お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/11/28

キジルやバーミヤーンのラテルネンデッケは

敦煌よりも西方のラテルネンデッケはどうだろうか。 

キジル石窟第167窟ラテルネンデッケ 6-7世紀
『キジル大紀行』は、正方形のプランに、三角隅持ち送り天井をとる窟である。ラテルネンデッケとも呼ばれる構造で、天井の正方形平面の四隅に斜めに梁木や三角形の材を架して、一回り小さい方形の枠を作り、さらにその上に同様の構造を数段繰り返すことによって、次第に中央部を狭めて高くしていく方法で、バーミヤーンにも数多く知られている。ドーム天井とともに、三角隅持ち送り天井は特に中央アジアで好まれた建築構造である。しかも、ドームがレンガ建築をもとにしているのに対し、三角隅持ち送り天井は山間部で行われた木造建築をもとにしている点が興味深い。三角隅持ち送り天井は、パミールの山間地帯で現在も民家に使われている例が報告されている。 
キジルの三角隅持ち送り天井は8例が報告されているが、いずれも磨崖の中央にあるソグド溝付近に集中して見られ、ある限られた時期に流行したもの
という。
キジル石窟は天山南路中央部にあるクチャ郊外、ムザルト川北岸に開かれた石窟だ。同書とNHKの「シルクロード・甦るキジル大石窟群」でラテルネンデッケの窟を知った。キジル石窟の特別窟は事前予約が必要だったので、旅行社に依頼した。
一般的な見学窟が並ぶ谷西区からかなり歩いた谷東区に第167窟はある。石窟ガイドの馬媛(まえん)さん(現在は我々が当時お世話になった風の旅行社のガイド)が扉の鍵を開き、ひんやりした暗い窟内に足を踏み入れると、想像していたよりも窟内は広かった。そして見上げると天井もかなり高い。その上、層の一段が厚いので、上へ上へと視線を移すと、はるかかなたにぼんやりと見える程度だった。照明と言えば馬さんの照らすライトだけで、我々が用意してきたヘッドライトは何の役にも立たなかった。
話がはずれてしまった。もちろん、6-7世紀では、安岳3号墳(4世紀後半)よりもずっと後のものである。 では、バーミヤーンのラテルネンデッケはどうだろうか。

バーミヤーン第702窟ラテルネンデッケ 5-8世紀 
バーミヤーンについて『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、ガンダーラより遅いと思われるが、ガンダーラは5世紀後半にエフタルの侵入によって、衰退しており、そのエフタルは6世紀中頃、ササン朝と組んだ突厥によって滅ぼされており、それ以後アフガンの仏教が再興したと思われる。バーミヤーン石窟は5世紀頃に始まり、中心は6-7世紀で、8世紀まで続いたと思われるということなので、上限の5世紀に第702窟が開かれたとしても、安岳3号墳よりも後のことだ。 フォラディ石窟第4窟ラテルネンデッケ 
時代は明確にされていないが、バーミヤーン石窟の約2㎞南西部にある石窟なので、バーミヤーン第702窟と同じような頃に開かれたのだろう。安岳3号墳の参考にはならないが、壁画が剥落して露出した岩の色が木材の雰囲気がある。
ラクシャナー・デヴィー寺院 インド、バルモール 700年頃
『インド建築案内』 は、ごく初期の木造ヒンドゥ寺院として重要である。四隅に対角に梁を架けて次第に狭めていく方法で、インドの石造建築は、原則的にこの方法を模すことになるという。
このようにみると、ラテルネンデッケは広い範囲で天井の装飾に使われていたことがうかがえる。 安岳3号墳のラテルネンデッケはどこからきたのか、ますますわからない。

※参考文献
「中国美術分類全集 中国新疆壁画全集克孜爾2」 1995年 新疆美術撮影出版社
「シルクロードキジル大紀行」 宮地治他 2000年 NHK出版
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 日本放送出版協会 
「インド建築案内」 神谷武夫 1996年 TOTO出版 

2008/11/25

ラテルネンデッケといえば敦煌莫高窟だが


遼東地域から河西回廊までの古墓を調べてもラテルネンデッケを採り入れた天井は見つけることができなかったが、敦煌莫高窟にはラテルネンデッケはいくらでもある。中国式の天井が伏斗式なので、その窟頂部にラテルネンデッケが表されているのだ。
そして隋末唐初にかけて、藻井はラテルネンデッケではなくなっていく。それについてはこちら
北魏時代(439~534)は、ラテルネンデッケは天井の装飾文様としてはあるが、伏斗式天井がない。天井を高く掘り上げる技術がなかったのだろうか。

