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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。
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2023/04/07

アアイ石窟のある天山神秘大峡谷


新疆ウイグル自治区のアアイ石窟にはガラス容器を持った薬師瑠璃光如来の壁画があった。

『シルクロード 悠久の大地』は、亀茲国(クチャ)に分布する仏教石窟は、キジル千仏洞にせよクムトラ千仏洞にせよ比較的村里に近い、河川のある風光明媚な断崖に造営されている。それは修行者が静寂の中で仏道に精進することができ、かつ食料を入手しやすい場所、さらに、村人が日帰りで参詣できる距離にあることが石窟造営の基本的条件であるからだ。
それに対してアアイ石窟は、村落から60㎞余も離れ、かつ深山幽谷にある。雨がまた降れば瞬く間に道はぬかるみ、河川の浸食で形作られた土の壁が両側から迫る。なぜこのような厳しい場所に仏教石窟が造られたのだろうか。理由はただ一つ、天山山脈を越えて亀茲国に侵入しようとする遊牧騎馬民族の西突厥を、その入り口で撃破するために辺境防衛にあたっていた、アゲ城の士卒や工匠や商人たちの礼拝窟であったことによるという。
アゲ故城はまだGoogle Earthで探し出せないでいる。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟と天山山脈南麓のアゲ故城の位置 『シルクロード 悠久の大地』より


『シルクロード 悠久の大地』は、この石窟は、1999年5月、薬草の採取と放牧のために、天山山脈の奥地に入った24歳の二人のウィグル族の牧人、アブレティとトルビーによって偶然に発見された。二人は行方不明になった羊を探しに山奥に入ると、25mほどの断崖の中ほどに穴が開いているのを見つけた。不思議に思い上部からロープを下ろして穴をのぞき込んでみると、そこは絢爛たる仏教石窟であったという。
その2人はこの峡谷に入り込んだのではなく、崖の上で放牧していたようだ。
現地ガイドの丁さんに、天山神秘大峡谷にアアイ石窟がありますと教えてもらったことを覚えている。

石窟の開鑿と壁画の描き方について同書は、アアイ石窟は8世紀に開鑿されたほぼ方形の石窟で、正面と左右に美しい壁画が描かれ、中央の壇には一体の仏像が安置されていた。
石室は、断崖の中腹に鋭利な道具で穴を開け、最初に荒土を塗り、その上に葦草・羊毛・麻などを細かく切りきざんでよく混ぜ、その草泥皮の上に白土が塗ってあった。白土の上に画工が下絵を描いたのち着色している。
壁画は非常に丹念に制作され、その内容は仏・菩薩・千仏・経変である。絵画の特色と傾向性から、唐の長安や洛陽の文化と、亀茲国の伝統文化とが融合、調和して、独自の仏教美術を具現したものといえるという。

アアイ石窟左面壁画 唐代・8世紀
同書は、石窟の成立年代の詳細は不明だが、23ヵ所に及ぶ漢文の題記が、盛唐時期の書法、風格と一致していること、さらに正壁の足の甲を交わらせて座る結跏趺坐した仏と、莫高窟27窟北壁の唐代に描かれた仏との類似を指摘したい。そのほか、壁画中の人物像の多くは、唐代の長安や洛陽の画法の特徴をよくとらえていた。豊満で穏やかな顔立ちは、中国人物画法の成熟時期と重なっている。
左側の壁画を見ると、五体の仏菩薩立像として描かれているが、自然破壊によって下部の剥落がはげしいのが残念であるという。
下図左端の如来坐像は他の如来と比べると上半身が大きいので坐像だと思っていたが、立像らしい。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟左面壁画 『シルクロード 悠久の大地』より


