千仏洞に近づくと、崖面に塑像が残っているのが見えてきた。
水簾洞ガイドの輩さんは、後秦・北魏・北周・隋・唐の時代に仏像や壁画が制作されたという。
細身の如来や菩薩像が並んでいる。上部に張り出した庇状の岩の上にも小さな仏像があって、これが後秦時代のものらしい。
庇のように張り出した岩に壁画、その下の岩面に浮彫の仏像がある。
輩さんは、2体の立像の間には坐像の如来と両脇侍菩薩があった、その右には光背だけが残っているが、如来立像があったという。
一仏二菩薩二弟子像
『敦煌の美と心』は莫高窟428窟の一仏二弟子二菩薩像について、仏弟子は右が迦葉、左が阿難である。莫高窟の初期の塑像は仏・菩薩・天王だけであったが、北周から仏弟子があらわれるようになる。この窟の仏弟子は最初期のものであるという。
千仏洞のこれらの仏像がつくられたのも北周(556-581)であるが、脇侍菩薩と弟子の配置が異なる。
今は崩れてしまった如来は反花が大きな複弁になった蓮台の上に立っていた。
また、下側の千仏図は、如来坐像は縦には一列に並んでいない。半身ずつずらして描かれている(時代不明)。
弟子たちの着衣は別の方向から見ると違って見える。左弟子の左手にかかる衣端の装飾的な襞!
他の如来や菩薩像にも同様だが、奥行のほとんどないため、蓮弁が斜めに造られているのがなんともいえない😑
先ほどの弟子像の右には一仏二菩薩像(左脇侍菩薩は現存していない)。続いて大きな如来立像の光背と右脇侍菩薩。
輩さんは、これらの仏像群は一時代前に流行した姿形をしているという。
一時代前とはどの時代の前のことなのか。北周期に北魏時代の様式で制作されたということだろうか。
不思議なのは、如来は炳霊寺石窟第169窟7龕の如来立像のように大衣を通肩にまとい、挙げた両腕から大衣の薄い布がひらひらと垂れているのに、大衣は首まで隠さず、胸部まではだけているのだ。
内着の僧祇支も見えているが、北魏後期の双領下垂式ならばもっと着衣は分厚く、右側の大衣を左腕にかけているが、本像は大衣を胸前で広くあけ、衣端を左肩に回している。
炳霊寺石窟125窟二仏並坐像の双領下垂式着衣はこちら
本像は腹部から足首にかけて、U字形衣文線が細かく表現されている。
また右脇侍菩薩は右手に水瓶を提げているが、こちらも腹部の下に帯をの結び目があって、不思議な着衣である。
通肩についてはこちら
炳霊寺石窟169窟7龕の如来立像 高さ2.30m
『中国の仏教美術』は、興味深いことは、5世紀前半のインド・グプタ期のマトゥラー彫刻にみられる特徴をいくつか備えている点である。まず第一に、マトゥラー仏立像の多くは等身大あるいは2m前後の大像であるが、炳霊寺7号立像もまた2.45mにおよぶ大像である。中国に現存する像の中で、「仏の像」をこれほど大きく表現した例は、この炳霊寺像が初めてである。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国。炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値するという。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国。炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値するという。
5世紀前半のマトゥラ-仏はこちら 千仏洞の如来立像は7龕の如来立像よりは後で造られたものだ。ということは417年に後秦は滅んでいるので、武山は西秦の領土になっていたが、これまで見てきたように、炳霊寺石窟では169窟だけでなく、その後唐代に至るまで、千仏洞如来立像のような着衣の像はない。
水瓶を持つ右脇侍菩薩は筒袖のような着衣である。
これらの仏像が並ぶ段より下、桟道に見え隠れして塑造の仏像が並ぶ段がある。左から2体は頭光のある如来立像だったかも知れない。
現地では武山水簾洞の書物も、簡単なリーフレットもなかったのが残念でならない。
関連項目
参考文献
「五胡十六国 中国史上の民族大移動」 東方選書43 三﨑良章 2012年 東方書店
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