敦煌莫高窟第251窟 北魏時代 中心柱窟
窟の前半は人字坡天井、後半は中心柱があって、その周りを右遶(うにょう)するための通路があり、その上にある平天井(平棋頂)にラテルネンデッケがずらずらと並んでいる。ラテルネンデッケはここでは天井の装飾文様として扱われている。  敦煌莫高窟第249窟 西魏時代(535-557) 伏斗式天井
西魏になってやっと敦煌莫高窟に伏斗式天井が出現する。藻井部にはラテルネンデッケが表されている。下の天井が平面に見える場合はこちら。 敦煌莫高窟第272窟 北涼 西壁と窟頂
伏斗式というほどではないが、こころもち天井が斜めに上がり、ラテルネンデッケは多少の凹凸をもって表されている。『中国石窟敦煌莫高窟1』は窟頂略帯穹窿形という。伏斗式天井への過渡期的なものとみているようだ。  敦煌莫高窟第268窟 北涼 禅室天井
細長いが、中心柱の周歩廊ではなく、西壁には主尊が交脚で坐す主室の天井のようだ。こちらも多少の凹凸をつけて、大小のラテルネンデッケが並んでいる。 
このように北涼時代の窟に多少立体感のあるラテルネンデッケ表されているのは、三角隅持送り天井(中国では斗四藻井)を実際に知っているか、敦煌付近にそのようよな建物があったのか。 北涼は匈奴が建国したが、匈奴の家屋がラテルネンデッケを用いていたのだろうか。
ラテルネンデッケは建物の天井に煙抜きか明かり取りのために開いた穴で、モンゴルのゲルなど円形のテントでも天井中心部に開口部があるのと同じだ。現在でもアフガニスタンのワハーン回廊の民家にあるのをテレビ番組で見たことがあるし、パキスタンのフンザを旅行した人に、お城の天井にもあったと聞いたことがある。だから中央の丸い形は太陽ではないかとも思ったりもする。敦煌莫高窟の丁さんは、火事にならないように、水を連想する蓮華が描かれたと言っていたが。
ラテルネンデッケは紀元前からあったというが、それは雨の少ない地域だったのだろう。

ともあれ、敦煌莫高窟は楽僔が366年に開鑿したと言われている。その頃敦煌は前秦というチベット系氐族の支配下にあった。現存最古の石窟は北涼時代(397-439)のものだが、楽僔当時の窟でも、敦煌莫高窟のラテルネンデッケが高句麗に造営された安岳3号墳(4世紀後半)に影響するのは不可能やなあ。

※参考文献
「中国石窟敦煌莫高窟1」(1999年 文物出版社)
「敦煌への道上西域道編」(石嘉福・東山健吾 1995棊年 日本放送出版協会)

2008/11/21

中国の古墓にもラテルネンデッケはなかった


高句麗の安岳3号墳の墓主冬壽(357年没)の出身地は中国遼寧省蓋平県という(「高句麗壁画古墳展図録」より)ので、中国の古墓にラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)が用いられているか調べてみたが、見つけることはできなかった。

