お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/11/30

小野浄土寺浄土堂のもう一体の阿弥陀像は



浄土寺の人が言った浄土堂の阿弥陀三尊立像の中尊とは別にもう一体あるという阿弥陀立像は「大勧進 重源」展に出ていた。浄土堂の本尊と同様に光背が非常に簡素であるが、身光・頭光の外側に来迎雲に乗った化仏が計9体付いている。 

阿弥陀如来立像 木造・漆箔 像高226.5㎝ 鎌倉時代、建仁元年(1201)
『大勧進重源展図録』は、阿弥陀仏が諸菩薩を引き連れて浄土から来迎する様子を演劇的に再現する儀式、迎講(むかえこう、来迎会)の本尊として造立された。上半身は裸体、下半身にのみ裳を着用しており、来迎印を結んで立つ。迎講に際しては布の衣を着せ、台車にのせて動かされたと考えられる。その用途に配慮して、半丈六の大像にもかかわらず非常に軽量に仕上げられている。
また『浄土寺縁起』には、迎講始修の翌年にあたる建仁元年に「来迎具足」一式が製作されたことが記されている。その冒頭に安阿弥陀仏すなわち快慶の作として掲げられる「中尊八尺立像」が本像にあたり、建久6年(1196)頃完成の浄土寺浄土堂阿弥陀三尊像と同様、阿弥陀信仰を介した重源との深いつながりの中で、快慶がその技量を存分に発揮した名作と位置づけられる。宋代仏画の影響が色濃い浄土堂三尊に対し、本像は快慶独自の彫刻様式がより顕著に示されており、目尻をあげた凛々しい面立ち、みずみずしい張りをもつ肉身の描写はまことに精彩に富む
という。

そう言えば、浄土堂の阿弥陀如来立像の光背にもあったが、二重の光背の間にある丸いものはなんだろう。迎講で上の阿弥陀仏が引き連れる諸菩薩について、同図録は、建仁元年に阿弥陀如来像とともに、菩薩面27面が、やはり快慶の手で製作された。そのうち25面が現存したものという。同展では、15面が展観されていたというが、横長のケースにずらずらと並んでいて、来迎する聖衆という雰囲気は感じられなかったのは保存という点から仕方のないことだろう。

菩薩面 木造彩色 長18.9~20.8㎝ 鎌倉時代、建仁元年 
迎講というものが、どのように執り行われていたのだろうか。
東大寺の播磨別所・浄土寺では、迎講が重源による正治2年(1200)の始修以来、昭和10年(1935)に至るまで断続的に行われてきた。
重源の六百年遠忌を記念して、文化4年(1807)に修された際の記録では、浄土堂の南に仮殿を設け、仮殿と舞台をつなぐ35間の長さの橋をかけて、八角の台にのった来迎の阿弥陀像を先頭に、仮面をかぶって菩薩に扮した30人ら60人の聖衆の行列がその上を通ったという
という。

浄土寺で迎講を始めたのは重源さんだったのだ。阿弥陀聖衆来迎図などから想像していたものとは異なった、にぎやかなものやったらしい。

そうそう、浄土寺にも重源像がありました、見たのは重源展ですが。


重源上人坐像 木造彩色 像高82.5㎝ 鎌倉時代、天福2年(1234)
同展図録は、その表情や着衣の制、ポーズ、細部の衣文表現にいたるまで、東大寺像を克明に写したものであると考えられる。
像内に墨書があり、智阿弥陀仏の勧進により、天福2年2月15日に南都より浄土寺へ到着したらしいこと、浄土寺内の御影堂に建長8年(1256)に移されたことがわかる
という。

三重県新大仏寺の重源像ほどには似ていると思えないなあ。表現が硬くて、東大寺像を模刻したという感は否めない。私には別人に見えました。浄土寺は、境内図にもあるように、この重源像が安置されている開山堂と本堂(薬師堂)も、浄土堂と同じ宝形造となっている。それに境内中央に池があったりして、他のお寺とはだいぶ趣を異にしている。来年の夏にまた訪れてみたい。

※参考文献
「大勧進 重源展図録」 2006年 奈良国立博物館

2007/11/28

浄土寺浄土堂の阿弥陀三尊像は快慶作



浄土堂は北側の小さな開口部から入る。  入ると内部が暗いので、中央に阿弥陀三尊像が置かれているのだが、よく見えない。西側と南にある部分的な蔀戸(しとみど)から少し明かりが入ってくるので、建物の朱色と白がまず目に入ってきて、朱の色が鮮やかでびっくりした。そして次に驚くのは、外から見たらあまり高い建物に見えないのに、阿弥陀三尊立像の背が高いことである。重源さんが浄土堂を宝形造にしたことの意味がわかったような気がする。化粧屋根裏にして天井がないので、中央の空間ほぼいっぱいに、雲に乗って来迎してきた瞬間の阿弥陀三尊像が立ちはだかっている。
大きな光背のある仏像の場合、背中側は衣文などの彫刻が施されないことが多いが、この阿弥陀三尊は背後まできっちりと彫り込まれているので、前面からだけ拝むために造られたのではないことがわかる。また阿弥陀さんの頭光も身光も透かした簡素なもので、背後からの光が通るようになっている。

浄土堂は、春分秋分の日に行くと夕方真西に来た太陽の赤い光が差し込んで、雲に乗った阿弥陀三尊があたかも迎えに来たようであると、どこかで聞いたり読んだりした記憶がある。
それはこのような光景になるのだろうか?しかし、これでは逆光で、何者がやってきたのかわからないのではないかという気もする。
お寺の人はいろんな人が来て、感激して、自分が来たその時が最高だと書いているだけです。いつ来てもいいんです。強いて言えば7・8・9月が阿弥陀三尊像が一番よく見えるでしょうと言っていた。 しかし、その頃に来てもこのようによくは阿弥陀三尊像は見られないだろうと思う。東側は壁と閉じられた扉となっているのだから。下の写真は東側の桟唐戸を開いて撮ったのだろうか。かつて阿弥陀三尊像の前には木製黒漆塗の三脚卓(みつあしのしょく)が置かれていたらしい。

