お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/12/24

剣菱形飾りは新羅?-藤ノ木古墳の全貌展より


藤ノ木古墳からは他にも装飾品が多数出土している。北側被葬者の副葬品について『藤ノ木古墳の全貌展図録』によると、頭蓋骨を取り上げると金銅製剣菱形飾り金具がまとまって姿を現し、頸椎骨の周りを鍍金銀製空丸玉、梔子(くちなし)玉、有段空玉が取り巻いている状況が把握できた。金銅製剣菱形飾り金具と形を同じくする銀製剣菱形飾り金具は両肩付近より出土しているということだ。それぞれ後部に穴のあいた突起があるので、様々な金属製の空玉と共に装飾品の一部だったのだろう。 この剣菱形飾り金具に近いものが、足元に置かれていた歩揺冠にもあった。 こちらは鳥や木の葉の歩揺をとりつけた木の一部として作られているらしい。歩揺冠の形状から新羅の「出」字形金冠よりもティリヤ・テペ6号墓出土の金冠の方が似ていると思ったが、慶州出土の耳飾りに、この剣菱形飾りによく似た歩揺が付いているのを見つけた。

垂飾付耳飾 慶州金冠塚出土 5世紀 韓国国立中央博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』によると、刻目をもつ小さな環 を連接して作った半球体があり、それにペン先形と心葉形の歩揺が縄のようにねじられた金糸で連結されているということで、ペン先形という表現の歩揺は、稜線があるためより尖って見えるが、藤ノ木古墳出土の剣菱形飾り金具によく似ている。垂飾付耳飾 慶州皇南大塚・北墳出土 5世紀 韓国国立中央博物館蔵
同書によると、木槨上部から6対の耳飾が出土したが、そのうちもっとも華麗なものである。  ・・略・・  内側がやや凹んだペン先形の垂下飾が3個つき、それぞれに同じ形態の子葉がつけられているということだ。こちらは菱形にしては丸みがある。 では、剣菱形飾り、あるいはペン先形飾りが、ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠にもあるだろうか。樹木形立ち飾りに、下に垂れた枝?が左右対称にあって、その先がスペード形のようにあるのだが、これが新羅に伝わってペン先形飾りとなり、更に日本に伝わって剣菱形飾りとなったかどうかわからない。 しかし、藤ノ木古墳出土の歩揺冠が中央アジア色の強いものではあっても、朝鮮半島を経由して日本に伝わったものであることがはっきりした。

慶州、皇南大塚については、皇南大塚のような双円墳は夫婦合葬墓慶州、皇南大塚の謎味鄒王陵地区古墳公園(大陵苑)に異国の煌めきをどうぞ
また、大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵から天馬塚大陵苑で皇南大塚から味鄒王陵へもよろしく

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」(2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館)

2007/12/21

歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?

藤ノ木古墳出土の歩揺冠は金銅製のため、金メッキがはがれてすっかり緑青で覆われていた。藤ノ木古墳の全貌展ではその復元品も出ていたので、歩揺に円形(先がとがっているので木の葉形だろう)以外に鳥形があるのがわかりやすかった。 藤ノ木古墳から出土した飾履が朝鮮半島南部の影響があるのなら、歩揺冠も同様の可能性がある。『黄金の国・新羅展図録』によると、
世界的にみても新羅ほど金冠が多く出土した地域はない。  ・・略・・
金冠は、華麗な文様が刻まれた円形額帯に5本の立飾を鋲で固定し、額帯中央に樹枝形の立飾を3本、後面に鹿角形の立飾を両側1本ずつ装着するものが典型的である。樹枝形立飾は生命樹である白樺樹を、鹿角形立飾は鹿を象徴的に表現したものであるが、樹枝形立飾は徐々に形式化し、漢字の「出」字に似た形状となった。  ・・略・・  金冠は華麗な外形とは裏腹に薄い金板で製作されており、また過多ともいえるほどに装飾が多いため、実際に使用したというよりは、墳墓の副葬品または葬送儀礼用具として製作されたと考えられる

ということで、金冠は生きている時に身につけるものではなかったことがわかった。
また、同書には5世紀前期から7世紀前期までの金冠の変遷が載っているが、その中で新羅の金冠として引き合いに出されるのが瑞鳳塚出土の5世紀後期の金冠である。しかし、その写真がないので、6世紀前期とされる天馬塚出土の金冠をみることにする。両者はよく似ているが、違いは前者が「出」字に「山」字が加わっており、後者は「出」字が2つ繋がった、より縦に長い冠となっている程度である。

