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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/01/22

鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて



『ウマ駆ける古代アジア』で川又正智氏は、鐙は馬に乗る時に足がかりとして便利という理由で発明され、最初は左側だけだったという。
ところが、南京博物院研究員の羅宗真氏著『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、魏晋時代、騎兵が北方から南方へと広まっていきました。騎兵が最初に生まれたのは北方です。土地が広く馬も多く産出したのが、北方で騎兵の戦術が発達した理由です。南方は騎兵による戦争には向いていませんでしたが、長い防衛戦に対応するためには、騎兵の設置を軽視するわけにはいかず、独立した部隊を組織し歩兵と共同で戦いました。
騎兵の装備も、軽装から重装のものへと変化しました。秦漢時代に流行したのは、装備が軽くて動きやすく、機動戦術に適した軽装騎兵でした。魏晋時代になると、騎兵と軍馬に防御力の高い重装の甲冑を装備させるようになりました。この種の重装騎兵(鉄騎)は、装備が重く、動きも鈍かったので、単騎で白兵戦をおこなうのに適していました。注目すべきことは、この時代の騎兵がすでに鐙を用いていたことです。騎兵は両足を踏んばることが可能で、馬上で格闘しやすくなり、戦闘力が高まりました
という。

魏晋時代は220-317年なので、鐙はどこで、何のために発明されたのか? にも記したように、川又氏が最古の鐙の証拠としてあげている「青磁騎馬俑」(300年頃)と年代的には合う。また『ウマ駆ける古代アジア』が1994年発行、『図説中国文明史5魏晋南北朝』が2005年発行なので、その間に新しい発見があったのかも知れない。しかし、鐙が1つでは重装騎兵は踏んばることができないだろう。上馬用に発明された左側だけの鐙が、戦闘用に両側につけられるようになったと考えた方が自然だろう。

21 具装馬 五胡十六国(316-439年) 陝西省西安市北郊出土 陝西省考古研究所蔵
『中国 美の十字路展図録』は、馬に甲冑を着せる意匠は、中国東北の慕容鮮卑墓の出土品をはじめ中国北方から中央アジアにかけて広範囲にみとめられる。なかでも北方騎馬民族が政権を左右した五胡十六国時代は、馬の重要性がいよいよ増大し、戦闘以外の儀礼的な行列でも甲冑をつけた馬が登場するようになった。この馬も、ともに出土した俑との関連から儀礼的な行列に居並ぶ馬であると推測するという。

この甲冑をつけた馬には鞍が取り付けられているが、鐙はない。儀礼的なものなので鐙がなかったのだろうか。22 重装備の軍馬を描いた画像磚 南朝、5世紀後半 河南省鄧州出土
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、当時の南朝がすでに北方の影響を受け、防御力の高い騎兵の部隊を組織していたことがわかる。重装備の甲冑を着けた軍馬は全身が保護されたが、重量がかかりすぎるため、軍馬の俊敏さが失われ、騎兵の突撃による殺傷力も弱まった
という。

ウマの左側は見えているが、ウマを引く人物が鞍のあたりにいるため、鐙があるかどうかが見えない。南朝なので漢民族の兵士がウマを引いていると思われる。身軽な服装をしている。23 五百強盗帰仏因縁図 敦煌莫高窟285窟壁画 西魏(535から557年)
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、王の軍隊と盗賊たちの戦闘の場面は鎧に身を包んだ騎馬の兵の姿が生き生きと表され、やがて捕らえられた盗賊たちが目を刳貫かれる場面では、楼閣の中に坐って盗賊を裁く中国式衣装の国王 ・略・という。

国王は中国式の服つまり当時の仏像と同じ褒衣博帯なのは、北魏の後半に胡服を禁止して中国化を推し進めたからだ。しかし、鉄騎に乗った兵は動きやすい胡服のようだ。鐙の有無はわからない。強盗相手なら鉄騎が出撃するほどでもないように思うのだが。24 甲騎具装俑 北周、天和4(569)年 寧夏回族自治区固原県李賢墓出土 固原博物館蔵
『中国 美の十字路展図録』は、馬、武士ともに同種の小札甲を身につけ、武士はその上から外套を羽織る。北魏が洛陽に遷都して以降、騎馬俑は相対的に減少するが、北周では騎馬俑が再び多く副葬されるようになった。北周政権は復古主義で知られ、また鮮卑など胡族を重用した。北周墓の副葬俑にみられる古風は、北魏推進した漢化政策に反発する意志が、如実に表されているようでもあるという。

23のように西魏時代には服から建物まで漢化どっぷりだった国王とはうって変わって、西魏の後建国された北周では復古調となるのが面白い。北魏・西魏・北周、いずれも鮮卑族が建てた国だったのだ。このように鉄騎の図版を製作年代順に並べてみたが、鐙の有無はわからなかった。 鐙が発明されて依頼、その便利さが軽視されたとは思えない。有事の時には甲冑と同じくらい重要なものになっただろうと思う。それがこれらの像に表されていないのは何故だろうか。俑や磚の作り手には、靴と鐙が別のものという意識がなかったのだろうか。

※参考文献
「ウマ駆ける古代アジア」 川又正智著 1994年 講談社選書メチエ11
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社