『大勧進 重源展図録』は、供養具や供物などを置いた。天板の形は三日月形で、輪郭は花弁状の切れ込みを入れている。天板の正面と左右に、先端が蕨手状に巻き返った長い脚が付けられている。天板の下方で三脚を結ぶ横材が渡され、天板と横材が作る間に格狭間(こうざま)を作っている。格狭間はいわゆる蝙蝠形格狭間(透かしの形が蝙蝠に似ているため、この名がある)で、同様の意匠の持ち送りを脚にも取り付けているという。
同展に行った時、この蝙蝠形格狭間というものを初めて見た。面白い形だと思ったが、鎌倉時代以降流行するのだそうな。お寺の人は国宝の阿弥陀三尊像について説明した、重源が宋から持って帰ってきた仏画に似せて快慶に造らせたので、他の快慶の造った仏像とちょっと雰囲気が違います。
重源さんが宋に行ったのは12世紀後半だろう。その頃の阿弥陀三尊像はたくさんは残っていないようだ。一番近い頃の阿弥陀三尊像は普悦画(京都府、清浄華院造)のものだが、あまりにもぼんやりとした描き方のため、来迎雲があるのかないのかわからない。そして、こちらはそれぞれが踏割蓮華に乗っているが、浄土堂の阿弥陀三尊像はそれぞれ1つの蓮台に乗っていて、その蓮台が更に沸き立つ雲に乗っている。 お寺の人は続けた、こんな不安定な上に直立した仏像がよく立っていると思いませんか?実は、仏像は寄木造ですが、その木はずぼんと地中まで達しています。だから倒れません。他の美術館・博物館にも持って行くことができません。それから、浄土寺にはもう1体阿弥陀像がありまして、今は奈良国立博物館の常設展示に展観されています。それも快慶作で重文です。
その像は「大勧進 重源展」で見たような気がするが、どんな像だったかなあ。

外に出て裏側に回り蔀戸を見た。 地中に達しているという木は縁側からのぞきこむと見えるのだろうか。

※参考文献
「日本建築史図集」 日本建築学会編 1980年新訂第1版 彰国社
「大勧進 重源展図録」 2006年 奈良国立博物館
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館

2007/11/26

小野浄土寺浄土堂の建物は



東大寺再建の勧進僧重源が新たに採り入れた寺院の建築様式を大仏様(だいぶつよう)というが、東大寺大仏殿は再び灰燼に帰したため、現存する大仏様の遺構は東大寺南大門と浄土寺浄土堂だけらしい。
浄土堂はそんなに大きな建物ではないが、周りにいろんなものがあるため、全体を1枚に納めようとするとこの辺りからがよいらしい。実際に建物の周囲を回りながら見ていると、軒があまり高くないからか、背の低い、横長の建物という印象だが、このように対角線上で見ると宝形造の頂点は思ったよりも高い。
解説をする人?がいて、いろいろと説明を聞いて、その時はなるほどと思ったが、数日たった今ではほぼ忘れてしまったので、『大勧進 重源』展図録に載せられた西田紀子氏の「重源と大仏様建築」と共に、浄土堂をみていきたい。同書は、大仏様の特徴としてまず挙げられるのが、明快で合理的な構造である。  ・・略・・大仏様では、柱と柱をつなぐ「貫(ぬき)」が導入された。日本建築では柱間をつなぐ横材として、「長押」と「貫」を使用する。長押は柱の側面に釘付けした水平材、貫は柱に穴を開けて貫通させた水平材である。平安時代までの建物では、長押を主に用い、貫は柱の頂部を繋ぐ「頭貫(かしらぬき)」のみが一般的であった。これに対し、大仏様の建築で、柱の途中の高さに穴をあけて貫を通し、柱と柱を緊結する技法が広く用いられるようになったという。

東大寺南大門は貫がたくさん通っているのがよく見える構造だが、浄土寺浄土堂にはその貫がどこにあるのかよくわからなかった。
山西省では、宋の敵国遼や金の建設した寺院が残っている。その中で、大同市街地にあり、遼創建、金再建という上華厳寺の大雄宝殿は、巨大な建築物で、減柱法で柱を減らして、上の方でたくさんの貫を通しているということだった。  
開口部については、扉は、縦横に枠を組み、その間に板をはめた「桟唐戸(さんからと)」を用いた。扉の軸は「藁座(わらざ)」という軸受けを取り付けて納めた。いずれも大仏様の新技法であるという。これはわかり易かった。細部の装飾的なものについては、建築の細部意匠にも、大仏様独自の特徴がみられる。挿肘木の先端や、虹梁の端部には、円弧を組み合わせた「繰形(くりがた)」彫刻がみられる。これらは一方を水平とし、もう一方を曲線を組み合わせた形に造り出した大仏様独自の意匠であると、これらも独特のものであるという。  そして組物については、浄土堂では挿肘木の先端にのみ斗を置いており、上下に斗が並ばない。こうした斗の配置が上下にそろわない組物は、中世の中国から導入された禅宗様でもみられ、中国建築の影響を色濃く反映したものといえる。
また、組物の斗は、下に板状の「皿斗(さらと)」とつける。皿斗は、世界最古の木造建築である法隆寺の西院伽藍にもみられるが、奈良時代以降の建築には使用されておらず、大仏様で再度導入されたものとみられる
という。