金冠 慶州天馬塚出土 6世紀前半
『世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化』の「黄金の帽子飾りから見た東西交渉」で石渡美江氏は、瑞鳳塚は三国時代の新羅の墳墓であり、このような冠は日本にも影響を及ぼしているというが、6世紀後半の藤ノ木古墳出土の金銅製冠がこれらの「出」字形冠に似ていないと私は思う。
また、『黄金の国・新羅展図録』に載っている6世紀後半の金冠の方が藤ノ木古墳出土の金銅製冠と時代が近いが、「出」字が2つ繋がり、それぞれの部分が派手になっているだけで、藤ノ木古墳の歩揺冠とはかなりの違いがある。 金歩揺冠 遼寧省北票市西官営子憑素弗墓(太平7年、415)出土 北燕 瀋陽、遼寧省博物館蔵
確かに歩揺はついているが、もっと縁遠くなってしまった。『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』によると、金歩揺は遊牧民の風習だそうだ。 牛首金歩揺冠 内蒙古烏蘭察布盟ダルハン・ムミンガン出土 1~3世紀 内蒙古博物館蔵
これも頭頂部に取り付けるものだったのだろうか。バクトリア貴族の冠 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリヤ・テペ6号墓出土 前1世紀後半~後1世紀前半 カーブル博物館蔵
『世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化』によると、シャーマンのような女性の墓から出土したもので、6本の樹木からなっている。6本の樹木はそれぞれ歩揺や花弁で飾られていて、中央部をのぞく5本の木には富や王権のシンボルである鷲が左右についていたということだ。1本1本の樹木が左右対称に作られているように見える。色紙を半分に折って形を切り抜いて開いたようだ。
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』によると、女性が葬られていたが、この王冠は頭蓋骨の上で発見されたということだが、それはこの歩揺冠を被ってシャーマンの役目を果たしていたということだろうか。 朝鮮半島や日本では歩揺冠は棺に入れるものに風習が変わってしまったのだろう。そして冠その他に歩揺を付ける意味が失われていたのだろう。藤ノ木古墳の歩揺冠が金銅製で他の地域の歩揺冠が金製である以外に一番違うのが、額帯の中央に蝶結びのような飾りが付けられている点である。 これは展示室で、日本独特のものという説明があったような気がするが確かではない。

藤ノ木古墳の歩揺冠は、樹木あるいは樹枝形の立飾りが2本あるだけで、その2で左右対称になっている。今まで見てきた中で藤ノ木古墳の歩揺冠に一番近いのが、地理的には最も遠いティリヤ・テペ6号墓出土の歩揺冠というのはどういうわけだろうか。
また、『藤ノ木古墳の全貌展図録』によると、北側被葬者は死後に内蔵を取り出す処置が施された可能性が高い。このような遺体処理は北方騎馬民族で見られる事象であり、当時の文化系統を考える上で重要な資料といえるということだ。この時代に、草原の道を経由して、中国も朝鮮半島も経ず、直で日本にそのような技術や習慣がもたらされたのだろうか。

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「世界文化遺産12騎馬遊牧民の黄金文化」(2001年 島根県立並河萬里写真財団)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」(2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15中央アジア」(1999年 小学館)

2007/12/19

歩揺付き金銅冠は頭に被らなかった?-藤ノ木古墳の全貌展より




橿原考古学研究所付属博物館のエントランスホールに藤ノ木古墳の飾履のレプリカがあった。何の知識もなく入ったので、 金色に輝く飾履の底にまで歩揺があって驚いた。そして歩揺には丸い形だけでなく魚形があり、飾履の表面全体に亀甲繋文が巡っていて、口縁部は色とりどりの暈繝の織物で飾られていた。藤ノ木古墳には金銅製の歩揺冠があったことも驚きだった。日本に歩揺冠があったことを知らなかった。
同展図録は、北側被葬者の上半身は非常に豊富な装身具が直接付けられているかそれに近い状態であったという。

この歩揺冠は北側被葬者の頭部付近から発見されたのではなかった。  
同書は、石棺の北西隅に北側被葬者の履A右側が立てかけられていた。履A左側も元は横に立て置かれて、足には装着されていなかったようだ。本来頭に戴く冠は二つ折りにされて差し込むかのように置かれていた。立ち飾りは根元から倒れこんで履Aの踵を覆っていたという。
他にも歩揺のついたものが副葬されていた。

半筒形品は履Aと同じ円形と魚形の歩揺をつけた半筒形の金銅製品で同形のもの2個で一対となる。表面には履Bと共通する亀甲文を施している。石棺長軸に合わせて脛骨と冠との間から出土している。元は表面を下に向けて重なり置いていたらしいという。
このように歩揺のついた金銅製品は足元付近に置かれたようだ。頭部には銅鏡が3面置かれていたので、ひょっとすると魔除けのために足元に金属製品を置いたのかも知れない。金銅冠は頭部に被るためではなく、副葬のために作られたのだろうか。それとも生前付けていた冠が魔除けのために足元に置かれたのだろうか。

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

※参考ウェブサイト
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

2007/12/17

亀甲繋ぎ文の最古?



