お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/12/07

高句麗の古墳で鐙を探すと




日本に鐙が伝わったのは新羅からだったかも知れないが、高句麗の古墳からも壁画や鐙そのものがあるらしい。
『高句麗壁画古墳展図録』は、04年7月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「高句麗古墳群」と中華人民共和国(中国)の「高句麗の首都と古墳群」が同時に世界遺産に登録され、同年11月に共同通信社の取材団が、安岳3号墳、徳興里古墳、江西大墓など主要な北朝鮮の6基の古墳を詳細に取材、撮影した。共同通信社の創立60周年にあたって開かれたのが「世界遺産高句麗壁画古墳展」(05-06年)だった。
高句麗(前1世紀~7世紀)は、現在の中国・遼寧省桓仁で建国され、吉林省集安、北朝鮮の平壌と南下しながら遷都を行ない、5世紀には中国東北部、朝鮮半島北部で最大の版図を誇りました。集安や平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに生き生きと描かれています
という。

同展は壁画の写真パネルの展示だったので、遺物は全く出品されていなかった。それで壁画に描かれた騎馬像から鐙を探してみた。高句麗壁画古墳の最古の例が安岳3号墳ということだ。 

安岳3号墳 黄海南道安岳郡五菊里 4世紀後半築造 奥室東側の回廊東壁 行列図・隊列中央部の重装騎兵(鉄騎
先頭の騎兵は左手に黒い槍を持っているが足が描かれていない。次の騎兵も黒い槍を持ってるように見える。左足が黒く描かれているが、鐙はわからない。三番目は他の馬のような鎧を着けていない。乗っている兵士の左手にも黒い槍がある。前の兵士の沓と比べると3番目の兵士の沓は大きいが、それが壺鐙であるとは言えない。安岳3号墳奥室東側の回廊東壁 行列図・隊列中央部の騎馬人物
騎兵隊の下段、歩兵隊の後方で馬に乗っている人物も鐙に足を入れているとは思えない。
平安南道南浦市江西区域徳興洞 徳興里古墳 409年 前室の東壁 行列図・中央部隊
この壁画もまた細かいところがわかりにくい。鐙に足をかけているようには見えない。 徳興里古墳 前室の南側天井 狩猟図
高句麗は騎馬民族だったようで、自在に馬をあやつり、虎を狩っている場面には後ろ向きで矢を射るパルティアンショットも描かれている。しかし鐙は描かれているようには見えない。
徳興里古墳 中間通路西壁・上段南側 主人出行図・馬上侍者
馬の足は丹念に描かれているが、人物の足は描かれているように見えない。 吉林省集安市 舞踊塚 4世紀末~5世紀初 奥室の左側壁 狩猟図 
同展図録によると、舞踊塚は北朝鮮との国境沿いにある中国の集安に位置し、高句麗の第2の王都があったところに所在するということだ。
この狩猟図にもパルティアンショットで鹿を射ようとする場面が描かれる。その下に逃げる虎に弓を向ける人物が描かれていて、その人は鐙に足を入れている。やっと鐙が出てきた。輪鐙である。
このように、歳月を経て非常にわかりにくくなった壁画から、なんとか高句麗に鐙があったことが確認できた。
虎と言えば朝鮮半島というイメージだが、虎と騎乗の人物というモチーフは、中国は中原で戦国時代(前5-前3世紀)にすでに存在したことは永青文庫蔵「金銀象嵌闘争文鏡」で明らかである。

※参考文献
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」 2005年 共同通信社