確かに端にだけ斗がある挿肘木は、三手先の組物(1・2・3)となって軒を支えているが、上向きのゾウの鼻が並んだようで頼りない気もするし、すっきりしているともいえる。
軒の四隅について、南大門では隅柱から外側のみを扇垂木とするのに対し、浄土堂では庇の中間桁から外側を扇垂木としている。これも、より中国風の技法とみられる という。

山西省の晋祠で宋時代の建物聖母殿などもこんな風になっていたのかな。反り返った屋根の形が気になって、ちゃんと細部を見ていなかった。 また、建物の軒下を支える「組物」にも、大仏様独自の新たな技法がみられる。その一つが「肘垂木」である。和様の建築では、柱の頂部に「斗(ます)」と「肘木」を組み合わせた「組物」を置いて、軒下の桁を受けている。これに対し大仏様では、柱の側面に枘穴(ほぞあな)をあけて、そこに枘差しした「挿肘木」を使用し、挿肘木と斗を重ねて軒下の桁を受けているという。
外側の組物について説明しているが、内部にも同じ組物があって、四天柱から直角の2方向とその真ん中からも外側に虹梁(A・B・C)が出ていて、その虹梁の荷重を三手先の組物(1・2・3)で支えているのだが、これが天柱を突き抜けずに、差し込んだだけでバランスしているんやねえ。
そう言えば唐時代の建築という五台山仏光寺大殿の内部には、四手先の同じような組物が虹梁を支えているようだが、これが挿肘木かどうかわからない。また、反対側に2つ出た小さな木鼻はただの装飾なのだろうか、聞き逃した。そして、屋根を支える垂木も大仏様と和様で異なった特徴をしめす。大仏様では、軒先まで一本の垂木を渡した「一軒(ひとのき)」、隅部は放射状に配された「扇垂木」とし、垂木の先端には、木口を隠す「鼻隠板」をうつ。和様では、垂木は建物寄りの「地垂木」と軒先の「飛檐垂木」を用いた「二軒」が多く、隅部も垂木同士が平行に配され、鼻隠板は用いない。
浄土堂は中央の長い柱(四天柱、してんはしら)と外側の短い柱の間(側柱、がわはしら)の間に虹梁と円束を三重に組み、四天柱間には二重に虹梁をかけている。四天柱と側柱の間に虹梁を二重以上組む架構は、日本の中世建築にはほとんど見られず、古代以来の日本建築にみられた身舎(もや)・庇構造と根本的に異なる。日本の架構は柱間を基準とするのに対し、こうした浄土寺の架構は、身舎桁を基準とした中国建築の架構を伝えたものといえる
という。

一軒であることは『日本建築史図集』の浄土寺浄土堂見上げ図でよくわかった。 同書は、大仏殿再建に当たり、陳和卿らは、どのような中国の建築様式を手本としたのだろうか。田中淡氏によれば、大仏様にみられる貫・挿肘木・隅扇垂木などは中国福建省地方の宋代の木造建築に類例がみられるが、大仏様の特徴を全て備えた遺構は中国で確認されていない。また、杉野丞氏によれば、大仏様の様式は華南地方の様式に華北地方の様式が混入し始めた、早期の宋様式とみられるという(「建築歴史・意匠部門研究議会 大仏様の源流を求めて」『建築雑誌』114-1433号、1999年)。すなわち、大仏様は、中国で確立した様式をそのまま移植したものでなく、個別の技法を輸入し、あわせて用いることで成立したと言えるという。
しかし、淮河(わいが)と秦嶺山脈を結ぶ線以南を華南、以北を華北と呼ぶ(Wikipediaによる)らしい。また、中国で漢民族の国家は南宋(1127-1279)で、その背後には金が迫り、いわゆる華南にまで領土を広げていたので、当時の宋の建築様式に、北の騎馬民族国家の遼や金の建築様式が入ってきたということで良いのでしょうか。

※参考文献
「大勧進 重源」展図録(2006年 奈良国立博物館)
「日本建築史図集」(日本建築学会編 1980年新訂第1版 彰国社) 

※参考ウェブサイト Wikipedia の華北・華南・淮河・南宋(南宋には詳しい地図が掲載されています)

2007/11/23

小野浄土寺は燈籠もええなあ

東大寺の勧進僧俊乗房重源は1195年の東大寺大仏殿再建より前に、播磨別所に浄土寺浄土堂を建立した。東大寺大仏殿は室町時代再び焼失するが、浄土寺浄土堂は今でも残っていることを知って、でかけてみた。現在では小野の浄土寺と呼ばれている。
駐車場は境内よりも西にある。近づくとまず見えてくる宝形造(ほうぎょうづくり)の建物が浄土堂(阿弥陀堂)だった。  境内には北に回り込んで階段を上っていく。 そして東の正面に来ると燈籠がある。けっこう古そうな燈籠のようだ。ここで燈籠と浄土堂全体をカメラに納めようとすると背後に池があるために無理だった。 お寺のパンフレットには境内図があるが、西を下に描いてあるため、浄土堂に隠れてこの燈籠がない。ということは、大して古くもないのかも。 しかし、なかなか形の良い燈籠なので、じっくり見ていると、お寺の人が「おそらく創建当時からあるものでしょう」と言った。全体のバランスから、笠の部分が大きいようだ。基礎の部分が土に埋もれているようにも見える。太宰府の観世音寺の灯籠と比べてみると、笠の部分がよく似ている。しかし、こちらはその上の宝珠に比べて請花(うけばな)が小さい。 火袋は六角形で、対角にある面にはそれぞれ鹿のような動物と、龍のようなものとが彫られているのだが、風化がひどくてわかりにくい。鹿はあるいは麒麟かも知れない(写真では非常にわかりにくいため、着色しました)。 円窓のある面はどちらも渦を巻いた雲が2つ並んでいる。宝珠ではないようだ。
中台(ちゅうだい)には各面に格狭間(こうざま)が2つずつ線刻され、その下に8弁からなる複弁の連弁が巡っている。竿は観世音寺のものよりも細く、基礎の反花(かえりばな)は複弁の幅の広い連弁と細い複弁の連弁が交互になっているようだ。しかし、少し土を掘り返してみると、中台の連弁と同じく、子葉が2つ並んで複弁となっているのを見間違えていたのだった。燈籠の基礎には反花の下にも格狭間の彫られた部分があったりするものだが、この燈籠にはないのだろうか、それとも地中に隠れているのだろうか。
 