中国の南北朝時代(439-589年)に亀甲繋文はあったが、パルミラではすでに2世紀に地下墓のヴォールト天井部に亀甲繋文が描かれている。パルミラには四角形の繋文様八角形の繋文様など、様々な幾何学的な繋文様があり、それらは建築物の天井部を装飾している。シルクロードの西の端に近いパルミラは、東の端の中国(当時は後漢、25-220年)と交易があり、中国の絹織物は珍重された。ひょっとすると、亀甲繋文は中国から将来されたのかも知れない。
しかし、後漢で「亀甲」と名の付く文様はほとんど見あたらなかった。

亀甲塡四弁花文毛織品 ニヤ遺跡出土 後漢 新疆ウイグル自治区博物館蔵
毛織物であること、四弁花文という西方的な文様なので、果たして中国で作られたものかどうか。また、「亀甲塡」とあるが、今まで見てきたような正六角形に近い形の亀甲繋文とは趣がちがう。前漢時代(前207-後7年)もやっぱり亀甲繋文は見つからなかった。

幾何対鸞文綺 湖南省長沙市馬王堆一号前漢墓出土
綺について『中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ』は、平織の地に地揚げによる綾組織で文様を織り出した絹織物で、漢代には錦と同じく高級織物という。

松皮菱を繋いだような文様である。
同書は、杯形の幾何学の骨組みの中にそれぞれ一対の鸞鳥文と一組の四角放射式の対称変体草花文をうめているという。幾何対龍文綺 パルミラ出土 後漢
上の前漢とほぼ同じ図案の綺がパルミラの古墓より出土している。

同書は、異なる点は、うめられた動物が龍文であることだけであるという。 
パルミラの地で、この文様から亀甲繋文が生まれたのだろうか。ところが、ばさら日本史というウェブサイトの飾履を作るに、もともとは前9世紀頃の西アジアが起源で、支配者の権威や霊性のシンボルだったそうですという文が目に付いた。
やっぱり中国ではなかったのか。西アジアの紀元前のものを調べていると、前9世紀のものは見つけることができなかったが、もっと古いものがあった。

バビロニアのクドゥッル 
前11世紀 黒色石灰岩 高61㎝ 大英博蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、このクドゥッルは、イシン第2王朝の6代目の王マルドゥク・ナディン・アヘ(在位1098-1081)の治世年間に起こった土地の譲渡を記録したもである。  ・・略・・
碑面の上方には、この碑文のなかにその名を言及されている12の神々のシンボルが並べられている。碑面の中央に姿を見せているのは、ときの王マルドゥク・ナディン・アヘである。  ・・略・・  王が盛装をして公式の場面に現れる折の姿であろう。衣装の表面の細かな文様は実際には刺繍か、あるいはアップリケの手法で施されたものと考えられる
という。

神々の象徴の中に亀がある(上矢印む)。そして、王の盛装の衣装に亀甲繋文(下矢印)があった。しっかりと亀甲繋となっていて、中に八弁花文が表されている。 亀甲繋文は前11世紀初期に、すでに完成した装飾文様だったのだ。これが現在わかる範囲での亀甲繋文の最古です。

『古代メソポタミアの神々』に亀の図案が載っていた。

同書は、征服した地バビロニアの文化をそっくり受容していたカッシート人も、後代に残る文化的な貢献をしなかったわけではない。その最たるものが、「クドゥル」である。
1mほどの高さの石碑に、臣下への土地分与などの証文とそれを保証する神々の象徴を彫り込んだもので、境界石という意味合いを持ち、カッシート崩壊後のイシン第二王朝や新バビロニア時代にもさかんに制作されている。
クドゥルの上部には、所狭しとばかりに神々の象徴が並べられている。神をこのように特に象徴で表すようになったのはカッシート時代からのことである
という。 亀が長寿というのはいつの時代から言われていたことかわからないが、水の少ないメソポタミアで、亀は水神エアの象徴として表されてきた。しかし、これだけで亀と日本で亀甲繋文と呼ばれている文様を関係づけてよいものだろうか。

