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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/03

慶州、皇南大塚の謎

 
双円墳の皇南大塚の北墳は、作りは簡略化されたとはいえ、金冠が副葬されていた。金冠は王陵であることの証明ではなかったのか。それに金製の装身具など、多数の豪華な副葬品が出土している。 『黄金の国・新羅展図録』は、木槨上部から6対の耳飾が出土したが、そのうちもっとも華麗なものである。  ・・略・・  内側がやや凹んだペン先形の垂下飾が3個つき、それぞれに同じ形態の子葉がつけられているという。その内の1対はこちら
下写真の黒っぽいところが木棺内だとすると、金冠はその中央にある。腰偑の位置のすぐ上にあって、頭部に被ったというよりも、胸の上に置かれていたように見える。 金冠について『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、5世紀後半の皇南大塚北墳になると、立飾の縁に1条の打出列点文と冠帯の縁に蹴彫りによる平行線と波状の文様がつけられるという。
なるほど点々とした縁取りがついていることがわかる。 皇南大塚南墳出土の銀冠は、左右の立飾の側面を櫛の歯のように細かく切って一つ一つを捩り、鳥の羽を表現している。高句麗系の冠であり、義城塔里古墳第1墓槨からも同様の金銅製冠(ソウル、国立中央博物館蔵)が出ているという。
王の冠が銀製とは。当時は高句麗との関係から、銀冠であっても王が被らなければならない状況だったのだろうか。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、新羅は先進の高句麗に依存しつつ、この百済と対抗していく必要があった。中国と直接境を接していない新羅が前秦に通交したのは、高句麗を介してであり、417年の訥祇(ヌルギ)王の即位にさいしても高句麗が関与するというような状態だったらしい。
義城塔里古墳の金銅冠は国立大邱博物館で見た。こんなに手間なことをしてまで、わざわざ金属で羽のように見せなくても、鳥の羽くらいあっただろうと思うが、架空の鳥、鳳凰の羽なら、このようにねじって作る必要があったのかも。それにしても、製作技術が成熟していないような冠で、とても王が頭に被った物とは思えない。 南墳からは銀製冠帽も出土している。金製あるいは金銅製の透かし金具が部分的に残っている。銀冠よりずっとこなれた技術で製作されている。
王が先に亡くなり銀製の冠と共に南墳に葬られ、王妃が金冠を被って次の王となったというのは考えられないのだろうか?日本で686年に天武天皇が亡くなり、皇后持統が次期天皇となったように。
新羅で南墳が築造された5世紀中ごろの王は訥祇王(417~458)、北墳が築かれた5世紀後半の王は慈悲王(458~479)である。慈悲王が女王だった可能性はないのだろうか、などと思ったが、新羅の歴史というホームページの慈悲麻立干によると、慈悲王は訥祇王の長子らしい。
やっぱり高句麗の意向で王は銀冠を被り、埋葬されることになったのかなあ。王妃の時は高句麗の介入が弱まったので、金冠が副葬されたのだろうか。それで、本来は王のものである金冠が、王妃の頭部ではなく胸部に置かれていたのだろうか。

※参考サイト
新羅の歴史の慈悲麻立干

※参考文献
「図説韓国の歴史」 (金両基監修 1988年 河出書房新社)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「韓国中央博物館図録」 (1986年 通川文化社)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)