2007/11/21

弥勒の大仏像は



ところで、弥勒像には巨大なものがある。有名なのは、バーミヤンの西大仏と呼ばれるの立像である。
『Shotor Museum アフガニスタンの美』は、谷を挟んで南側にある高台からバーミヤン渓谷を望むと、はるか対岸に2つの大仏が見える。 
西にそびえるのが西の大仏で高さ55m、右に見えるのが東の大仏で38m。二者の間には約800mの距離がある。  ・・略・・
顔面を欠如し、年記も文献もなく、大仏の制作年を確定するのは難しい。しかし東の大仏について玄奘が「この国の先の王が建てたもの」と書き、彼が見た時はまだ傷みも少なそうな様子から、玄奘がこの地を訪れた632年をそれほどさかのぼらない頃の作ではないかと思われる。バーミヤンを調査した樋口隆康氏も年代の確定を困難としている(『バーミヤンの石窟』同朋舎)
という。

バーミヤンに限らず、敦煌莫高窟キジル石窟も、雲崗石窟も、石窟は修行僧の生活の場でもあったので、川の流れに面した崖に開鑿されている。『仏教美術のイコノロジー』は、仏教美術はインドから中央アジア・中国へと伝わるが、その過程で大きな変貌をとげる。湿潤気候で大地の豊かさに根づいたインドの仏教美術は、乾燥した砂漠地帯の広がる中央アジアの風土の中で、全く新しい様相をおびる。中央アジアの茫漠とした地では、天空に対する神秘感がつよく、釈迦の次にこの世に現れる弥勒菩薩が兜率天という天上世界にいて、そこに再生したいという、弥勒信仰(弥勒上生信仰)の美術がクローズアップされてくる。 
アフガニスタンのバーミヤーンは6~7世紀頃に栄えた仏教遺跡で、摩崖から掘り出した二大仏(東大仏と西大仏。ともに立像)と数多くの窟寺で名高いが、ここではインドの仏教美術の核となっていたストゥーパに代わって、高さ38mと55mという巨大仏が遺跡の中心にあり、大仏の仏龕壁画や祠堂窟の装飾には弥勒信仰が深い影を落としている。  
西大仏は高さは55mで、天井壁画は中央部分が剥落し台座や天衣の一部が残るのみであるが、そこには大きな弥勒菩薩坐像が描かれていたと推定される。大菩薩像を取り囲んで、多くの天人たちがアーチや梯形破風の建築物の下に坐し、中心の弥勒菩薩を讃美し、兜率天の楽土を描き出している。
この西大仏の天井の大構図の縁には、天蓋の帳幕飾りがつけられており、弥勒菩薩の大構図が天上世界であることを示している。また、大仏の肩部に当たる仏龕の張出し部には、円形区画の中に飛天たちが大仏に向かって散華する姿が描かれている。この大仏自身は下生の弥勒仏、つまり遠い将来兜率天よりこの世に下る弥勒の仏陀としての姿と思われる(弥勒下生信仰)。というのも、弥勒下生経典には弥勒が大仏となって出現することが説かれているからである。例えば『弥勒大成仏経』に人間の寿命が8万4千歳となった時、弥勒が下生し、その身は「釈迦仏より長じ、32丈なり」と述べられている。バーミヤーンの西大仏は、東大仏の釈迦仏より大きく造られており、天井に兜率天の弥勒菩薩の世界を描き、その弥勒が下生するあり様を大仏で表したものであろう
という。

西大仏が弥勒立像であるとしている。バーミヤーンの東大仏も西大仏も破壊されて今はないが、西域の天山南路中央部、クチャの郊外に位置するキジル石窟にも、大仏というか、大像があったことがわかる大きな刳りがあった。それは一般的に観光客が見学する谷西区にあるが、鳩摩羅什の像のある位置からは見えない。そしてキジル石窟では、鳩摩羅什の像近くにある旅遊接待庁でカメラも荷物も預けなければいけない。谷西区・谷東区・谷内区と欲張って見学した後、我々は敷地内にある餐庁で食事をした。その時は預けた荷物を持って行ったので、餐庁前から第47窟の大きなくぼみを撮ることができた。
『シルクロード キジル大紀行』は、キジル大石窟群の中心部に、ひときわ高くそびえる第47窟がある。ここがキジル大石窟群のなかで最も古い石窟の一つとされている。炭素年代測定法によると、第47窟が建造されたのは3世紀後半ではないかという。
第47窟は、石窟のある位置も断崖の上のほうに位置し、窟そのものも大きい。絶壁にうがたれた巨大なアーチ状の穴。アーチの下部から頂部までの高さは17.5m、これは5階建ての建物に相当する。この中に、かつてキジルを象徴する巨大な大仏が立っていたという。今までは大仏そのものは跡形もなく崩れ去ってしまっているが、アーチの天井部に大仏を賛美する飛天らしき像の手の部分だけが彩色とともに残されている。
この大仏がどんな仏様だったのか、詳しいことはわかっていない。弥勒仏の像だったのではないかと考えられている
という。

