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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/10/30

敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2


そのような肌や暈繝はどのように変遷していったのだろう。以下の丸数字は前回の『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』からの引用の数字です。
それについてはこちら

北涼時代(421-439年)
275窟 菩薩頭部
太い隈取りが目を囲んで鼻の脇から頬の下を通り、耳の手前まで延びている他には顔の輪郭に沿った細い線と顎の先の丸みのある線などが顔には見られる。
下図の鼻筋が額と別になっているのは、何かで⑨鉛白の上に鼻が高く見えるような照り隈を施してしたからだろう。
『中国石窟敦煌莫高窟1』は、西域的な暈繝法が施されるという。
仏教東漸の時代、西域から伝わった最新様式が採り入れられたのだ。
キジル石窟77窟の伎楽天(3世紀末-4世紀中)や、トユク石窟41窟の仏立像(高昌郡ないし高昌国期:327-640)は、色彩変化が敦煌莫高窟よりも進んでいないため、隈取り自体はほとんどわからない。また、どちらの窟も顔に傷があるので、顔の細部はわからない。トユク石窟の方は、顔の輪郭に隈取りが少し現れている。
そういえば、以前にキジルとトユクの暈繝について書いていた。それを見ていると、キジル石窟では、時代が下がっても、暈繝法は同じだ。
その記事はこちら
どちらの窟も下の275窟の変化の少ない箇所と比べると分かり易い。
『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』に記載された顔料の種類から、肌の色は⑨鉛白だが、鉛白だけでは真っ白になるため、下地に薄く⑧水銀朱を塗った上に⑨鉛白を塗って肌色にしていたのだろうか。
その上に⑧水銀朱をぼかして塗り、輪郭や胸などの筋肉、顔に立体感を出していたようだ。
このような図を見る限り、鼻筋は通っているが、額と異なった色になっているようにも見えない。
北魏時代(439-534年)
251窟菩薩頭部
隈取りを施す部分は北涼時代とほぼ同じだが、北涼時代には目から頬に一筆書きのように太い隈取りを入れていたが、北魏になると隈取りは目から鼻の脇を通って顎に達するようになる。
上図と全く同じ菩薩の画像。
鼻や目には白い照り隈(ハイライト)がはっきりと残っている。この顔料は変色していないので、⑤のカオリンだろうか。
やはり下地に⑧水銀朱、その上に⑨鉛白を塗って肌色にし、さらに隈取りとして⑧水銀朱を塗っていたのだろう。この図は⑧水銀朱の隈取りの濃淡までよく残っている。
西魏時代(535-556)
285窟脇侍菩薩頭部
『中国石窟敦煌莫高窟1』は、頬を染める暈繝法を採っているという。
ここで北涼・北魏の西域様式とは異なった暈繝法が出現した。都の長安で流行していたものが敦煌にまで西漸してきたのだろうか。
『中国の仏教美術』は、この天井および、西壁を除く北、東、南各壁は白地に、細面の天人や菩薩が、天衣を長くなびかせ描かれている。これは漢民族士大夫の美意識にかなった「秀骨清像」と評される様式であるという。
やっぱり中原の様式で描いていたのか。
同書は、西壁は地が赤く、人物像は立体感を出すため暈取り(くまどり)が施されている。下地が赤く、暈取りを用いるのは、インドの絵画に比較的近い技法であるという。
285窟は中原と西域の暈繝法双方で窟を荘厳する、国際色豊かな石窟だった。
伏斗式天井に浮かぶ飛天 
敦煌莫高窟の飛天の中で一番気に入っているのが285窟のものだ。今まで気づかなかったが、よく見ると頬が少し赤くなっている。
肌の色も地の色も白いままなのは頬に⑧水銀朱を使っていないからだろうか。
北周時代(557-581年)
ところが北周になると、隈取り法は西域風にもどっている。
北周時代末隋初期(6世紀末)
同書は、顔面の暈繝法に新たな様式が出現する。それは小さな円状のものであるという。
頬と顎の丸い輪っか状の隈取りはどんな効果を生んだのだろう。鼻には照り隈が見られる。西域様式の系統かな。
残念ながら、この時期の窟は301窟だけで、このような図版しかなかった。如来像が隈取りの変化していないものだとしても、中央に縦線が走っていたり、顔面に青色が付着していたりして、本来の顔がわからない。
脇侍菩薩は、鼻筋の白が残っていて、隈取りの頬の輪っかがよくわかる。
隋時代(581-618年)
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、隋代は美術の統一があり、一番重要なものは暈繝法の刷新である。暈繝法は人物の造形と彩色の重要な方法である。
敦煌壁画は早くから暈繝法が二つあった。一つは西域式で、明暗で立体感を表す。この方法は淡肉色を塗り、その後起伏のある部分に重ねて塗り、鼻や眉稜などのような最も突出している部分には白粉でハイライト、照り隈を表す。これは凹凸法ともいう。もう一つは中原式暈繝法で、瞼や鼻、頬の突出している部分には臙脂や赭紅色を塗る方法である。

