ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/07/23
懸空寺は北魏創建だが
応県木塔の後は渾源県の懸空寺に行った。 現在は水のない渾河に沿って道は太行山脈の支脈の一つ恒山山脈へ。ガイドの屈さんが、昔は水害がひどかったのでそれを鎮めるために懸空寺を造りましたというが実感できない。さっきまで黄土高原の開けた景色の中を走っていたのに、正面に見えていた同じような高さの山脈から、突如として塊量感のある岩山が迫ってきた。恒山だという。恒山山脈の名の元になった山だ。恒山に南面する崖に懸空寺はある。北魏末(534年まで)に建立されたのが、懸空寺である。ガイドブックは、かつてこの地方は洪水が多かったため、このような場所に寺が建てられたのだという。断崖絶壁に彫られた穴に梁木を差して基礎としているが、木が細いため楼閣が宙に浮いているように見えるのが特徴。現存の寺は明・清代に修復されたものという。
駐車場から、今では全く水のない川の上に架かる吊り橋を渡って恒山の対岸にある懸空寺に行くのだが、その吊り橋は短いのにものすごく揺れて、みんなきゃあきゃあ悲鳴を上げながら渡っていく。夫はワイヤロープで固定していないからだと言っていた。屈さんは、標高2004mの山の崖の掌(たなごころ)にあります。手のひらのように崖のくぼんだところにあるので、雨が降り込みませんでした。そして、北側にあるので日差しは2、3時間だけです。だからよく保存されましたと言っていたが、それでも何度か建て直されたらしい。
懸空寺には左(東)側から入っていく。屈さんが、中国人は寛容だったので、道教も儒教も仏教を排斥することなく仲良くしました。三教合一ですと説明してくれた。
『図説中国文明史7宋』は、宋代は中央集権による統治のさらなる強化にともない、 ・・略・・ 宋代の三教合一は、宗教的機能の相互補完から哲学理論の融合へと発展し、民間の信仰にも影響をおよぼしました。民間で祀られた神像の多くは、儒教・仏教・道教の神仙や人物を融合させたものであり、ここに三教合一が具体的にあらわれていますという。ということは、北魏末の創建時は仏教だけの寺院で、河の神か何かを鎮めるために建てられたものはもっと小さかったかも知れない。しかし、このような崖に寺を造る技術があったのだ。それはひょっとして、雲崗石窟の高い窟や大きな窟(草創期だが)を造る技術の応用だったかも。
ここに雲崗石窟第12窟の仏殿に似たものが建っていたのかも知れないなあ。
あるいは、時代は下がるが、敦煌莫高窟第444窟の外側に取り付けられた建物(宋時代、960-1279年)を見ていると、ある時期はこれに近い、もっと簡素な建物があったのかもなどと思ってしまう。上の建物を支える細長い柱が林立するが、見えている部分よりも岩の中に入っている方が長いという。さて現在の懸空寺は瑠璃瓦で覆われた屋根が跳ね上がり、隅棟には同じく瑠璃瓦で動物の彫刻が複数載せられているが、これは清朝(1644-1912年)のものらしい。
写真の一番低い場所が出入口だが、その向こうにも門があり、登っていく人も中にはいた。 それはダムへの通路で、上の方に龍が口を開けて待っている。現在はダムが造られたため、水害の心配はなくなった。道をそのまま進むと五台山に繋がっているらしい。
五台山には金代の仏光寺文殊殿がある。当時は大同も金の領土。ということはここ懸空寺も遼・金という北方民族の領土だったのだ。ということは、三教合一となったのは、明代(1368-1644年)の再建時あたりか、元代(1271-1368年)ということになりそうだ。 このような地層の露わになった断崖が続く恒山山脈だが、屈さんは、もう少しで木の葉が出てきれいな景色になりますと言っていた。知らぬ間に高度を稼いで、1500mかそれよりも高いところまで来ていたのだった。日本で言えば上高地あたりの標高なので、新緑が遅いだけだったのだ。
※参考文献
「図説中国文明史7 宋」 劉煒編 2006年 創元社
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「08-09新個人旅行 北京」 2007年 昭文社