関連項目

杯文(松皮菱)の起源は戦国楚

※参考文献
「世界の文様2 オリエント」 1992年 小学館
「中国美術全集6工芸編 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「古代メソポタミアの神々」 岡田明子・小林登志子 2000年 集英社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館

※参考ウェブサイト
ばさら日本史飾履を作る 


2007/12/14

亀甲繋文はどこから



『藤ノ木古墳の全貌展図録』の「朝鮮半島と列島の飾履」で松田真一氏は、藤ノ木古墳の飾履と同じ構造を持つものは、伝慶州履のうちの1双と飾履塚の2例を除いて、おもに半島西部から出土している  ・・略・・  龍・鳳凰・鬼神など、中国南朝風の図像を連珠文による亀甲繋文内に飾った5世紀終末前後の飾履塚履  ・・略・・  公州の武寧陵からは王の履と王妃の履が出土している。前者は銀の地金に鳳凰文を配する亀甲文を透彫にした金銅板を、後者は銅板に忍冬唐草文のある亀甲文を透彫にした金銅板を張ったもので、長さはともに35㎝で半島出土の履としては最長で、523年~526年に年代を絞り込める武寧王履と王妃履は、今のところ最も新しいA型履の事例と考えてよいという。
朝鮮半島では藤ノ木古墳出土の馬具に繋がる亀甲繋文の中にモチーフを入れて透彫にするという技術が、飾履に用いられていたようだ。

金銅製飾履底裏 5世紀末 新羅・慶州路東洞古墳群、飾履塚出土 韓国・中央博物館蔵
『黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録』は、木棺と副葬品が納められた木櫃とそれを覆う木槨が検出されている。
底板の周縁に2条の連珠文と火焔文を表現し、その内部全面を亀甲文で区画し、その内外に蓮華・鬼神・双鳥・頭人体鳥の極楽鳥と呼ばれる迦陵頻伽(かりょうびんが)・麒麟・羽を持つ魚などが表現されており、その口は長く突き出ている。このような図案はペルシアの影響を受けた中国の北魏で流行したもので、高句麗を経て新羅に流入したものと考えられる。図案だけでなく製作技法も新羅の他の飾履とは違い、外来品である可能性が高い
という。

どうも朝鮮半島製ではないらしい。河上邦彦氏が中国に見る日本文化の研究「第5話 舌だし鬼面図」で藤ノ木古墳出土の馬具の装飾について、獅子や鬼があり、中には舌を出したものもあることに注目している。それが南朝(文様)→百済(馬具)→倭(馬具)との流れで考えるのが妥当というように、両者の亀甲繋文の中にあるモチーフはかなり異なっていて、それらの将来経路が示されていて興味深い。

王・王妃木製頭枕 百済・忠清南道武寧王陵出土 6世紀前半 公州博物館蔵
『日本の美術373截金と彩色』 は、武寧王陵は523年に亡くなった武寧王と526年に亡くなった王妃が529年に合葬され、中から王と王妃の頭枕と足座が出土している。王のものが黒漆と金板帯で装飾されているのに対して王妃のものは赤漆と金箔で装飾されている。とくに王妃の頭枕は全面に赤漆を塗り、輪郭を幅広い金箔で廻わし、その中にやや細い金箔で亀甲文を象り、前後両面の亀甲内に白、赤、黒、金泥で飛天、鳳凰、魚竜、蓮華などが細密に描かれているという。

王の頭枕とされているものは中央に突起があるので足座だろう。金の板で亀甲繋文が形作られていたのだから豪華だっただろうが、華やかな王妃の頭枕に目がいってしまう。亀甲の中にいろんなモチーフが表されていたらしいが、ほとんど消えてしまって残念だが、亀甲繋文はそれだけが表されるものではなかったことがわかった。金製耳飾 普門洞夫婦塚出土 韓国・中央博物館蔵
『日本の美術445黄金細工と金銅装』は、鎚金で成形した太環部は素文のままであるのが通例であるが、この耳飾は太環から下端の花弁形垂飾に至るまで総体細粒の鑞付主流で加飾している。太環部は金帯板で亀甲繋文を画し、内部に三弁花文を配するが、これに連結する吊り環も三弁花文で統一しているという。