隋代にはこの二つの様式を折衷して絶えず新しい様式を模作した。その様式は4つある(字面で解釈)という。以下の分類は同書より。

1:凹凸法による重ね塗りと中原の伝統様式が結合した暈繝法

額から鼻梁、目、頬、口の周りに白い照り隈をつけたか、その部分を除いて赤く塗ったかだろう。
302窟人字坡窟頂部
上の本生図では頬、目、輪郭に隈取りが黒く、その他の部分が白くなっている。下の飛天は目、頬、窟頂の周囲、額から鼻にかけて白くなっていて、1類に該当する。
どちらも描いた当初の顔を想像することはできない。
2:中原の伝統的な暈繝法と西域の重ね塗りを結合させた暈かし塗り
何度も重ね塗りをしている。輪郭周辺には暈繝はない。眉稜、鼻梁、上瞼、下顎と頬に2-3層の重ね塗り、西域で好まれたハイライトを施した高い部位にはさらに紅色を加えるという。1よりは自然な暈繝法となっている。 
420窟西壁龕内北側供養菩薩
1と逆のような暈繝法で、⑧水銀朱をぼかしながら何層も塗り重ねていったことがよくわかる。
420窟東壁門上説法図中比丘図
変色していない像では目の周りがほんのりと紅色で、肌色のところに黒く変化した箇所が見られる。
やはり⑧水銀朱の下地に⑨鉛白を塗って肌色にし、その上に淡紅色のぼかしを塗り重ねていったようだ。このぼかしは⑥ベンガラを使ったのだろう。
3:中原の発展した暈繝法
人物の両頬、上瞼、下顎に赤い色をつけて一定の立体感を表す
①暈繝自体に暈かしはみられない
404窟西壁龕内南側菩薩像
『敦煌莫高窟2』は、肌に重度の変色が見られる。ただし、輪郭線は細かい暈繝的な変化がある。人物の造形には魏晋以来の清秀的特徴があるという。
この像も「秀骨清像」にかなっていることを言っているのだろうか。
変色してしまうと唇以外はわからない。西域的な⑧水銀朱で隈取りするという方法ではなくなり、⑧水銀朱の上に⑨鉛白を塗って肌色にし、頬などに異なった顔料を使ったが、とんでしまったように見える。
尚、宝冠や瓔珞、頭光の外縁には金箔が貼られているが、瀝粉堆金かどうかは不明。
瀝粉堆金についてはこちら
②暈繝の中央を濃く、端を薄く暈かす
これは初唐の57窟の菩薩像などに見られる暈繝とよく似ている。
394窟西壁北側菩薩
髪の生え際と頬がほんのり紅くなっているように見える。
おそらく⑧水銀朱の地に⑨鉛白を塗って肌色にし、頬などには⑥ベンガラをぼかして上塗りしたのだろう。
4:何も塗らず、暈繝を施さない。上の2.3が隋代の代表的な暈繝法という。
57窟の観音菩薩や阿難に見られるような優美な暈繝法は、3の②で、西域のように立体感を出すことを求めなくなっていたのではないだろうか。
そのような暈繝法やはり中原から請来されたもので、隋時代にほぼ完成していたようだ。

関連記事

敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1
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日本でいう隈取りとは
トユク石窟とキジル石窟の暈繝?
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敦煌莫高窟3 57窟、観音菩薩の宝冠に瀝粉堆金