当時の中国の墳墓はどのようなものだったのだろうか。
『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、後漢末、激しい盗掘が、伝統的な倫理観だけでなく、社会上層の厚葬風習にも大きな影響を与えた。しかも、長い戦争の中で、国の財政は疲弊し、首都洛陽中心にした中原地域では、壁画墓の造営がほぼ停止状態となった。
建安10年(205)11月に、天下統一を志した曹操が厚葬を禁止する命令を発布。建安25年(220)に曹操が死んだ時には平服で斂葬され
たと、『三国志』の主人公の1人、曹操について述べている。そして、220年、曹操の息子操丕(そうひ)が禅譲の形で後漢王朝を滅ぼし、黄河流域を支配した曹魏王朝の初代皇帝、魏の文帝となった。曹丕は、父の遺志に従い、厳しく薄葬政策を採り続けた。確かに、漢時代の古墓と比べて、曹魏時代には贅沢な墓葬の例は殆どなかった。それは曹氏父子の提唱した薄葬の結果ではないかという。
265年に魏は権臣司馬氏に滅ぼされたが、薄葬の伝統は次の晋王朝にも受け継がれたようである。『晋書』巻83江逌伝(こうゆうでん)によれば、東晋の康帝まで、山陵には瓦器しか副葬しなかったようだという。
魏晋の薄葬風習の中で、中原と関中地域では壁画墓が衰退し、陵墓の造営を管理する役所や工房に所属した工人たちは、戦乱で都から離れた地域へ避難した。それにより、遼東地域や河西地域では、壁画墓の造営が後漢より盛んになったという。
このような時代に、中原はともかく冬壽の故郷の遼東地域でもラテルネンデッケの古墓はない。 では、安岳3号墳は高句麗の流れをくむのだろうか。安岳3号墳の墓室構造図を見ると、天井がラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)というだけでなく、回廊が巡っていたり、列柱があったりと、高句麗のそれまでの古墳にはない特徴がある。
『高句麗の歴史と遺跡』 は、遼河流域における漢から北魏にかけての墓制を類型化している。それによると、列柱は後漢にはすでに現れている。同時期には槨室の前に前廊があるが、列柱は前廊から直角に出ている(第1類型)が、それが中国起源のものか、シルクロードを経由して伝わったものかわからない。
その後、後漢後半には前廊の片側に列柱が並ぶようになる(第3類型)。あいにく遼東地域の同時期の古墓の平面図がないので、河南省の南陽漢墓で墓室の回廊を見ると、

馮君孺久墓 河南省南陽市唐河県(湖北省に隣接) 王莽代の始建国天鳳5年(後18)没  
地域性のためか、列柱がないなど様式は異なるが、馮君の棺が安置された後室の周りを回廊がまわっている。葬儀が内部で行われたのだろうか。 他にも安岳3号墳と共通するものを見つけた。

打虎亭漢墓 河南省密県(黄河の40㎞ほど南、嵩山の20㎞東) 後漢末期(2世紀末~3世紀初)
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、中室天井に描かれた蓮華文。蓮華は仏教との関係が強く、この文様も西域からの仏教伝来とともに採用された可能性がなくもないが、むしろ中国に伝統的に存在した文様と考えるのが妥当であろう。すなわち花を上からみたモチーフは殷代から存在し、漢代にはさまざまな器物に応用されたのである。とくに光の象徴として四葉文が鏡の鈕座や乳などに用いられることからすれば、この蓮華文も墓室を明るくする意図から天井に描かれたと考えられるという。
ヴォールト(円筒)天井に表された蓮華は、4世紀後半の安岳3号墳奧室や5世紀末の双楹塚奧室のラテルネンデッケ天井の頂石にも描かれている。
話はそれるが、四葉文が光の象徴とは知らなかった。四葉文というのは、柿蔕文(していもん)の変形かと思っていた。『中国古代の暮らしと夢展図録』は、柿蔕は中国語の発音「事」や「世」と似ており、吉祥の意味を持つため、漢代またそれ以降もよく装飾に用いられたというので、四葉文の方がずっと古くからあった文様だったのだ。  では、中国で一般的な墳墓の天井はどんな形か。

和林格爾(ホリンゴール)漢墓 内蒙古自治区和林格爾県新店子 後漢末(後160年前後)
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、甬道・前室・中室・後室が一直線に並び、前室に2室、中室に1室の耳室が付くという。各室は伏斗式という、中国の斗(ます)を伏せたような形で、頂部は四角くなっている。そして、各室をつなぐ甬道はヴォールト(円筒)天井となっている。  敦煌郊外の墓地で見学した西晋墓(265-316年)もこんなに立派ではなかったが、やっぱり伏斗式の天井だった。また、トルファン郊外のアスターナ古墓群で見学した唐時代の墓室はもっと質素なものだったが、やっぱり伏斗式天井だった。
いったい安岳3号墳のラテルネンデッケ天井はどこからきたものなのだろう。

※柿蔕文・四葉文についてはこちら

※参考文献
「高句麗の歴史と遺跡」(監修森浩一 1995年 中央公論社)
「高句麗壁画古墳展図録」(監修早乙女雅博 2005年 社団法人共同通信社)
「魏晋南北朝壁画墓の世界」(蘇哲 2007年 白帝社)
「世界の大遺跡9 古代中国の遺産」(監修江上波夫1988年 講談社) 
「中国古代の暮らしと夢展図録」(2005-2006年 岡山市立オリエント美術館他) 