下生する弥勒像であった可能性を示唆している。
2005年夏、我々が見学する前に大雨が降って47窟の主室天井が崩れ落ち、内部を見学することも、近づくことすらできなかった。当時キジル石窟の専門ガイドだった馬媛(まえん)さんが「修復することができません」と残念そうに言っていた。47窟はキジル石窟で最古の窟で、4世紀に開鑿され、5-6世紀の地震で崩壊したと説明してくれた。最初にバーミヤンを紹介したが、このようにキジル石窟の大仏の方が古い。キジル石窟へは中央アジアの別の石窟から伝わったのだろう。

また、バーミヤンは、玄奘三蔵が行ったことでも有名だ。

『アフガニスタン 遺跡と秘宝』は、『大唐西域記』で玄奘三蔵は、バーミヤーンについて、次のように記している。  ・・略・・  王城の東北の山の阿(クマ)に、立仏の石像がある。高さ104、50尺で、金色にかがやき、宝飾がきらめいている。東に伽藍がある。この国の先王が建てたところである。伽藍の東に、鍮石の釈迦立像がある。高さ100余尺である  ・・略・・
玄奘の記述は、7世紀初頭におけるバーミヤーンの生活を的確に述べている。ただ石窟については、多少の問題がある。王城東北の山の阿にある、高さ104、50尺の立仏石像というのが、西の大仏であることは間違いない。これが金色に輝いているというのは、金箔でも貼ってあったものかとも推測される
という。

玄奘三蔵の見た大仏について推測されている。
玄奘三蔵はバーミヤーンに立ち寄るよりも前に亀茲国(当時クチャあたりにあった西方系の人々の小国)を訪れている。そこでは、当時のシルクロードであった塩水渓谷を通ったと、ガイドの丁鋳さんが行っていた。実際に我々も下りてみたが、水のほとんど流れない川を羊の群れが通っていた。

『シルクロード キジル大紀行』は、亀茲国に60日間滞在したといわれる玄奘三蔵だが、その痕跡を証明するものは現在まで発見されていない。しかし、クムトラ石窟には玄奘が訪れたといわれる場所が残っている。その場所は、クムトラの代表的な石窟として名高い第68窟から第72窟までの5連洞であるという。
残念ながらキジル石窟には行っていないようだ。もし行っていたとしても、第47窟の大仏はすでに地震で崩壊していたのではあるが。

※参考文献
「Shotor Museum アフガニスタンの美」 谷岡清 1997年 小学館
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館
「シルクロード キジル大紀行」 宮治昭 2000年 NHK出版
「季刊文化遺産14 文化の回廊アフガニスタン」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版


2007/11/20

ガンダーラの半跏思惟像


半跏像は弥勒菩薩とは限らないでインドやガンダーラに菩薩半跏像はなかったと書いたが、ガンダーラにはあることがわかった。 

『ガンダーラ美術の見方』は、日本では半跏思惟像といえば「弥勒菩薩」だと思われている。しかし、これは朝鮮半島と日本だけでのことであって、西域から中国大陸における半跏思惟像で、弥勒と銘刻のある作品は全くない。 
ガンダーラで彫られた半跏思惟像には、釈迦が悟りを開く以前の釈迦菩薩(シッダールタ太子)像と、観音菩薩とがある。半跏思惟像の考え深い姿は、瞑想に耽る若き釈迦の姿としてふさわしい。また、観音菩薩と釈迦菩薩は、図像上も共通するところが多く、ガンダーラでは半跏思惟像の姿で彫られたものも少なくない。  
中国大陸で彫られた半跏思惟像にも、「太子」の銘がある作品があるが、弥勒菩薩像と断定できる半跏思惟像はない。「太子」とは、シッダールタ太子のことである。  
ガンダーラで完成された釈迦菩薩半跏思惟像(太子像)の図像は、花郎の前世の姿「弥勒菩薩」とみなされ、6世紀中頃の真興王(540-576年)の頃から大いに流行して作られた。
我が国に渡来した最初の仏像は百済から来た釈迦像は『日本書紀』によれば欽明13年552年『元興寺縁起』では宣化3年、538年である。続いて、日本最初の弥勒像は『日本書紀』によれば敏達13年、584年が、やはり百済から渡来した。この最初の弥勒像は半跏思惟像と推定されている。
ガンダーラで最初に作られた釈迦菩薩半跏思惟像(2世紀)の姿は、西域、中国を経て、朝鮮半島で「弥勒」と名を改められた
という。

日本の弥勒半跏像にもいろんな説があるようだ。
『ガンダーラ美術の見方』に記載された2体の釈迦菩薩半跏思惟像を紹介すると、

釈迦菩薩半跏思惟像 スワート出土 砂岩 2~3世紀 マトゥラー博物館蔵
写す方向にもよるのかもしれないが、私にはガンダーラの作風というよりもマトゥラーの作風が色濃くみえる。
釈迦菩薩半跏思惟像 出土地不明 片岩 3~5世紀 竹林寺蔵
こちらはガンダーラ彫刻に近い顔つきだが、どうもガンダーラ仏と思えない体つきだし、瞑想しているにしては過度の動きのある表現に思える。そして左肩の着衣は他のガンダーラ仏に見られない襞である。
釈迦菩薩半跏思惟像なのだろうが、どちらもガンダーラ彫刻とは思えないところがある。自分の勉強不足を思い知った。

※参考文献
「ガンダーラ美術の見方」(山田樹人 2001年 里文出版)