薬師瑠璃光如来像 8世紀 新疆ウイグル自治区アアイ石窟左面奥 
左手持つ丸い底の碗形の透明ガラス容器は、『ガラスの来た道』は後期ササンガラスとし、ササン朝ペルシアは651年に滅びている。カットガラス器は伝来していたものを写したのだろうか、それとも図像として流行したものだったのだろうか。
仏教において、「瑠璃」は浄土を飾る七宝(金・銀・水晶・珊瑚・琥珀・瑪璃瑠璃)の一つとされている点があげられよう。当初この瑠璃が何を意味していたかは諸説あるがそれはさておき、東アジアでは仏教が広がるにつれて、「瑠璃」=ガラスとして、仏舎利或いは仏像、寺院等の荘厳にふさわしい材料として認識されていくのであるという。
詳しくはこちら
アアイ石窟左面の薬師瑠璃光如来立像  『シルクロード 悠久の大地』より


文殊師利菩薩
同書は、釈迦の9代前の本師とされる文殊師利菩薩である。文殊はインドの舎衛国のバラモンの子として生まれたが、のちに出家して普賢と共に智慧第一の菩薩として、多くの衆生を教化したと説かれている。中国では東晋後期に文殊信仰が盛んとなり、五台山は文殊の聖地とされた。
アアイ石窟の文殊師利菩薩は宝冠をつけ、首に2連の宝珠をかけ、両手に釧をかけて、右手に蓮華を持っている。特に、注目されるのは宝冠の華麗さで、莫高窟などにも、絢爛豪華な冠をつけた菩薩の壁画が多く見られるが、アアイ石窟の壁画は決してそれに見劣りするものではない。
なお、トルファンの吐峪溝石窟から出土した唐代の絹画の菩薩の宝冠と、アアイ石窟の日月をかたどった宝冠とは、色彩も図案も共通点が多く見られたという。
どんな獅子に乗っていたのだろう。
アアイ石窟左面の文殊師利菩薩  『シルクロード 悠久の大地』より


盧舎那仏 
同書は、「華厳経」の中心的な存在とされる盧舎那仏である。左肩に「此の妙響の音を聞き、尽く当に此に雲集すべし」としての梵鐘、右肩に鼓、その下に一仏四菩薩を描いている。さらにその下に須弥山を描き、山の下に4蛇を、その下に走馬を描き、左に月、右に太陽を描いている。
また、首の三道をはっきりと描き、右の腕に手先の方から白象、阿修羅、天人を描き、左手は施無畏、右足に甲冑をつけた武士、左足に男女1人ずつ供養人を描いている。
腰には銙帯を巻き、前中央に一条の腰佩(腰につける飾り)が垂れ下がっている。髪は螺髪で頂に肉髻があり、青眼の瞳は紺青で青蓮華のつぼみのようである。全世界の衆生の声を聞くが如き大きく長い耳朶、表情は威厳と静穏を兼備している。
このように衣に月や太陽など宇宙表現の図像を描くという発想は、莫高窟428窟の盧舎那仏と相通ずるところがある。特に、アアイ石窟も莫高窟も、共に盧舎那仏として地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を衣に描いていることは注目される。なお、左壁に描写されている千仏は、すべて美しい袈裟をつけて蓮華座上に描かれ、その袈裟の色は茶を主とするものと、白に近い薄墨色を主とするものを交互に配置しているという。
敦煌莫高窟428窟(北周 557-581)南壁の盧舎那仏立像はこちら
新疆ウイグル自治区アアイ石窟左壁盧舎那仏 『シルクロード 悠久の大地』より

同書は、右壁の仏画についても記述はあるのに図版がないのが残念。
 
もうずいぶん前のことになるが、真っ赤な天山神秘大峡谷の中を歩いたことがある。その時の写真で天山神秘大峡谷を振り返ってみよう。


同書は、洞窟はクチャ県城北方約60㎞、ウィグル語でキジャー(紅い山)と呼んでいるクズリア大峡谷の中に造営されていた。ここは幾万年に及ぶ風雨剥蝕、山洪冲刷を経てできた峡谷で、石窟はクムログエ渓谷の奥深い岸壁の西側に開鑿されていた。幅の広いところは53m、狭いところは4、50㎝しかなく、やっと一人通れるかどうかの幅である。この渓谷の水は、地上に出たかと思えば地下に伏流水となって見えなくなり、窟から2㎞ほど離れたクチャ川の上流の東川水に流れ注いでいるという。