2008/11/19

正倉院調度品の合板という技術

今年のNHK新日曜美術館で、奈良国立博物館の西山氏は正倉院の宝物の9割は日本製であると解説していたのには驚いた。中国からの舶載品だと思われていたものが、成分分析で日本でつくられたものだったことが判明しているが、正倉院宝物のほとんどが日本製とは。
そして、黒柿という素材から日本製と思われる厨子には、奈良時代にそんなものがあったのかとびっくりの技術が駆使されていた。 

黒柿両面厨子(くろがきのりょうめんずし、両面開きの戸棚) 2008年(第60回正倉院展)
同展図録は、前後両面に観音開きの扉をつけており、両面から使用できるようになっている。内部には棚板が1枚あり、上下2段に分かれており、戸棚のように用いられたと考えられる。天板及び底板はともに7枚矧ぎという。合板のような技術が奈良時代にあったのだ。  黒柿の厨子だけではない、正倉院の調度品の中には、他にも板を薄く矧いで何枚か貼り付けるという技法を用いたものがあった。粉地銀絵花形几は4枚矧ぎ、紫檀木画双六局は芯の上下に各2枚矧ぎとして造られているらしい。

日本製でも、薄板を貼り合わせて反り返りを防ぐというような技術は、きっと中国から伝来されたものだろう。しかし、探しても、中国の現存する美術品で木製のものを見つけ出すことすらできなかった。

そこで検索してみると、日本合板工業組合連合会の合板とはに、合板の製造技術の基になる薄く剥いた板を木材などの表面に接着する手法は、B.C.1500年代古代エジプトで行われていました。その手法はローマ時代、ルネッサンス時代に受け継がれ手工業的工法で家具やドアなどを作るのに利用されました。1870年代頃ヨーロッパで単板(薄く剥いた板)切削用にベニヤレースが使われるようになり、1880年代頃には工業化されていたとされています。その後合板は世界各地に広まり、近代的工業に成長しつづけました。日本では1907年(明治40年)、名古屋の浅野吉次郎が独自に開発したベニヤレースの実用化によって始まったとされているという。
エジプトの合板製の遺物は見つけることができなかったが、合板という技術は、ローマ時代以降、はるばるとシルクロードを経由して、中国から日本にまで伝わったのだろうなあ。

※参考サイト
日本合板工業組合連合会(略称として「日合連」<にちごうれん>)の合板とは

※参考文献
「第六十回正倉院展図録」(2008年 財団法人仏教美術協会)

2008/11/17

正倉院の紫檀木画双六局にひそむ忍者

紫檀木画双六局(すごろく盤) 2008年(第60回正倉院展)
同展図録は、木画(モザイク)による華麗な装飾が施された双六盤。天板は芯材の表裏にシタン各4枚を貼って、周囲に側板を立ち上げている。その四隅と長側中央に6箇の床脚を立て、地摺をつける。側板の稜角・四隅の床脚の角・地摺の稜角には象牙の角貼が施される。側板の外面には、花唐草文を主体として、間に飛鳥・飛雲・鴨に乗って飛ぶ人物を表す。木画の素材はツゲ・シタン・タガヤサン・竹・象牙・緑色に染めた鹿角・水牛角というが、会場は暗くて鴨に乗る人物はよく見えなかった。 図録の拡大図でようやく紫檀木画双六局の長側面の鴨に跨った人がわかった。それでも上着は背景の紫檀の色に紛れてしまっている。
カモは白で表され、右翼は下に、人の足のような右足は後方に、2つに分かれたような尾は人物の背後に跳ね上がっている。そうすると、人物が右腕で掴んでいるのは何だろう? その人が頭巾を付けているのは、同展図録の表紙を見てようやくわかった。赤いズボンは目立つものの、上着と同色の頭巾を付けていると、どうも忍者のように見えてしまうなあ。このような正倉院の宝物のモチーフで文字を飾った、楽しい図録の表紙というのは初めてではないだろうか。来年も期待しよう。

※参考文献
「第六十回正倉院展図録」(2008年 財団法人仏教美術協会)

2008/11/14

正倉院展の楽しみはヤツガシラ探し

ヤツガシラは日本では一度だけ見た。庭に一瞬留まって、すぐに飛び去ってしまった。
西域旅行ではあちこちで見かけたが、いつも群れることはなく、1羽で飛んでいた。そしてすぐには飛び去らないまでも、あちこち動き回るので、なかなか写真には収まらない鳥だった。