2007/11/16

半跏像は弥勒菩薩とは限らない



インドやガンダーラに菩薩半跏像はなかった。
『カラー版日本仏像史』は、朝鮮半島や日本の作例は、造形的にも中国6世紀代の河北や山東で隆盛した半跏思惟像との共通性が強く、こんにち安易に弥勒菩薩と称している半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれていると思われるという。
中国の仏像をみてみよう。

菩薩半跏思惟像 北斉時代(550-577) 石灰石・彩色・金箔 清州市龍華寺遺跡出土 清州市博物館蔵
菩薩としか解説にない。弥勒菩薩と特定しないようになってきているのだろうか。
如来半跏像 河北省邯鄲市北響堂山石窟北洞中心柱北面 北斉 石造
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、北面龕中尊像は通肩に袈裟をまとい、蓮華座から右足を組み上げて坐る姿で、如来像が片足踏み下げの姿をとるのは珍しい表現であるという。

私も仏半跏像は初めて見た。
敦煌莫高窟にはもう少し遡る菩薩半跏像がある。

敦煌莫高窟第257窟菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
上の方を見上げて撮影された写真なので、台座がなくても右膝下の布の出っ張りがある。このように膝の形がわかるようにぴったりで、その下に余り布が出るような服装があったのだろうか。『中国石窟 敦煌莫高窟1』の解説(中国語のため意訳)には、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すとのみ書かれている。
敦煌莫高窟第275窟菩薩半跏像 北涼(420-439) 塑造
敦煌莫高窟で現存最古の北涼時代の石窟にも菩薩半跏像が1体ある。275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、双菩提樹龕に坐している。同書によると、
闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現している。双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿である
という。私はこの窟を見学していて、日本にも留学したことのある莫高窟専門ガイドの丁さんが「弥勒菩薩」と説明してくれたように思うし、私自身もそれに何の疑問も感じなかった。敦煌では半跏思惟像は弥勒菩薩であるとみなしているようだ。これが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏がいうところの、野中寺の菩薩半跏像の銘文に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、日本や朝鮮半島にとどまらず中国や欧米所在の作品にまで及んで定説化しつつあるということなのだろうか。敦煌よりも西、天山南路中央に位置するキジル石窟の壁画をみてみると、

キジル石窟第110窟正壁仏伝図「宮中娯楽図」 6-7世紀
『中国新疆壁画全集 克孜爾2』の解説(中国語のため意訳)は、太子はその座に坐しという。

これが半跏像かどうか確かではないが、交脚か結跏趺坐が一般的なキジル石窟では、半跏像に近いと思われる。そして、半跏で坐しているのは弥勒ではなく、シッダールタ太子である。
キジル石窟第114窟「一切施王本生図」壁画 4世紀中-5世紀末 
『中国新疆壁画全集 克孜爾1』は、隣国国王が台座の上に坐っているという。

これが半跏像か確かではないが、半跏像に近い坐り方をしてるのは、国王だった。
このように、キジル石窟では弥勒半跏像はなく、半跏に近い坐り方をしているのは、国王あるいは太子などの世俗の人々だった。このことは、石松日奈子氏のいう、半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれているということなのだろう。

※参考文献
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編著 1999年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影-」 2007年 MIHO MUSEUM 


2007/11/14

弥勒菩薩は半跏像ではなかった




野中寺の菩薩半跏像に刻まれた銘文にある丙寅年(666)という制作年代に疑問の目を向けられているが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏は、大正7年に大阪・野中寺で発見された銅造菩薩半跏思惟像の台座に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、こんにち日本や朝鮮半島にとどまらず中国や欧米所在の作品にまで及んで定説化しつつある。  ・・略・・  この銘文を根拠として他の半跏思惟像すべてを弥勒菩薩と断定するわけにはいかない。とくに、朝鮮半島や日本の作例は、造形的にも中国6世紀代の河北や山東で隆盛した半跏思惟像との共通性が強く、こんにち安易に弥勒菩薩と称している半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれていると思われると、菩薩半跏像が弥勒であることが通説となっていることの発端もまた、野中寺の菩薩半跏像の銘文だとしている。
私はといえば、「菩薩半跏像」または「菩薩半跏思惟像」と書いてあるものを疑問を感じることもなく「弥勒」として見ていたように思う。疑問に思ったとしても、何故弥勒を省略するのだろうくらいだった。
そういえば、最近は書籍や展覧会の図録などで、「弥勒半跏像」と明記されることは少なくなったように思う。ひょっとすると「菩薩半跏像は弥勒ではない」というのがすでに定説になっているのかも知れない。

では、たしかにこれは弥勒菩薩像であるというのはどのような像だろうか。
『仏教美術のイコノロジー』で宮治昭氏は、インドでは過去七仏と菩薩像1体を並べた作例が多く、その菩薩像は釈迦を嗣ぐ弥勒菩薩に相違ない。
インドの弥勒菩薩の図像は、歴史的に、頭髪を結う行者的タイプと、冠飾をつける王者的タイプとに分かれ、しかもこの2つのタイプは、釈迦菩薩や観音菩薩のタイプと対応しつつ、展開を見せるのである。 
行者的イメージと王者的イメージという二項対立は、実は菩薩像だけでなく仏像の造形とも関係し、仏教美術の展開を考える上で大きな視点となる問題でもある。 
インドでは釈迦菩薩のほかに、弥勒菩薩と観音菩薩の造形がクシャーン朝時代以来行われ、この両菩薩の造像がとりわけ盛んであった。  ・・略・・  弥勒菩薩と観音菩薩の占める比重は大きく、仏三尊像の両脇侍にこの2菩薩を配することがガンダーラ美術以来見られる。
弥勒菩薩像が最初に造形されたのは、クシャーン朝時代(1~3世紀頃)のガンダーラ美術においてであった。現在のパキスタンにおいてであった。現在のパキスタンのガンダーラでは単独の仏陀像と並んで、菩薩像も数多く造られている。それらの菩薩像はいずれも首飾り・腕飾りなどの装身具をつけるが、  ・・略・・  束髪・髻型、持水甁の菩薩像  ・・略・・  が弥勒菩薩像であることは、カニシカ1世の銅貨に表された在銘弥勒像(但し銘ではマイトレーヤ・ブッダ、弥勒仏とある)、および過去七仏と並置された弥勒菩薩像が、束髪型もしくは髻型に髪を結い、手に水甁を持っていることから証明される
という。

