『北魏仏教造像史の研究』は、中国北土の他の新興胡族国家が仏教という新しい思想を積極的にとり入れようとしていた4世紀半ば、鮮卑拓跋部は依然として旧来の原始的な信仰に留まっていたのであろう。このような鮮卑族国家が、その後短期間で未曽有の仏教国家への変貌を遂げたことは驚愕に値する。そして、その要因は北魏が征服地域の民と文化を強力に吸収したことに求められるのであるという。
西秦も後秦も、後に北魏を建てる鮮卑拓跋部よりも早くから仏教を信仰していたのだ。
後秦について『五胡十六国 中国史上の民族大移動』は、羌族のなかの西羌に属す姚氏集団の基礎は姚弋仲によって固められた。弋仲は永嘉の乱の際、数万人の羌族や漢族を率いて楡眉(陝西省千陽県)に移動した。その集団にはすでに漢族も含まれていたのである。
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ところが後秦は、東北方では中山を獲得した北魏の進出に苦しむことになる。柴壁の戦いによって北魏と後秦の力関係は逆転し、このころから後秦の衰退が始まった。407年に安北将軍として朔方に鎮していた赫連勃勃が6月に高平(寧夏回族自治区固原市)を襲って自立して夏を建国したため、後秦はオルドスから陝西北部に至る領土を失った。また西方では西秦が409年に再び自立したため、涼州での優位も失った。雍興は412年に病死し、内乱など帝室内部の離叛が進んだ。こうした混乱を突いて、北からは勃勃が南下して渭水流域にまで迫り、また南からは東晋の劉裕が洛陽を奪回した。さらに劉裕は西進して長安に向かい、417年、ついに長安を陥落させた。こうして後秦は滅亡したという。
西秦建弘元年(420)に造像されたという、中国で初めて涼州式偏袒右肩に大衣を着た如来坐像(炳霊寺石窟169窟6龕)よりも以前に後秦は滅んでいた。
後秦の後、北魏の領土となるまで、武山はどの国に含まれていたのだろう。西秦?
では後秦時代の仏像は残っているのだろうか。
庇状の岩壁の上の小さな仏像、輩さんはこれこそ後秦時代の思惟菩薩像だという。
描いた白い台座の上に坐っているという壁画と塑像との組み合わせ。
思惟菩薩像なら半跏だが、交脚像に見える。それに、頰近くに指を寄せる右腕はどんな風に挙げていたのだろう。
ついでに後秦時代の仏画も
それぞれに色の違う如来坐像が4体、受花と反花のある蓮台に結跏趺坐している。
如来坐像の右側には雲と共に宙を舞う飛天も描かれていたのかな。
剥落部分には大きな蓮台に結跏趺坐する如来坐像が描かれていたらしく、菩薩像の台座との間には、飛天が蓮華、或いはお供えを掲げている。
そして菩薩が坐る白い台座の続きにもいろいろと描かれている。
関連項目
参考文献
「五胡十六国 中国史上の民族大移動」 東方選書43 三﨑良章 2012年 東方書店
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