入口は狭い。

空が狭いが、

下部は広くなっいていて湿り気のある河床を歩いていく。

崖の左右で浸食された方向が違う。河床は段々と水分を含んできた。


階段を上がり、


また崖の上が狭くなった。

仏教と関係なさそうなものも。


地面は水気が出てきて、巨大な落石をよけて進む。


キジル石窟へ向かう道で見たのと同じように浸食された不思議な容貌の断崖。

右下にパネルあり。これがアアイ石窟を示すものだろうか。


その近くに「千仏洞」の説明パネルがあった。
8世紀に作られた千仏洞は、大峡谷内1400mに位置し、高さ35mの赤砂岩の上にあり、縦4.6m、横3.5m、面積約16㎡の規模です。洞窟の入口は、南北に37度東を向いている。
洞窟の主壁に描かれた「西方浄土変容図」は保存状態がよく、厳格で柔らかい線が特徴で、唐代中期のもので、左右のに「十六観」が描かれている。
この洞窟には、中国語とキジル語の題記が各23あり、中国文化の豊かさと完全性において、古代西域の数百の洞窟の中でも独特であるという。

霊光洞 小さなくぼみには台座のようなものがあるだけ。


門に谷世盖の文字が


他にもパネルがあるが、隠れて見えなかった。


この奥にも何かあるらしい。


そこには誰もいないチケット売り場と整備された登山道。しかしこれはアアイ石窟に行くものではない。


丁さんはどんどん先へ行く。


前方に黒いものが

そして行き止まりか。岩が崩れていた。

その岩には「金字塔」と書かれている。中国語でピラミッドのことだ。行き止まりではなさそうだが、ここから引き返した。


      唐時代の仏画にガラス器

参考文献
「シルクロード 悠久の大地」 山田勝久 2020年 笠間書院
「ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き」 小寺智津子 2023年 吉川弘文館

2021/11/12

敦煌莫高窟275窟 菩薩交脚像は北魏か北涼か


今回の黄土高原石窟巡りでは、古いところでは後秦時代とされる武山水簾洞千仏洞の菩薩像や、炳霊寺石窟169窟の西秦時代の仏像仏画などを見学した。それをまとめているうちに、これまではさまざまな文献やテレビの番組で北涼時代のものといわれてきて、私も北涼時代と思ってきた敦煌莫高窟275窟の菩薩交脚像を、北魏時代のものとする『北魏仏教造像史の研究』の石松比奈子氏の次の文が気になってきた。

『北魏仏教造像史の研究』(2005年)は、こんにち敦煌莫高窟で最も早期と見なされているのは第268、第272、第275の3窟で、時代について敦煌研究院は北涼期(北涼の支配は421-439)としている。ただし、3窟とも年代を確定できる材料があるわけではなく、近年宿白氏は様式的観点から3窟の年代を北魏の太和8年(484)頃から洛陽遷都(494)頃、雲崗石窟の影響を受けて開かれたとする新説を唱えている。また、桑山正進氏は第275窟の塑造菩薩交脚像の宝冠形式を検討した結果、やはり北涼期には遡り得ないことを指摘している。筆者も第275窟については、後述するように北魏まで下げるべきと考えている。
1989年に宿白氏が提起した新年代論は衝撃的であった。氏はこれら3窟には河西地区の石窟や炳霊寺石窟との共通性は少なく、むしろ雲崗石窟第2期(470-494)の影響が認められるとして、その上限を太和8年(484)頃、下限を「洛陽遷都(494)をあまり隔たらない時期」まで下げたのである。宿白氏の新説は現在までのところ学会で認められたとは言えないが、明確に反論する意見も出されていない。これら3窟の年代は敦煌のみならず涼州地区全体の石窟造像の年代に大きな影響力を持つはずであるが、現状では漠然と敦煌研究院の公式見解である北涼説が採用されているという。