過去七仏と弥勒菩薩 パキスタン、ガンダーラ出土 2-3世紀 ペシャワール博物館蔵
『パキスタン・ガンダーラ彫刻展』図録の解説は、ガンダーラでは過去七仏に加え、将来この世に降下して衆生を救うとされる弥勒菩薩を組み合わせて並置する作例がいくつか知られている。弥勒は七仏の右あるいは左端に置かれるのが普通である。この作品の場合、向かって左端に束髪で水甁を執る弥勒菩薩像が立つという。

確かに弥勒菩薩であるが、立像として表されている。ガンダーラとは遠く離れて、中国で五胡十六国時代の北涼の領土で発見された、いわゆる北涼塔と呼ばれるものの胴部の八面に過去七仏と弥勒菩薩像が1体ずつ表されている。それは仏7体が坐像で弥勒菩薩が交脚像として表されている。弥勒菩薩立像 インド、マトゥラー、アヒチャトラー出土 ニューデリー国立博物館蔵
一方、マトゥラーで表された弥勒もまた立像である。

『仏教美術のイコノロジー』は、マトゥラーの弥勒菩薩は、ガンダーラの弥勒菩薩と同様に、耳飾りや首飾りなどの装身具をつけ、左手に水甁を執っている  ・・略・・  仏陀に準ずる者としての求道性・超世俗性を反映し、肉髻をつけないことによって仏陀と区別しているという。
インドでは仏像は結跏趺坐像か立像であらわされている。『インド・マトゥラー彫刻展』図録に、頭部・両腕は欠損しているが、本像と非常に似たマホーリー出土の菩薩立像(ニューデリー国立博物館蔵)が2世紀ということなので、本像も2世紀としておく。 仏三尊像 ガンダーラ、サハリ・バハロール出土 3-4世紀 ペシャワール博物館蔵
『パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録』は、・・略・・ 左脇侍菩薩は、束髪で、右手を肩の高さにあげ、手の甲を正面にむける。右脇侍菩薩は、ターバン冠飾をつけ、左手に花綱を持つ。左脇侍は左手を失うが、水甁を執る弥勒菩薩であったろう。また、右脇侍は観音菩薩とみてよいという。

宮治昭氏が先述した仏三尊像の組み合わせである。 弥勒菩薩交脚像 アフガニスタン、ハッダ出土 ストゥッコ 3-4世紀 フロランス・マルローコレクション
『アフガニスタン 悠久の歴史展』は、二重の首飾りと上腕に豪華な飾りをつけ、左手に水甁をもつ姿は、弥勒菩薩である。人差し指と中指で水甁の首を挟む持ち方はガンダーラの弥勒菩薩と同じである。足先は失われているが、両足首を交える交脚に坐しているという。

やっとここで交脚像の弥勒菩薩が現れた。このように、インドやパキスタンという仏像の源流から弥勒菩薩像をたどってみたが、立像と交脚像はあったが、半跏像はなかった。半跏像はどこから出てきたのだろうか。

※参考文献
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「仏教美術のイコノロジー」 宮治昭 1999年 吉川弘文館
「アフガニスタン 悠久の歴史展図録」 2002年 NHK
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」 2002年 NHK
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 2002年 NHK


2007/11/12

野中寺(やちゅうじ)の弥勒菩薩半跏像は



野中寺の弥勒菩薩半跏像は、当時のものとしては珍しく銘が刻まれた仏像である。
『日本の美術455飛鳥白鳳の仏像』は、飛鳥白鳳の半跏思惟相の菩薩像が弥勒菩薩として造像されたことは、666年の野中寺像に「弥勒御像」と刻銘されていることで明白という。  ところが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏は、朝鮮半島や日本では6-7世紀の作例が多数存在するが、一般的に「半跏思惟像=弥勒菩薩」とみなす傾向が強い。朝鮮半島では三国時代を中心に弥勒信仰が隆盛し、とくに新羅では「花郎(ほあらん)」と呼ばれた青年戦士に対する救世イメージが、未来仏である弥勒の信仰に結びついたと考えられている。しかし、銘文に「弥勒」と記された半跏思惟像は見あたらず、花郎と弥勒の関係はあったとしても、弥勒と半跏思惟像、あるいは花郎と半跏思惟像においても広隆寺宝冠弥勒像、中宮寺如意輪観音像、四天王寺救世観音像など、こんにち伝えられた尊名は一様ではない。ところが大正7年に大阪・野中寺で発見された銅造菩薩半跏思惟像の台座に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、  ・・略・・  しかし、野中寺像については銘文中の用語や語法の不自然さ、文字が鍍金仕上げ以後に刻まれた可能性などが指摘され、銘文の評価については意見が分かれているという。

