応県木塔の後は渾源県の懸空寺に行った。 現在は水のない渾河に沿って道は太行山脈の支脈の一つ恒山山脈へ。ガイドの屈さんが、昔は水害がひどかったのでそれを鎮めるために懸空寺を造りましたというが実感できない。


駐車場から、今では全く水のない川の上に架かる吊り橋を渡って恒山の対岸にある懸空寺に行くのだが、その吊り橋は短いのにものすごく揺れて、みんなきゃあきゃあ悲鳴を上げながら渡っていく。夫はワイヤロープで固定していないからだと言っていた。

懸空寺には左(東)側から入っていく。

『図説中国文明史7宋』は、宋代は中央集権による統治のさらなる強化にともない、 ・・略・・ 宋代の三教合一は、宗教的機能の相互補完から哲学理論の融合へと発展し、民間の信仰にも影響をおよぼしました。民間で祀られた神像の多くは、儒教・仏教・道教の神仙や人物を融合させたものであり、ここに三教合一が具体的にあらわれていますという。

ここに雲崗石窟第12窟の仏殿に似たものが建っていたのかも知れないなあ。
あるいは、時代は下がるが、敦煌莫高窟第444窟の外側に取り付けられた建物(宋時代、960-1279年)を見ていると、ある時期はこれに近い、もっと簡素な建物があったのかもなどと思ってしまう。


写真の一番低い場所が出入口だが、その向こうにも門があり、登っていく人も中にはいた。

五台山には金代の仏光寺文殊殿がある。当時は大同も金の領土。ということはここ懸空寺も遼・金という北方民族の領土だったのだ。ということは、三教合一となったのは、明代(1368-1644年)の再建時あたりか、元代(1271-1368年)ということになりそうだ。

※参考文献
「図説中国文明史7 宋」 劉煒編 2006年 創元社
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「08-09新個人旅行 北京」 2007年 昭文社