敦煌莫高窟275窟は北涼時代ではなかったのだろうか。

菩薩交脚像 西壁(正壁)
同書は、西壁本尊に菩薩交脚大像、南北壁上段には闕形龕内菩薩交脚像2、樹形龕内の菩薩半跏思惟像1を塑造で作るが、みな天衣が肩を広く覆って臂に懸かる独特の形状を示しているという。
確かに両肩にはギザギザの天衣がかかり、肘の後ろから下に垂下して、交差した脚の奥から端が出ている。このような天衣は他に見たことがない。

同書は、これらの菩薩像の尊格については、交脚像は兜率天で説法する上生の弥勒、思惟像は龍華樹下で思惟する下生の弥勒と見なす解釈が多い。しかし、酒泉から出土した北涼時代の白双且石塔(434)では、6体の如来像と1体の菩薩半跏思惟像、1体の菩薩交脚像の8体が組み合わされており、その配置から交脚像は弥勒菩薩として造像されたと推定できる。したがって、本窟の思惟菩薩像の尊格についても慎重に検討する必要があろうという。
背後には逆三角形のが描かれている。これは靠背と呼ばれる椅子の背もたれに懸かる布で、炳霊寺石窟169窟16龕の菩薩思惟像(西秦)にも描かれているが、背後に回った布帛は16龕の方が長い。靠背は短い期間にしか見られないもののように記憶しているが、275窟内にも西秦時代の、あるいは炳霊寺石窟の影響が及んでいる証拠の一つといえよう。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『世界美術大全集3 三国・南北朝』より


莫高窟の実測図には東入口から入って1/3の所に壁のようなものがあるが、後世に造られたもので、すでに取り除かれている。

『敦煌の美と心』は、窟頂は中国中原地域の木造建築を模しており、中央の両端を切妻形に折りあげた人字坡、すなわち人の字型の構造をしている。
奥行7mの正面に初期における最大の塑像といわれる高さ3.4mの交脚弥勒菩薩像が、人々を迎えるように両手をひろげ泰然と坐っているという。
同書では弥勒菩薩としている。

敦煌莫高窟275窟立面図及び平面図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


南壁上段 菩薩交脚像
『中国石窟 敦煌莫高窟1』(以下『中国石窟』)は、闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現しているという。坐り方が交脚でも、両手の印相はそれぞれ異なる。
菩薩像の肩から腕には、天衣(あるいは披巾)がぺらっと懸かっているように見える。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)


北壁上層

菩薩半跏像 塑造
275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、樹形龕に坐している。
『中国石窟』は、双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿であるという。
胸飾りや短い瓔珞をつけた菩薩の左肩には、折畳文を3つほどつくる布帛がかかる。これは主尊では描かれていただけの天衣が、塑土で表されたものである。
そして天衣は右肩も覆い、右脚の下に波状の揺らぎを出しながら、右足と左手の奥からその端はやや下方向に曲がっている。その端は折りたたまれていて、天衣は幅のある布帛であることを表している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北魏窟の菩薩半跏像と比べてみると、

敦煌莫高窟257窟 菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
菩薩の顔は275窟の主尊と似ているように思う。
宝冠を留める宝繒の端がひらひらと重なり、曲線的な折畳文をつくるところなどは、275窟よりも表現が進んだものと思われる。
『中国石窟』は、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すという。
本像は天衣を肩から腕に添わせ、肘の内側に回しているところまではわかるが、その後天衣がどのようになっているのかは分からない。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩半跏像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