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道2 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書

2012/10/26

敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1

日本で暈繝というと同色の濃淡を重ねたものをさすが、中国では暈繝ではなく暈染で、隈取りも含まれている。
敦煌莫高窟を見学していると、暈繝法が時代によって異なっているのがわかってきた。

観音菩薩・阿難ほか 敦煌莫高窟57窟南壁説法図東側 初唐(618-712)
観音菩薩よりも、内側の阿難の方が瞼と頬に薄紅色をよく残している。
『中国石窟 敦煌莫高窟3』は、淡朱色の暈繝がある(中国語を字面で訳)という。
観音菩薩は、肌の上に施したうす紅色の暈繝が残っている。左の菩薩は肌そのものが灰色に変色しつつあり、暈繝はわからない。阿難の方が暈繝がよく残っており、体は部分的に変色が始まっている。
敦煌莫高窟は初期窟では西域の影響が見られるが、時代が進むと中原の様式を逆輸入するようになる。
比丘・菩薩像 同窟北壁中央説法図
その変色が進むと、黒みが増していく。頬や瞼に暈繝の痕跡はない。
ところが、初期窟の暈繝は、初唐期のそれとは全く異なっている。
『シルクロード第2集敦煌砂漠の大画廊』は、428窟南壁「説法図」、6世紀中頃北周時代の窟だが、この壁画の諸像は、いずれも太い黒い線で縁どられている。そして、野太い輪郭線のなかに眼鼻は白く太く描かれており、きわめて野性的である。
この画が、今世紀初頭世界に初めて紹介されたとき、それを見た人びとは一様に驚いた。ちょうど当時、世界を風靡していたマチス、ルノオらのフォービズムを見るようであり、千数百年たってもなお新鮮な画法である、というのであったという。

北周の窟だけでなく、敦煌莫高窟で残っている最も古い窟の一つ、272窟の壁画にも、臙脂ような暈繝の太い線が見られる。

飛天・楽人・菩薩像 272窟西壁及び天井
目は白いように見えるが、鼻筋の白いのはわからない。
それにしても、ラテルネンデッケの天井には、重くてお腹から落ちてしまいそうな天人がのびのびと両腕を広げ、天井から壁面への移行部にある小さな龕の天人たちは思い思いの姿勢で立ち、辺りを見回している。なんとも楽しそうな、笑い声が聞こえてきそうな壁画である。
この絵を知ったのは、1980年に放送された同名のNHK特集だった。当時敦煌莫高窟で知っていた壁画といえば観無量寿経変図など変相図くらいのもので、それも白黒写真か描き起こし図だった。
そんな頃に、同書に描写されている太い線の目立つ壁画をカラーで見たために、以降は経変図などは頭から抜けてしまった。
10年前に初めて敦煌莫高窟を訪れた時、最初に見る唐時代の数窟に経変図が描かれているのを見て、若い頃に勉強していた敦煌莫高窟の壁画はこのようなものだったのかと、遠い記憶が蘇ってきた。

それくらいインパクトのある初期窟の暈繝の変色について、同書は変色していないものと比較を行っている。

左:272窟西龕の菩薩 北涼(421-439)
右:263窟南壁「説法図」の菩薩 北魏(439-534)
同書は、この初期の窟の画法の秘密を解く鍵は、263窟で見つかった。11世紀の西夏の時代の千仏を描いた壁画の下から、もう一枚別の壁画が現れた。研究所の判定で、それは428窟より古い北魏時代のものであった。そして、そこに描かれた菩薩像は、淡紅色のぼかしの技法で縁どられた優美なものであった。428窟の黒い輪郭線は、外気との触れ合いで、この淡紅色のぼかしが化学変化を起こし、変色した結果だというのである。
272窟西龕壁の菩薩像も黒い太い輪郭線で縁どられている。これも変色の結果だという。それは、263窟の菩薩とほぼ同時代のもので、しかもほぼ同形、同意匠である。263窟の淡紅色の肌のぼかしが変色すると272窟のようになるという。
しかしながら、黒い線に縁取られた菩薩の顔や姿から、描いた当時はどのようであったか想像するのは至難の業。初期窟では、変色したものとわかっていても、太い輪郭線の目立つ古拙な様式で描かれたものと感じながら窟内を見て回ったのだった。
敦煌莫高窟では、北涼から北魏時代のぼかし、つまり暈繝は、初唐期のように肌の上にぼかした頬紅を重ねるのではなく、輪郭や顔・体の起伏のある箇所に黒く変化する淡紅色の顔料をぼかして描くという、全く異なる暈繝法を用いている。