ヤツガシラ ブッポウソウ目ヤツガシラ科
『日本の野鳥』は、頭に先の黒い大きな冠羽のある、上半身が黄褐色の鳥、ユーラシア大陸とアフリカの熱帯から温帯で広く繁殖する。日本には稀に旅鳥として春秋に渡来し、春の記録が多いという。
写真は、トルファン郊外、火焔山の谷の一つにあるトユク石窟へと向かう木道の補強材に留まっているのを撮ったが、ピントを合わせきれなかった。正倉院の宝物には小鳥や鴨類が多く文様として描かれているが、ヤツガシラもよく登場するので、正倉院展に行くと、今年はどんなものにヤツガシラが描かれているのかを探すのが、正倉院展での楽しみの一つだ。
2008年の第60回正倉院展でも2作品で見つけた。 

金銀絵漆皮箱(きんぎんえのしっぴばこ、獣皮製の箱) 2008年(第60回正倉院展)
同展図録は、漆皮箱は牛や鹿などの獣の皮に漆を塗ってつくる箱で、型に皮をあてて成形し漆を塗って固める。これは奈良時代に盛行した箱を製作する技法のひとつ  ・・略・・  漆の上には金泥と銀泥を用いて文様を描き、最後に全体に油膜をひいて仕上げられている。側面は唐花文に蝶や鳥を配すという。
身側面には冠のように羽を広げて飛ぶ2羽のヤツガシラが描かれている。上の写真では冠羽を閉じているが、漆皮箱では2羽のヤツガシラが冠羽を広げて飛んでいる。ヤツガシラは飛んでいる時に冠羽を広げていたかどうか、記憶にないなあ。
彩絵水鳥形(さいえのみずどりがた) 長2.6㎝厚0.2㎝ 2008年(第60回正倉院展)
ヒノキの薄板を飛翔する鳥の形に裁断し、彩色・装飾を施したもので、一対の形で伝わる。鳥名については、従来は水鳥とされてきたが、近年の研究でヤツガシラと同定された。表面は背に緑、腹に白、嘴に赤色を塗り、冠羽・翼・尾羽に実際の鳥の羽毛を貼り付けており、黒・灰・青・淡青の横縞模様を呈することから、日本産のカケスの初列雨覆(しょれつあまおおい)と呼ばれる風切羽の根元外側の羽毛と同定されている。さらに羽毛の上には金箔の四角い小片を蒔くなど、小品ながら極めて手の込んだ細工が施されているという。
単眼鏡で見て、やっと羽毛が整然と並んでいるのがわかった。それくらい細かい細工だった。 紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし、染象牙の碁石) 径1.5-1.7㎝厚0.7-0.8㎝ 2005年(第57回正倉院展)
同展図録は、象牙で造った碁石を紅色に染め、これに線刻をくわえて白く文様を彫りあらわす撥鏤技法を用いている。花枝をくわえて飛ぶ鳥を表現するが、羽冠を戴く鳥(ヤツガシラと鑑される)を表し、翼の一部や花心等に緑色をさすという。
花喰鳥(はなくいどり)にもヤツガシラが選ばれている。 粉地銀絵花形几(ふんじぎんえのはながたき、献物几)  2005年(第57回正倉院展)
サクラとみられる材を用いて製作されたものである。天板は4枚の材を矧いで猪目形に刳りのある長花形にかたどり、表裏ともに光沢のある白色顔料を塗り、側面に銀泥で花卉・飛鳥・蝶を散らし描きするという。
左のヤツガシラの向こうには、ヤツガシラと同じ体の小鳥も描かれていた。右の2羽のヤツガシラは尾が長いが、写真の通り、ヤツガシラの尾はこのように長くない。実際にはヤツガシラを見たことのない人が描いたのだろうか。 紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)  1985年(第37回正倉院展)
同展図録は、象牙を紅く染めて撥鏤で模様をあらわした儀式用のものさしで、寸法の目盛りはなく、実用に供されたものではない。表裏両面と側面に美しい撥鏤の模様がみられる。中国の唐では、毎年2月2日に鏤牙尺と木画尺を朝廷に調達する行事があったが、この紅牙撥鏤尺もそうした儀式に用いられたと思われるという。
ここにも花喰鳥のヤツガシラが登場する。クチバシが長いので、ものをくわえた図を描くのが容易だったからだろうか。 碧地金銀絵箱(みどりじきんぎんえのはこ)  1985年(第37回正倉院展)
ヒノキ製、長方形印籠蓋造り、床脚つきの箱。外面を碧色の顔料で塗り、蓋表と4側面に金銀泥で文様を描く。蓋表の文様は、中央に団花文を置き、中に花座にのり、花枝をくわえた対向の双鳥を配し、その周囲に花喰鳥、花卉、蝶をあしらい、4隅に団花の一部をのぞかすという。
こちらも花喰鳥として描かれていて、他の作品のヤツガシラよりも表現が細密である。このような手本となる作品をまねて、簡略化したり、尾が長くなったりしながら、いろんな作品に描かれるようになったのだろうか。冠羽が文字通り冠をかぶったように見えて、天皇にふさわしい鳥とされたのかも。 それとも、現代では稀に来る鳥だが、奈良時代にはそこかしこで見かけることができたのだろうか。