金線で、各頂点に円を作りながら亀甲繋文を描き、金線の両側に粒金を配列してあるのだが、小さな粒金がところどころとれたり重なったりしている。三弁花文や円形のところには何も象嵌されていなかったらしい。 垂飾付耳飾 新羅・慶尚南道梁山市北亭洞、金鳥塚出土 6世紀 韓国国立博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、太環式の主環は中空で断面楕円形の円筒を丸く曲げた形で、両端はほぼ接している。表面全面には、六角形・円形・点文が順序よく組み合わされた文様が、非常に精巧に鏤金(るきん)装飾されている。細環である遊環も表面全面に鏤金で装飾され、1点には2条の波状文が、もう1点には対称になるように配された2条の連続円文が表現されるという。

鏤金とは粒金を付着させる装飾技法だろう。
一見亀甲繋文のようだが、隣接する亀甲は1つずつ独立している。そして、もっとよく見ると、亀甲形の金板がそれぞれ主環に貼り付けてあるのだった。正確には亀甲繋文ではないが、それを真似ようとしたのだろうか。「ばさら日本史」の飾履を作るで板に亀甲形を貼り付けているのと同じ方法ではないか。こちらは主環を作った後に貼り付けたのだろうが、それは粒金で亀甲繋文を作るのが技術的に難しいからだろうか。
しかし、同展図録は、新羅古墳から出土した金製耳飾の中で、非常に精巧で華麗な新羅の耳飾を代表する名品中の1つであり、完熟期にさしかかった新羅の金属工芸技術をよく示す資料であるという。

金板を貼り付ける独特の手法とみてよいようだ。

このように、飾履塚出土の飾履によって、北魏でも飾履というものがあったこと、そして亀甲繋文があったことが明らかとなった。中国には南朝・北朝に限らず亀甲繋文はあったのだ。やっぱり亀甲繋文の誕生の地は中国なのだろうか。 

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」 2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館
「日本の美術373截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂
「日本の美術445黄金細工と金銅装」 河田貞 2003年 至文堂

※参考ウェブサイト
ばさら日本史飾履を作る

2007/12/12

金銅製履にも亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より



藤ノ木古墳には石棺内に2体の男性が埋葬されていた。同展ではパネルとビデオでその埋葬の様子を再現していて、よくわかった。
藤ノ木古墳には金銅製馬具の他に、石棺内より発見された履と呼ばれる2組の沓にも亀甲繋文があった。それぞれの被葬者の足元に履が置かれていたと考えられている。同展図録の「朝鮮半島と列島の飾履」で松田真一氏は、
藤ノ木古墳からも出土して注目されたが、これも朝鮮半島からの影響を受けて出現した金属製装身具類のひとつである。  ・・略・・
2双のうちの1双(A)は長さ38.4㎝、他方(B)は41.7㎝である。どちらも2枚の側板と1枚の底板で構成されるが、馬目順一氏の分類に倣えば2双ともⅡ群A型となり ・・略・・
線刻や列点による亀甲繋文で飾られているほか、小さいほうの履には円形と魚の歩揺を、大きいほうの履には木葉形の歩揺を、両足が擦れ合う内側を除く全面に針金で綴じ付けてある
と解説している。1つの石棺に納められていた2組の履が、同じ亀甲繋文を別々の方法で作られていたのだった。
上の履Aが列点によって亀甲繋文を表し、亀甲の形が浮き出るように見える。下の履Bは、凸線によって亀甲繋文を形作っているように見えるが、よく見ると、凸点が繋がって線をなしているようだ。 また、松田氏は、列島出土の飾履として、列島で確認されている飾履は16例あるが、法量まで正確に把握しているのは5例に限られる。  ・・略・・
飾履の構造についてみると、唯一群馬県谷ツ古墳出土の飾履例を除き、藤ノ木古墳の2双をはじめ形態の判明している履は、朝鮮半島出土履の分類上のⅡ群A型である。  ・・略・・
金銅板の装飾文様は上総金鈴塚古墳出土履に鱗状文が用いられているほかは、表現技法に線刻の種類や列点文など違いがあるものの、確認できる飾履のすべてが亀甲繋文で飾っていることが確認できる
という。
熊本県江田船山古墳出土の履には藤ノ木古墳の金銅製履Bと同じく線刻によって亀甲繋文が形成されていた。「ばさら日本史」というウェブサイトの飾履を作るに、線刻でも列点文でもない方法ですが、飾履を復元していく過程が詳しく載っています。 藤ノ木古墳から南東部に位置する星塚2号墳は6世紀後半のものだが、出土した円頭太刀柄頭にも亀甲繋文が使われている。しかも、非常に藤ノ木古墳出土の金銅製馬具に似ていると感じるのは、亀甲の各頂点の二重円文が、馬具のガラスの突起を思い起こさせるからだろう。そして亀甲の中には鳥が向かい合う、対偶文となっている。同古墳南方の牧野古墳について同展図録は、6世紀末の標識とされる。  ・・略・・  しかもガラス粟玉は1万2千個にも及ぶ数量で、布帛に縫い付けて玉枕などに用いたと想定されている。細部の異同はあるが、大筋において藤ノ木古墳に見られるモードを継承していることは興味深いという。