京都市立芸術大学の礪波恵昭氏は「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」で、その銘文には難解な部分も多く、その解釈をめぐって様々な論考が発表されており、古代彫刻史の論点の一つとなっている。発表者は、諸先学の研究をふまえつつ、特に技法・様式について詳細に検討を加え、本像の位置づけを試みてみたい。
まず、技法面では、装飾文様に魚々子鏨を使用しない点に注目する。白鳳期の金銅仏には着衣や装身具などに魚々子鏨で装飾文様をあらわす作例が多く見られるが、本像の装飾文様には魚々子鏨が全く使用されていない。魚々子鏨を用いると簡便かつ鮮明に表現できるように思える箇所でも、通常の鏨を用いて彫りあらわしており、白鳳期の作とみなすときわめて異例である。
様式面では、とくに顔貌表現に注目する。目鼻立ちを顔いっぱいに大きく表し、曲面による構成を生かした顔貌表現が本像の特徴であるが、666年前後に流行した童顔の様式とは大きく異なる
という。

他にも、銅板鍍金の別材製とする点や、頭飾の表現などで検証していて、
本像は銘文から比定される666年の制作と考えると技法・様式など多くの観点できわめて異例であり、制作年代を再検討する必要があると思われる。具体的にその年代を考察すると、技法・様式から白鳳期の末期、つまり7世紀末から8世紀初頭を遡り得ない、との結論に達したという。そうなると、この弥勒半跏像が丙寅年(666)であることを前提として、法隆寺献納金銅仏の156号や157号の制作時期を推定する時の基準になってきたことがくつがえされるのではないのだろうか。
まず、156号の丙寅年を野中寺の菩薩半跏像が666年であるとして、作風からそれよりも60年古いものとされているのが変わってくるのではないだろうか。また157号が野中寺より下がるだろうと言われているのも、実際は8世紀初頭以降のということになるのではないか。

また村田靖子氏は「小金銅仏の裳の縦状文様について-野中寺菩薩半跏思惟像との関連-」で、野中寺の弥勒菩薩半跏像が菩薩像としては唯一、同様に両脚部に文様を施している。

野中寺像を初唐の影響をいち早く受けた(岩佐光晴「野中寺弥勒菩薩半跏像について」『東京国立博物館紀要』27 号1992 年)斬新な像と考えれば、あるいは今は失われた初唐の菩薩あるいは半跏思惟像の中に先例があったかも知れない。その傍証としては隋時代の石造菩薩立像の中に野中寺像と同様な半切形の連珠円文の意匠を持つ帯状飾りを腰から下げているものがあることが挙げられるという。
野中寺の半跏思惟像の特異性を初唐の影響と見ているようだ。 野中寺は「のなかでら」ではなく「やちゅうじ」という読み方をするので、その名前は印象深く覚えているのだが、このような他の仏像の制作年代にまでかかわる問題を抱えていたとは。

※参考文献
「日本の美術455 飛鳥白鳳の仏像」 松浦正昭 2004年 至文堂
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社

2007/11/09

法隆寺献納金銅仏155号は



法隆寺献納金銅仏155号の菩薩半跏像は『法隆寺献納金銅仏展図録』に、飛鳥時代の小金銅仏中抜群の出来栄えと評価されている。
細かく鏨で穿たれた宝冠と頸飾りの文様、組紐を表したと思われるこめかみ飾りや腰紐。肩にかかる蕨手(わらびて)にも刻線で何かがあらわされ、留め金か玉のようなものがある。  同書に止利様式の菩薩像に共通する特色を示しと書かれているように、このような蕨手は、止利仏師の代表作とされている法隆寺金堂の釈迦三尊像の脇侍の肩にも見られる。蕨手だけでなく、155号はこの脇侍菩薩によく似ている。
そして、法隆寺献納金銅仏の他の菩薩半跏像が上半身に衣服を着けていないのに、この像だけが服を着ているのは、救世観音として造られたからなのか。
脇侍菩薩もまた上半身に衣服を着けている。155号が頸飾の下の衣の線が少し違っているのは、脇侍菩薩よりも後に造られためだろうか。 法隆寺には、もう1体、155号によく似た菩薩立像がある。

『国宝法隆寺展図録』は、大ぶりの三山冠をかぶり古拙の微笑を浮かべる本像は、止利仏師作の金堂釈迦三尊像の両脇侍とよく似た形を示すという。
この像も上半身に衣服を着けていて、こちらの方が金堂の脇侍の胸元に近い。そして、欠損しているが、この像の蕨手も、肩の部分が宝珠のようになっている。金堂の脇侍菩薩及びもう1体の菩薩立像も上半身に衣服を身につけているのだが、155号の菩薩半跏像がこれら2体と大きく異なっているのは、袖である。二の腕あたりが細くて、袖口が広くなった衣をまとっていて、それが柔らかい感じがする。
そのような衣を着けた像をどこかで見たはず・・・ そうだ、麻耶夫人像だ。『法隆寺献納金銅仏図録』の中に含まれる「麻耶夫人及侍者像」という群像の中の1体だ。

この麻耶夫人の動きを、広袖の衣を左衽(おくみ)にまとって裳をつけ、腰を右に捻り、右手を無憂樹の枝に触れようとする姿勢で、袖口から合掌する釈迦牟尼が上半身をあらわしている。
面長の頭部で表情はやや厳しく、衣文も単純化された曲線であらわされているが、一種独特のねばりと鋭さがあり、止利様式の作品と共通するところがあるという。
155号の方が二の腕部分の袖は細いが、袖口だけ極端に広がっている点では共通している。 このように、155号の菩薩半跏像は、止利様式の作品のなかでは、菩薩立像のように厳格な構成ではないが、細かいところまできっちりと表現されたね独特の思い入れのある像だと思う。

※参考文献
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館
「国宝法隆寺展図録」 1994年 NHK