※参考文献
「第三十七回正倉院展図録」(1985年 奈良国立博物館)
「第五十七回正倉院展図録」(2005年 奈良国立博物館)
「第六十回正倉院展図録」(2008年 財団法人仏教美術協会)
「日本の野鳥」(1985年 山と渓谷社)

2008/11/08

田上恵美子氏の個展は今年も「すきとおるいのち」


久しぶりに届いた田上恵美子氏の個展案内だが、期間は2008年11月1日~11月15日と、すでに半分は終了している。それによく見ると田上氏は恵美子ではなく、惠美子さんだった。テーマは去年同様今年も「すきとおるいのち」である。
去年はギャラリー角のショーウインドウを覗くと2連の首飾りが展示してあり、ひっくり返りそうになった。
今回はいったいどのような作品が創られているのだろうか。 「すきとおる」と言えば、今年の正倉院展には白瑠璃碗が出品されていた。写真では六角形の切り子の中に小さな六角形が蜂の巣のように並んで見えているが、これが暗い館内では見られるのだろうかと思っていた。
しかし、かなり大きな展示ケースの中央に置かれてはいたが、思いの外しっかりと1つ1つの六角カットの中に小さな六角形がびっしりと並んでいるのが見えた。それに、底の中央に大きな円形、そのまわりに7つカットされているのもよく見えた。西アジアは古くから奇数崇拝だったというのを思い出した。

白瑠璃碗(はくるりのわん)  型吹き製法でカットグラス 5~6世紀頃 ササン朝ペルシア(現イラン、ギラーン州周辺)
『第60回正倉院展図録』は、製法は、溶かしたガラス素材を拭(ふ)き竿(さお)につけ、半球形の型に当てながら吹き膨らませた「型吹き製法」で、切子は回転する砥石(といし)を押し当てて一つ一つ磨き上げたものであるという。1999年発行の『正倉院への道-天平の至宝』ではやや淡褐色の透明ガラス製で宙吹技法により成形されているとあったが、研究が進んだのだろう。それについては、こちらをどうぞ。

そして、「白瑠璃碗」と呼ばれているので、無色透明なものを想像していたが、意外と色が濃かった。
アルカリ石灰ガラスらしいわ
透明でも不純物はかなり入っていたはず
何が入ったらこんな色になるの?
透明なものを黄色っぽくするのは鉄しかありえん 何故白瑠璃碗の色にこだわったのかというと、このようなカットグラス碗は今まで何度か見たことがあるが、どれも出土品なので、風化していて透明でないものばかりだったのだ。
つくられた時からこんな色?それとも経年変化で無色のものがこんな色になったの?
それはよくわからん
そうそう、今回は参考品として、奈良国立博物館蔵の風化した円形切子碗も展観されていた。何故か白瑠璃碗と離れたところにあった。
類品や破片は、チグリス川とユーフラテス川に挟まれたイラクのキシュ(Kish)遺跡、あるいはカスピ海の南岸のイラン北西部にかけての地域で5~6世紀頃に製作されたものと考えられている。おそらくササン朝ペルシアの王侯たちに分配され、さらにその一部が通商などによってはるばるシルクロードを越えて運ばれたのであろう。本品とほぼ同形・同大の切子碗が、江戸時代に大阪府羽曳野市の安閑天皇陵古墳から出土したと伝えられている(東京国立博物館蔵、重要文化財。文化財オンラインのガラス碗に画像があります)。本品をこれと同じ古墳時代の舶載品とみるか、8世紀の遣唐使の将来品と考えるか意見は分かれるが、最終的には珍財の1つとして東大寺大仏に奉献されたものと考えられている。なお、同種の切子碗は世界各地のコレクションに例をみるが、いずれも土中によるガラス表面の銀化が進んでおり、当初の輝きと透明度を保っているのは本品が唯一であるという。
でも安閑天皇陵古墳出土の円形切子も、幾つかに割れて継いであるが、透明なままみたいやけど。風化したガラス碗はこんな感じです。  そう言えば田上惠美子氏の作品には、透明ガラスを使っていても、曇りガラスのようになったものも多い。今回のハガキにも部分的に透明でない作品が使われている。このようなに風化したガラスを表しているのだろうか?
行きたいけど、奈良の学園前は遠いなあ・・・