亀甲繋文を用いていたらしいことがわかった。このように、6世紀後半とされる藤ノ木古墳の馬具や飾履に表された亀甲繋文は、その後日本では装飾文様として延々と受け継がれていく。

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「日本の美術445 黄金細工と金銅装」 河田貞 2003年 至文堂

※参考ウェブサイト
ばさら日本史飾履を作る

2007/12/10

馬具の透彫に亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より



藤ノ木古墳は出土した馬具が豪華だったことで有名だ。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の2007年秋季特別展は『金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-』だった。
藤ノ木古墳では石棺の外に馬具が3組あったが最も豪華なものは「金銅製馬具(Aセット)」と呼ばれている。中でも前輪・後輪がそろった鞍金具は今でも金色に輝く部分が残っているだけでなく、装飾モチーフが多彩である。 

後輪(しずわ)の方が保存状態がよい。いろんな文様が透彫で表されているが、残念ながらサビでよくわからない。実際に凝視しても、右下方のゾウがわかる程度だった。細部の幾つかを拡大写真で解説してあったが、実物を見ると写真ほどにはわからなかった。 同展図録によると、この植物文は唐草文としてある。細かな毛彫、そして丸鏨による列点文(魚々子鏨)。図録でこそ見える世界である。ゾウも、細部をじっくり見ると変だが、体の細かい皺などは、ここまで表す必要があるのかと思うほどである。周囲の枠の角にある黒いものは、ガラスなのだろうなあ。 河上邦彦氏の連載コラム、「中国に見る日本文化の研究の第5話 舌だし鬼面図」で鬼も表されていることがわかった。前輪(まえわ)の方は欠損部分が多いが、透彫の装飾部分は後輪の物よりもわかりやすい。 こちらには舌を出した獅子がいる。 同展図録によると、これは龍だそうである。この龍も舌を出しているのだろうか。そして、このような透彫のモチーフは、外枠が亀甲の形となっていて隣接するモチーフと繋がっていた。亀甲繋文だ。春にMIHO MUSEUMの「山東省の仏像展」で見た北斉時代(550-577)の菩薩像に截金で表された亀甲繋文と、さほど時が隔たらない時代(6世紀後半)に製作された文様が日本の古墳にあったのだ。
また、河上氏は、舌出し鬼面文や獅子文等の、藤ノ木古墳の馬具文様は、中国の南北朝の文様の集大成のようである。このような、すばらしい文様をもった馬具がなぜ、六世紀の日本にあるのか。
文献によれば、大和政権は南朝に対して朝貢外交をしている(五世紀代)。その南朝の文様が刻まれた馬具が日本で出土しているのだ。南朝からもたらされた馬具と考えたくなる。しかし、この頃、大和政権は南朝と国交を断絶した直後くらいである。ただ、百済は国交を保っていたから、南朝(文様)→百済(馬具)→倭(馬具)との流れで考えるのが妥当であろう。
しかし、その百済に同様のものがないとすれば馬具の出土地で製作されたと考える方が自然ではないか。藤ノ木古墳の馬具は、南朝、百済の影響を受けた日本製ではないかと考えることも必要である
という。

舌を出した鬼や獅子から南朝の影響を示唆されている。そういえば、鎮墓獣の中に舌を出した獅子があったなあ。

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 

2007/12/07

高句麗の古墳で鐙を探すと




日本に鐙が伝わったのは新羅からだったかも知れないが、高句麗の古墳からも壁画や鐙そのものがあるらしい。
『高句麗壁画古墳展図録』は、04年7月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「高句麗古墳群」と中華人民共和国(中国)の「高句麗の首都と古墳群」が同時に世界遺産に登録され、同年11月に共同通信社の取材団が、安岳3号墳、徳興里古墳、江西大墓など主要な北朝鮮の6基の古墳を詳細に取材、撮影した。共同通信社の創立60周年にあたって開かれたのが「世界遺産高句麗壁画古墳展」(05-06年)だった。
高句麗(前1世紀~7世紀)は、現在の中国・遼寧省桓仁で建国され、吉林省集安、北朝鮮の平壌と南下しながら遷都を行ない、5世紀には中国東北部、朝鮮半島北部で最大の版図を誇りました。集安や平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに生き生きと描かれています
という。

