ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/07/20
五台山南禅寺が中国木造建築の最古
仏光寺大殿と同様に五台山の僻地にある南禅寺について『世界美術大全集4 隋唐』は、
五台県東南22Kmの李家村に位置し、歴史上の文献にも登場しない辺鄙な小寺であり、そのために会昌5年(845)の武宗(在位840-846)による「会昌滅法(会昌の廃仏)」を免れることができたらしい。寺の創建年次は不詳。大殿は中国に現存する最古の木造建築で、平梁(ひらばり)下端に墨書銘があり、建中3年(782)の再建である。 ・・略・・ 低い基壇上に立ち、方3間、ほぼ正方形に近い平面で、前面に広い月台をとり、屋根は単層入母屋造、本瓦葺。殿内に柱はなく、側柱12本のうち西壁の後ろから3本だけが面取り角柱で、他はすべて円柱で巻刹(けんさつ、粽ちまき)を施している。円柱は元祐年間(1086-1094年)の修理時に取り換えられたもので、角柱が唐代の当初材であり、他に類をみない古風な手法を伝える。 ・・略・・ 屋根勾配は後世の遺構にに比べて著しく緩く、軒は円垂木の一軒で、隅を扇垂木に配するが、宋代以降の常識のように完全な放射状ではなく、隅木に配付(はいつけ)にして徐々に扇に開き、平行垂木から扇垂木へ至る中間的手法を伝えるなど、技術的にも随所に古風をとどめるという。 内部には塑像群がある。
『世界美術大全集4 隋唐』は、仏光寺の仏殿内に安置されている、三世仏とそれを取り囲む諸尊像は近代の厚手な補修によって、細部はほとんど当初の趣をとどめていないが、 ・・略・・ 南禅寺仏殿内諸尊は状態がよい。仏光寺よりずっと小規模であるが、如来坐像を中心に文殊騎獅、普賢騎象 ・・略・・ などからなるこの塑像群は、少なくとも仏殿の梁の修理銘にいう建中3年(782)よりさかのぼる造像と思われ、盛唐後半期の肥満した像容の特色をよく伝えているという。
仏光寺の諸尊は唐代のもののように見えなかったのは、後世の補修のせいだったのだ。私がわからないのは、唐代には仏像の皮膚を金色、というよりも真鍮のような色に塗るということをしていたかということだ。
さて、中国で木造の建物の最古が南禅寺仏殿ていうことがわかったが、その前の建築がどのようなものだったのだろうか。
灰陶加彩陶房 河南省洛陽市出土 隋(6世紀末-7世紀初頭) 鄭州市、河南省博物院蔵
大きな鴟尾が載り、屋根の傾斜が急な建物の明器(副葬のために作ったもの)である。
『世界美術大全集4 隋唐』は、いわゆる隋代陶蔵または陶房と通称される家型明器は、正面間口3間、単層入母屋造で鴟尾を戴き 、隅組物を45度方向にのみ出すなど、小品ながら『玉虫厨子』(奈良、法隆寺蔵)に通ずる要素もあって、興味をそそられる遺物である。ただ、その年代の根拠は未詳の伝世品だというから、慎重に扱うべきであろうという。
参考になるのかどうかわからないものだ。 石棺 隋、大業4年(608) 陝西省西安市李静訓墓出土 西安市、陝西歴史博物館蔵
こちらは年代のはっきりしたもので、屋根は平らに近いくらいの傾斜だ。鴟尾を載せているが、不思議なことに擬宝珠のようなものが中央にある。同氏は、寄棟造の屋根、軒回り、連子窓、板扉の石刻は木造細部を写実的に表しており、貴重な資料となると解説しているだけだ。
この屋根中央の突起は金代の五台県仏光寺文殊殿にも見られるものなので、こんなに古くからあるものとは思わなかった。 上の2つは仏殿ではないが、雲崗石窟第12窟東壁には仏殿が浮彫で表されているという。
南禅寺仏殿は唐代の再建当初はすべて面取り角柱だったと解説にあったが、この北魏時代の仏殿も同様の柱のようだ。柱の上には簡素な組物が軒を支えている。その間にある人字形蟇股(かえるまた)は、日本では法隆寺金堂に例がある。やしかし、鴟尾の間にある一対の三角形がわからない。北魏時代の屋根も傾斜があまりなかったようだ。 こんなお寺が北魏時代前半(493年まで)には平城にたくさんあったのだろうなあ。
※参考文献
「週刊中国悠遊紀行14 雲崗石窟と五台山」 2004年 小学館
「世界美術大全集4 隋唐」 1997年 小学館