「田上惠美子」氏ではなく「田上恵美子」氏のままですが、以下の記事も宜しく。
日本にも金層ガラス玉が-藤ノ木古墳の全貌展より
日本のガラス玉は
田上恵美子氏のすきとおるいのちと透明ガラス
透きとおるいのち 田上恵美子ガラス展は銀座で
田上恵美子氏とフェニキアの人頭玉・人面玉
アートボックストンボ玉とコアガラス田上恵美子展

※参考文献
「正倉院への道-天平の至宝」(1999年 米田雄介ほか 雄山閣)
「ガラス工芸-歴史と現在-展図録」(1999年 岡山オリエント美術館)

※参考サイト
文化財オンラインガラス碗  

2008/11/05

高句麗古墳の三角隅持送り天井(ラテルネンデッケ)は


八幡山5号墳(5-6世紀)は、説明パネルに「三角持送式天井」は高句麗(朝鮮)の古墳にみられる構築法で、日本では能登半島の蝦夷穴古墳が知られているというように、それが特徴とされている。しかし、それは私の知っているラテルネンデッケ(三角隅持ち送り天井)とは異なるものだった。また、蝦夷穴古墳は7世紀中葉のものなので、八幡山5号墳の参考にはならない。(蝦夷穴古墳については末尾に参考サイトを記します)
八幡山5号墳の石室が自然石をほぼそのまま使っている中では、三角持送りと見なされた石が加工され板にしたように思えなくもない。しかし、一番奥の頂石の大きさが足りなくて、両隅から斜めに石の板を張り出して、その上に置いたという印象を受ける。  では、高句麗古墳の三角隅持ち送り天井はどういうものか。『高句麗壁画古墳展図録』の図版でみてみると、

双楹塚(そうえいづか)奧室天井南側 平安南道南浦市龍岡郡龍岡邑 5世紀末築造
この石室は壁面から3段に平行に持ち送って(①・②・③)、その上に2段の三角隅持ち送り(▲1・▲2)が重なっている。このように、水平方向に持ち送ることによって頂部が段々に狭くなっていく。 双楹塚奧室天井
そして、八幡山5号墳との一番の違いは、高句麗古墳で三角隅持送り天井の場合、石室は平面が正方形である。その正方形の内側に正方形を90度回転させながらはめこんでいくので、見上げると三角形が4つずつ見えながら高い箇所のものは小さくなっていくのを三角隅持送り天井の定義だとこれまで思ってきた。極端にいうと半球形のドームを平面の組み合わせで構成したものと見えなくもない。安岳3号墳 黄海南道安岳郡五菊里 4世紀後半築造 
『高句麗の歴史と遺跡』で高句麗石室墳の変遷の図解(249-251頁)をみていると、三角隅持送り天井を持つ古墳の最古のものがこの安岳3号墳である。外観は円墳のようだが、『高句麗壁画古墳展図録』は、丘陵上に立地する墳丘は方台形で南北33m、東西30m、高さ6mをはかる。横穴式石室は古墳の中央に位置し、正南から西に5度寄った方向に入口が開く。石室は羨道・羨室・前室・奧室・回廊の各部よりなり、羨室・前室(西側室と東側室が付属)・奧室の天井は隅三角持ち送り天井構造である。高句麗古墳のなかでは最も複雑な石室構造の1つであるという。  安岳3号墳奧室天井
もとの図版が北壁と天井部分を撮影したものなので、天井が正方形であることがわかりにくい。こちらも壁面から3段に平行に持ち送ってその上に2段の三角隅持送りのある天井である。双楹塚と比べると各層が薄い。
徳興里古墳 平安南道南浦市江西区域徳興洞 409年
高句麗の持ち送り天井は三角隅だけでなく、数段の平行持ち送りだけで構成されているものもある。しかし、平行持ち送りにしろ、持ち送り天井というのは、高句麗では安岳3号墳が最初のものである。
そうなると、三角隅持送り天井の古墳は高句麗で始まった古墳なのかという疑問がわいてくる。
安岳3号墳西側室の入口左側の人物の頭上には、この墓の主人公の墓誌が768字にわたり墨で書かれる。これによれば、357年に没した中国遼寧省蓋平県出身の冬壽の墓であることがわかる。
室の数が多いことと回廊をもつ石室、壁画人物の服装は、中国遼寧省遼陽近郊の石室墓に類似する。そのことは、墓誌に書かれた遼寧省出身の冬壽がこの墓の主人公であることを裏付けしてくれる
という。
また、初期には、『三国志』魏書東夷伝の高句麗の条に、「石を積んで墳丘を作り」と見えるように、積石塚が築かれ、竪穴式や横穴式の石室を埋葬施設とした。その後4世紀末から5世紀初のころを境として、土を積んで墳丘とした封土墳へと変遷した。そして、埋葬施設は横穴式石室となった。その横穴式石室に壁画が描かれたのであるということなので、高句麗で亡くなった遼寧省出身の人物が、故郷の石室墓をまねて自分の墓を造営したのが高句麗での三角隅持送り天井の墓室の出現となったのかも。