上図の菩薩半跏像の天衣の表し方は、炳霊寺石窟169窟22龕の脇侍菩薩像(西秦)に似ている。

脇侍菩薩立像 22龕 高さ1.28m
肘の内側から垂下している披巾は、脚部の外側で風に揺れているような優美な表現なのだが、両肩から腕にかけて、こんな風に魚の背びれのように披巾(または天衣)を添わせることに、制作者は不自然さを感じなかったのだろうか。主尊の大衣の端が左肩から腕に添っているのをただ真似ただけだろうか。
炳霊寺石窟169窟22龕 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


そして、何よりも高善穆北涼石塔(承玄元年、428、酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵の菩薩交脚像の天衣も、このような形式である。
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
本石塔は、北涼時代に西秦時代の菩薩の独特な天衣が伝わっていたことを示しているが、275窟の菩薩像でこのような天衣は見られない。両肩から腕にかけて天衣が掛けられ、その衣端が折畳文のようになっている。それはやはり様式が進んだ北魏時代の制作であることを示しているのだろうか。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

菩薩の宝冠(三面頭飾)について
『北魏仏教造像史の研究』は、桑山正進氏も第275窟左右壁の塑造菩薩交脚像の宝冠について、ササーン朝ペルシャのヤズデガルド2世(在位438-457)の王冠形式の影響を指摘しているという。
ヤズデギルド2世の王冠がどのようなものかがわからないが、丸いものが3つ肉髻を囲んでいる。主尊の三面頭飾の正面には化仏が表される。
敦煌莫高窟275窟西壁菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
宝冠は西壁菩薩交脚像と同じく丸い三面頭飾で、それぞれに化仏が配されているようだ。
また、主尊とおなじく天衣は両肩にかかり、肘の内側に回って斜め下に垂れる。その端の表現が主尊の天衣と似ている。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

菩薩交脚像 北壁上層
三面頭飾には丸い文様がある。
そして、主尊と同じく天衣が両肩にかかり、肘の内側に回してその端は斜め下に張り出している。
敦煌莫高窟275窟北壁上層菩薩交脚像 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より


『北魏仏教造像史の研究』は、筆者は北壁に描かれた本生図がみな『賢愚経』(北魏、慧覚等訳)に収められている物語である点に注目したい。
この経典は443年に慧覚が訳出したと伝えられており、本窟を北涼期の造営とするならば訳出以前に描かれたことになるという。
北涼は439年に北魏により滅亡しているので、下図のような具体的な本生図は描くことができなかっただろう。

南壁中層 四門出遊図
敦煌莫高窟275窟南壁四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁中層 月光王本生図
敦煌莫高窟275窟北壁中層四門出遊図 『中国石窟 敦煌莫高窟1』より

北壁供養者像
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいる。
『北魏仏教造像史の研究』は、胡服供養者列像についても、同様の胡服供養者列像は5世紀半ばから末頃までの北魏造像に常見されるという。
敦煌莫高窟275窟北壁供養者像 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

こんな風に275窟が北涼ではなく北魏に入ってからの開鑿であるというのが正解かも知れないが、炳霊寺石窟169窟(西秦)の影響もあることは間違いなく、宿白氏が河西地区の影響がないとする説には疑問がある。


関連項目

参考文献
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編 1982年 文物出版社

2021/10/15

武山水簾洞 千仏洞に貼り付く如来は北周?


千仏洞に近づくと、崖面に塑像が残っているのが見えてきた。
水簾洞ガイドの輩さんは、後秦・北魏・北周・隋・唐の時代に仏像や壁画が制作されたという。
細身の如来や菩薩像が並んでいる。上部に張り出した庇状の岩の上にも小さな仏像があって、これが後秦時代のものらしい。

庇のように張り出した岩に壁画、その下の岩面に浮彫の仏像がある。
輩さんは、2体の立像の間には坐像の如来と両脇侍菩薩があった、その右には光背だけが残っているが、如来立像があったという。

一仏二菩薩二弟子像
『敦煌の美と心』は莫高窟428窟の一仏二弟子二菩薩像について、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
敦煌莫高窟428窟中心柱正壁一仏二弟子二菩薩像 北周 『敦煌の美と心 シルクロード夢幻』より

