の城壁に囲まれた町だった。それまでは版築の城壁だったのが、焼成レンガ(磚、せん)で表面を覆い、補強したのだそうだ。 その城門もアーチ形だったのは、版築という土を突き固めたものに開口部を造る場合、四角いものよりも円に近い頂上にする方が上からの荷重を両側に逃がして丈夫だったからだろうか。平遥の名産が漆器というのは知らなかった。ガイドの屈さんは、仕上げにゴマ油を塗るので光沢がありますと言ったが、漆器と言えばジャパンでしょう。
渾漆齋大院という有名な漆芸家の工房は、その昔日昇昌の支配人・冀玉崗氏の祖先の住宅だったのだそうだ。塀の高い立派な邸で、その入口もアーチ形だった。 ここも四合院が複数あった。奥の四合院は、それぞれの建物ににアーチ形が複数並んでいた。中の一室に入ると両側の白い壁が円筒形(トンネル状、ヴォールト、穹窿)の天井へと続いていた。4月にしては暑かったその日は、部屋に入るとひんやりと心地よかった。上の階や隣室の間には土が詰まっていることを思わせた。複数の四合院を繋ぐ通路のひとつが、やはりヴォールト天井だった。このアーチ形の入口や窓、あるいはトンネル状の天井というのは、黄土高原の住居として知られている窰洞(やおとん、窰の異体字は窯)と同じつくりではないか。
黄土高原で、窰洞という形態の住居がいつ頃から造られていたのかわからないが、四合院にも入り込んでくるほど、窰洞は夏暑く冬寒い山西省の気候に合った住居なのだろう。

2007/08/01

山西省で四合院巡り



晋祠の次に行ったのは喬家大院という清代の大邸宅だった。
ガイドブックは、平遥の東北35㎞にある、喬一族のかつての大邸宅で、中国北方民家建築の典型。「紅夢」のロケ地となったことでも有名になった。高さ約10mの壁に囲まれた約8720㎡の敷地内に300を超す部屋があり、清末から中華民国にかけて国内外に名をはせた金融資本家・喬一族の生活をうかがい知ることができる。喬家大院は民俗博物館として内部は6つの展示区画に分かれ、喬家の所有していた珍宝や民俗工芸品などが陳列されており、中国アンティークファンにはこたえられない内容だという。
屈さんの説明では部屋数は130ほどだった。案内図があったが、そんなにたくさん部屋があるようには思えない。 東側の入口から西へとのびる大院甬道の両側に、四合院という中国北方民家の伝統的な間取りが組み合わせてあるらしい。間取りは風水に従っていると屈さんが言っていた。こんなに高い塀に囲まれているのが一軒の家の通路とは。
私の頭の中で清代といえば派手な陶磁器が浮かぶので、塀や建物が高温で焼きしめられたレンガ(磚、せん)で造られている建物は新鮮だった。硬質で均質な磚がびっしりと積み重ねられた壁面は、ヨーロッパの大きな切石を積み上げた建物ともまた違う雰囲気だった。 四合院には門から入っていく。 四合院にはそれぞれ中庭があるのだが、日本人の思う中庭とはだいぶイメージが違う。ここも磚が敷き詰められている。 中には民衆に演劇などを見せる舞台のある四合院もあった。さすがに名士の邸宅である。 その後行った明代の城壁が残る平遥(世界遺産)の中に残る家々も四合院という形式のもののようだった。 住居だけではない、「日昇昌記」という票号の建物(現在は博物館)も四合院になっていた。
屈さんは票号は中国の銀行です。日が昇るように繁盛するという意味です。通貨の銀を運ぶのは大変でした。そして危険なので、為替を考え出しましたと説明してくれた。 これだけの部屋数があるのは、従業員が寝泊まりしたり、来客を泊める部屋などもあったかららしい。 このように四角い中庭を四角い部屋が囲んでいるのだが、屈さんに付いて歩くだけなので、どこをどう通ったのか覚えていない。ウィキペディアは、山西省等では西日を避けるために東西の幅を狭く、南北の幅を長くしている。
北京の四合院に限れば、遼代には基本的な構造は形成されており、その後の金、元、明、清代を経て現在のような構成となった
という。


※参考ウェブサイト
ウィキペディア 四合院の模型が出ています