同展は壁画の写真パネルの展示だったので、遺物は全く出品されていなかった。それで壁画に描かれた騎馬像から鐙を探してみた。高句麗壁画古墳の最古の例が安岳3号墳ということだ。 

安岳3号墳 黄海南道安岳郡五菊里 4世紀後半築造 奥室東側の回廊東壁 行列図・隊列中央部の重装騎兵(鉄騎
先頭の騎兵は左手に黒い槍を持っているが足が描かれていない。次の騎兵も黒い槍を持ってるように見える。左足が黒く描かれているが、鐙はわからない。三番目は他の馬のような鎧を着けていない。乗っている兵士の左手にも黒い槍がある。前の兵士の沓と比べると3番目の兵士の沓は大きいが、それが壺鐙であるとは言えない。安岳3号墳奥室東側の回廊東壁 行列図・隊列中央部の騎馬人物
騎兵隊の下段、歩兵隊の後方で馬に乗っている人物も鐙に足を入れているとは思えない。
平安南道南浦市江西区域徳興洞 徳興里古墳 409年 前室の東壁 行列図・中央部隊
この壁画もまた細かいところがわかりにくい。鐙に足をかけているようには見えない。 徳興里古墳 前室の南側天井 狩猟図
高句麗は騎馬民族だったようで、自在に馬をあやつり、虎を狩っている場面には後ろ向きで矢を射るパルティアンショットも描かれている。しかし鐙は描かれているようには見えない。
徳興里古墳 中間通路西壁・上段南側 主人出行図・馬上侍者
馬の足は丹念に描かれているが、人物の足は描かれているように見えない。 吉林省集安市 舞踊塚 4世紀末~5世紀初 奥室の左側壁 狩猟図 
同展図録によると、舞踊塚は北朝鮮との国境沿いにある中国の集安に位置し、高句麗の第2の王都があったところに所在するということだ。
この狩猟図にもパルティアンショットで鹿を射ようとする場面が描かれる。その下に逃げる虎に弓を向ける人物が描かれていて、その人は鐙に足を入れている。やっと鐙が出てきた。輪鐙である。
このように、歳月を経て非常にわかりにくくなった壁画から、なんとか高句麗に鐙があったことが確認できた。
虎と言えば朝鮮半島というイメージだが、虎と騎乗の人物というモチーフは、中国は中原で戦国時代(前5-前3世紀)にすでに存在したことは永青文庫蔵「金銀象嵌闘争文鏡」で明らかである。

※参考文献
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」 2005年 共同通信社

2007/12/05

壺鐙は新羅から?




鐙は騎馬民族にとって絶対に必要な物というわけではなかった。騎馬民族ではない日本人にとって、馬に乗ることの助けになったのが鐙である。3世紀末から4世紀初めの箸墓古墳より出土した輪鐙が日本で最古であるらしいが、6世紀後半の藤ノ木古墳から出土したのが壺鐙でかなりの進化である。この壺鐙は日本独特のものだったのだろうか。

鐙 天馬塚出土 6世紀 金銅・木製 韓国国立博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、木心に薄い金銅板を貼り、その表面に鋲を打ち固定する形態である。断面方形の木棒を曲げて製作し、  ・・略・・  天馬塚では、このような形態の鐙が3対出土し、飾履塚・金鈴塚・金冠塚などでもこれと類似した鐙が出土しているという。

輪鐙だった。
騎馬人物土器 金鈴塚出土 新羅(5世紀)
輪鐙に足を置いているのがよくわかる。他にも騎馬像はあったが鐙のあるのはこの作品だけだった。馬の胸についているのは注ぎ口なので、騎馬人物像ではなく、容器である。同書の「王の威信-馬具-」は、三国時代の古墳の普遍的な出土品として馬具がある。朝鮮半島において馬具が登場するのは、中国漢代の文化と接触した初期鉄器時代からではあるが、本格的な使用が始まったのは、三国時代以後である。馬具とは、馬に乗ったり馬を使役したりする時に用いられる道具の通称である。馬具のそれぞれの使用位置は、慶州金鈴塚から出土した騎馬人物形土器によく表現されている。  ・・略・・  安定用具には鞍と鐙があり、  ・・略・・  鐙は馬に乗る際に便利で、走る際には身体を安定させるために踏みしめる器具である。
鐙の柄部の端に穿孔し、そこに革帯を繋いで鞍から吊して使用する。鐙は、その材質によって、木材で製作した後に表面に金属板を貼るものと金属だけで製作するものに区別でき、形態によって輪鐙と壺鐙に大別される。
輪鐙は三国時代に普遍的に使用された鐙で、足をかける輪部と革帯で鞍と繋ぐための柄部に区分される。輪鐙は鐙の全形を木材で製作した後、その表面の一部、もしくは全面に金属板を貼った木心金属板貼輪鐙から、鐙全体を鉄などの金属で製作する金属製輪鐙へと変化する。壺鐙は、足をかける部分が靴の前半分のような形をしており、馬で走る時に足が容易には外れないようになっている。三国時代の例としては、陝川・磻(ばん)渓堤夕地区A号墳、陝川・玉田75号墳などの出土例以外にはほとんどなく、統一新羅時代(668-935)以後の製品が多数を占める。
このような馬具は、安岳3号墳のような高句麗の古墳壁画や三国時代古墳から出土する鐙や鞍などから、おおよそ4世紀代には朝鮮半島に定着したようである
という。
壺鐙は少ないながら三国時代には存在したようで、その画像がないのが残念だが、壺鐙が日本で改良された鐙ではないことがわかった。