千仏洞のこれらの仏像がつくられたのも北周(556-581)であるが、脇侍菩薩と弟子の配置が異なる。
今は崩れてしまった如来は反花が大きな複弁になった蓮台の上に立っていた。

また、下側の千仏図は、如来坐像は縦には一列に並んでいない。半身ずつずらして描かれている(時代不明)。

弟子たちの着衣は別の方向から見ると違って見える。左弟子の左手にかかる衣端の装飾的な襞!
他の如来や菩薩像にも同様だが、奥行のほとんどないため、蓮弁が斜めに造られているのがなんともいえない😑


先ほどの弟子像の右には一仏二菩薩像(左脇侍菩薩は現存していない)。続いて大きな如来立像の光背と右脇侍菩薩。
輩さんは、これらの仏像群は一時代前に流行した姿形をしているという。
一時代前とはどの時代の前のことなのか。北周期に北魏時代の様式で制作されたということだろうか。

不思議なのは、如来は炳霊寺石窟第169窟7龕の如来立像のように大衣を通肩にまとい、挙げた両腕から大衣の薄い布がひらひらと垂れているのに、大衣は首まで隠さず、胸部まではだけているのだ。
内着の僧祇支も見えているが、北魏後期の双領下垂式ならばもっと着衣は分厚く、右側の大衣を左腕にかけているが、本像は大衣を胸前で広くあけ、衣端を左肩に回している。
炳霊寺石窟125窟二仏並坐像の双領下垂式着衣はこちら
本像は腹部から足首にかけて、U字形衣文線が細かく表現されている。
また右脇侍菩薩は右手に水瓶を提げているが、こちらも腹部の下に帯をの結び目があって、不思議な着衣である。
通肩についてはこちら

炳霊寺石窟169窟7龕の如来立像 高さ2.30m
『中国の仏教美術』は、興味深いことは、5世紀前半のインド・グプタ期のマトゥラー彫刻にみられる特徴をいくつか備えている点である。まず第一に、マトゥラー仏立像の多くは等身大あるいは2m前後の大像であるが、炳霊寺7号立像もまた2.45mにおよぶ大像である。中国に現存する像の中で、「仏の像」をこれほど大きく表現した例は、この炳霊寺像が初めてである。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国。炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値する
という。
5世紀前半のマトゥラ-仏はこちら 千仏洞の如来立像は7龕の如来立像よりは後で造られたものだ。ということは417年に後秦は滅んでいるので、武山は西秦の領土になっていたが、これまで見てきたように、炳霊寺石窟では169窟だけでなく、その後唐代に至るまで、千仏洞如来立像のような着衣の像はない。
炳霊寺石窟169窟7龕 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

如来の左腕には塑土がばらばらの鰭のように残っている。これが肩から腕にかけて添う大衣の衣端だろう。

顔は敦煌莫高窟428窟の如来坐像(釈迦)や脇侍菩薩に似ている。

如来立像の右側の壁。塑造の如来立像は剥落してしまっているが、その痕跡と描かれた光背がその大きさを示している。輩さんはこれも北周という。

水瓶を持つ右脇侍菩薩は筒袖のような着衣である。


これらの仏像が並ぶ段より下、桟道に見え隠れして塑造の仏像が並ぶ段がある。左から2体は頭光のある如来立像だったかも知れない。

次の2体は如来か菩薩か。複雑な着衣で判別し難い。

そして桟道から外れた右端の立像はひらひらとした天衣があるので菩薩立像。おそらくもっと大きな如来の右脇侍菩薩だったのだろう。

この崖面に唯一残る如来立像は、着衣の形式が時代を特定できるものではないので、納得したわけではないが、今は北周とするしかない。
現地では武山水簾洞の書物も、簡単なリーフレットもなかったのが残念でならない。



関連項目

参考文献
五胡十六国 中国史上の民族大移動」 東方選書43 三﨑良章 2012年 東方書店
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦」 主編鄭炳林 2021年