※参考文献
「高句麗壁画古墳展図録」(監修早乙女雅博 2005年 社団法人共同通信社)
「高句麗の歴史と遺跡」(監修森浩一 1995年 中央公論社)

※参考サイト
石川県史蹟整備市町協議会の須曽蝦夷穴古墳
能登の古墳(続き)
七尾市役所の七尾おでかけガイド

2008/11/03

八幡山5号墳の三角持送式天井は高句麗風?


説明パネルには八幡山公園全体図があった。兎の塚古墳は気がつかなかったなあ。
その説明文は本古墳群は北東の古墳より3、4、5、6号墳とよんでいるという。私の目当ては5号墳だが、境内のあちこちに丸い石があるのに気を取られて、この説明パネルになかなか気づかなかった。 4号墳はこの古墳群のなかでもっとも大きく墳丘の直径22m、高さ3mを測る。埋葬施設は未発掘のため不明であるが、おそらく他の3基と同時期のものと推定される。3、5、6号墳の石室は、いずれも九州や山陰の一部に見られる竪穴系横口式石室の類型であるという。竪穴系横口式石室というのは、竪穴を掘って石室と羨道をつくって封土を盛り、横口の羨道から棺あるいは遺体をおさめたということだろうか?この辺りがくぼんでいるので開口部があるのかも。5号墳の石室には次のような2つの特色がある。1つは奧壁部に「三角持送(もちおくり)式天井」の構築法を用いていること。もう1つは両側壁の低い位置に左右対称に突出した4個の石棚状のものをつけていることである。この「三角持送式天井」は高句麗(朝鮮)の古墳にみられる構築法で、日本では能登半島の蝦夷穴古墳が知られているという。おっちゃんが写真を撮っているところに開口部があるらしい。 横口というか羨道は上部が崩れているようだ。石室が露出したと思われる開口部は小さく、おっちゃんは入ることができなかったので、私がおそるおそる入っていった。何故なら、八幡山5号墳は三角持送式天井になっていると知って、前々から見学したいと思っていたからだ。日本にもラテルネンデッケがあるのかな?  楣石をくぐると内部は少し天井が高いくらいで、幅も狭かった。三角持送式天井はここからではわからない。 奧まで進んでカメラを構えてやっと三角持送式天井と言われているものがわかった(▲印)。 一番奥の天井石は、三角形に迫り出した石の上にのっているので三角形に見える。それに続く天井は四角形に近い石が幾つか被せてあるので、両隅の三角形の出っ張りに四角形の石をのせたのだろう。
三角隅持送り天井ばかり探していて、低い位置にあるという左右対称の4個の突き出た石棚状のものは気づかなかった。  説明パネルには5号墳の展開図があった。奧の両隅に三角形に持送った石が表されている。
しかし、高句麗式の三角隅持送り天井というのは正方形の平面に、四方から三角に持ち送っていくのではなかったか?  6号墳は羨道らしき部分の壁面の石材が露出している。
八幡神社の鳥居近くに3号墳があったが、形が崩れたままだった。
本古墳群は日本文化と渡来文化の接触を示す貴重な遺跡であるという。ちょっと疑問やなあ。

※参考文献
「兎塚学びの里八幡公園の説明パネル」(1994年 兵庫県教育委員会)