※参考文献
「黄金の国・新羅-王陵の至宝-展図録」 2004年 韓国国立慶州博物館・奈良国立博物館

2007/12/03

壺鐙って何?-藤ノ木古墳の全貌展より




橿原考古学研究所附属博物館の2007年秋季特別展「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展」に行った。藤ノ木古墳は1985年に発掘調査が始まった未盗掘の古墳である。同年に石室の石棺周辺から豪華な馬具が発見された。築造時期は6世紀後半とされている。 

その内、金銅製馬具(Aセット)の中に壺鐙と呼ばれるものが発見された。
日本で最古の鐙は3世紀末から4世紀初めに箸墓古墳から出土していて、木製の輪鐙(わあぶみ)だった。
輪鐙はわっかというのはわかるが、壺鐙ってどんなものだろう?実際に遺物を見ていても、図解してあっても、よくわからなかった。壺という文字からイメージできないのだった。後で図録を見ていて、ようやく、足の前側に覆いのあるものらしいとわかった。装飾的なものは鳩胸金具というらしい。鉄地金銅張り馬具(Bセット)にも壺鐙が含まれていたが、Aセットのものとは似ても似つかないものだった。壺鐙で検索すると、吹田市立博物館のウェブサイトで鉄地黒漆塗壺鐙が紹介されていた。その画像を見ると、平安時代にお公家さんが馬に乗る時に使うものという印象を受ける。
平安時代といえば、『伴大納言絵巻』(12世紀後半)に貴族の馬に乗っている場面が幾つかあり、そのどれもがよく似た形の壺鐙を付けている。漆塗りの木製品かと思ったが、吹田市立博物館のものが鉄地なので、きっと鉄製なのだろう。 『伴大納言絵巻』では武士も壺鐙だった。 ところが伴大納言絵巻に描かれた鐙は壺鐙ではないということがわかった。壺鐙は西日本新聞の03年5月14日朝刊掲載の国博に「宮地嶽出土品」九州の国宝 期間限定“里帰り”金剛壺鐙など東京から移管へに写真が掲載されています。伴大納言絵巻の鐙は舌長鐙のようです。

時代を遡ってみると、奈良時代の上品蓮台寺蔵「絵因果経」(奈良時代)には馬具をつけた馬が描かれているが、鐙はないようだ。正倉院宝物の「木画紫檀琵琶」の捍撥に狩猟饗宴図が細密画で描かれている。ここでは輪鐙に足を通した人物がいわゆるパルティアンショットで虎を射ようとしている。『図説日本文化の歴史3奈良』で舶載品であろうということである。
というわけで、壺鐙が平安時代にはどのような形かわかったし、藤ノ木古墳の馬具Aセットのものもなんとなく想像がつくが、馬具Bセットの壺鐙が当初はどのようなものだったのかよくわからない。しかし、同博物館の常設展で同じような形の壺鐙を見たので、当時一般的なものだったのだろう。
なんとなく平安時代の壺鐙は日本独特のもののような気がする。壺鐙は藤ノ木古墳の6世紀後半にはすでにあったのだが、当時、騎馬民族ではない日本人に適した鐙の形として作られていたのだろうか。

※参考文献
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 橿原考古学研究所附属博物館
「図説日本文化の歴史3奈良」 黛弘道編 1979年 小学館

※参考ウェブサイト
吹田市立博物館のウェブサイト 鉄地黒漆塗壺鐙
西日本新聞の03年5月14日朝刊掲載の国博に「宮地嶽出土品」九州の国宝 期間限定“里帰り”金剛壺鐙など東京から移管へ