太原を出発して汾河を渡り約1時間で晋祠に着く。『山西古建築通覧』によると、太原の西南25Kmの懸瓮山麓にあるということで、これがその山。山腹にある建物は道教の修行をしていたところらしい。下に赤い塀が続いていて、晋祠はかなり広い敷地のようだった。
ガイドブックによると、晋祠は周の武王の次男唐叔虞を祀るため、北魏代に創建された。その後もしばしば修理が行われ、北宋代に唐叔虞の母である邑姜を祀るために聖母殿が建立されたところだが、殷の後の周(前1046頃-前771年頃)という遙か昔の人物を北魏時代(386-534年)になって祀ったり、北宋時代(960-1127年)にその人物の母を祀ってみたりと、それが寺院なのか何なのか、行くまでよくわからなかった。


水鏡台のそばを通りながら、屈さんは水鏡台は四方それぞれ異なったものに見えます。横から見ると四阿、裏は晋劇をする舞台になっていますと説明してくれたが、正面が何に見えるのか覚えていない。

その向こうは金人台で、四天王のような鉄製の像、すなわち金人が四隅に置かれていて、奥に祠のようなものがあった。祠をさけて進むと、屋根の跳ね上がった山門がある。日本でいうと鳥居のような感覚だろうか。

気がつかなかったが、献殿の軒(壁がないので透けている)にも翼角斗栱があった。晋祠の中にも聖母殿のような細い翼角斗栱もあれば、献殿のように大きく直線的なものもあるのだ。
屈さんは続けた、献殿と書かれた額がありますね。額の回りには亀の頭と足があります。へえー、中国の扁額はおもしろいなあ。

内部の組物にも翼角斗栱が見える。『山西古建築通覧』によると、金代の建築らしい。



宋代の建物は装飾が重んじられ、家屋の建築部材は、唐代のものよりもはるかに精巧で美しい外観を呈し、その上変化に富んでいますという。
『山西古建築通覧』によると、晋祠内では最古の遺構らしい。

そういえば大同の下華厳寺には遼代の塑造の仏像があったなあ。同じような時期に、あまり遠くないが違う国で造られた塑像。侍女像という世俗的なものと、仏像とでは違って当然だが、どちらも誇張のない、まとまった表現だろう。
どうも聖母像は少し時代が下がるらしく、本にも詳しく解説されないし、屈さんも問題にしていないようだった。



※参考文献
「山西古建築通覧」 李玉明主編 1987年 山西人民出版社
「図説中国文明史7 宋」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社
「地球の歩き方05-06 中国」 2005年 ダイヤモンド社
※参考ウェブサイト
中国百科の晋祠の話