彩色にはどのような材質を用いていたのだろうか。
『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』は、莫高窟の壁画には、どのような顔料が使われていたのであろうか。常書鴻さんが1951年に『文物』に書いた「漫談古代壁画技術」という論文のなかで表示されているので、それを掲げよう。(黒字は私の解釈です)
第1類・鉱物質(直接使用するもの)
①朱砂                    変色しない  辰砂
②石青                    変色しない  ラピスラズリ
③石緑                    変色しない  孔雀石
④石黄                    変色しない
⑤高岭土(カオリン、上質の白陶土)  変色しない
⑥赭石                    変色しない  ベンガラ
⑦烟炱(煤)                 変色しない
第2類・人工顔料
⑧銀朱(硫化水銀)            鉛粉に触れると黒色になる  水銀朱
⑨鉛粉(アルカリ性炭酸鉛)        時間がたつと鉛色にもどる   鉛白

⑤のカオリンには驚いた。磁器の胎土に使われるものではないか。
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、南北朝時代、白磁が製造されるようになり、製磁業は新しい発展段階に入った。白磁を焼くのには純白の土をもちいなければならず、白陶土(カオリン)の鉄含有率を1%以下にまでしなければならなかったという。
当時すでにカオリンは大量に使われていたので、それを顔料として使うことなど大したことはなかっただろう。
朱砂ということばは王さんがよく口にしていた。しかし、変色しない①辰砂と、黒く変色する⑧水銀朱はどう違うのだろう。水銀朱の別名が辰砂で、硫化水銀のことだと思っていた。ここではとりあえず、変色するものは⑧水銀朱ということにしておこう。

初唐期の57窟では、菩薩の肌全面の下塗りに⑧水銀朱を使い、⑤カオリンで上塗りすると淡い肌色になる。そして経年変化でカオリンが剝がれてきたために、下塗りの⑧水銀朱が外気に触れるようになり、酸化して黒っぽくなっていったということだろうか。
頬や上瞼に⑥赭石をぼかして塗るのは現在の頬紅のようだ。頬紅をぼかしてつけるという化粧が中原に生まれ、それが仏像にも施されるようになって敦煌まで伝播してきたのだろう。

そして、北涼から北周時代に行われた淡紅色のぼかしはやはり⑧水銀朱で、⑨鉛白を塗った白い肌の上に淡紅色のぼかしを施して立体感を出していたのではないだろうか。
それはキジル石窟で見たような、白い体の輪郭線を濃い赤で描き、段々ぼかして立体感を出すという技法を採り入れていたということになるだろう。

関連項目
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
トユク石窟とキジル石窟の暈繝?
日本でいう暈繝とは
日本でいう隈取りとは
隈取りの起源は?

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道2 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書
「図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社

2012/10/23

敦煌莫高窟3 57窟、観音菩薩の宝冠に瀝粉堆金



『敦煌の美と心』は、第57窟は伏斗式方窟で、西壁の仏龕に如来坐像と二仏弟子・四菩薩を安置しているという。
残念ながら龕内の塑像は清代の重修なので、あまり採り上げられることはない。
また、西壁の龕外側の壁画も、残念ながら変色が激しい。
そうなると57窟の見るべきものは南壁の樹下説法図、それも観音菩薩ということになってしまう。

南壁の仏樹下説法図は、双樹、宝蓋のもとで結跏扶坐する如来仏を中心に菩薩が描かれているという。
説法する釈迦の両脇に年長者の迦葉と一番若い阿難、その両外側に脇侍菩薩が立っている。
しかし、両脇侍を観音・勢至とする本が多く、その場合中尊は阿弥陀如来となって、迦葉・阿難を従える釈迦如来と矛盾するように思うが、『中国石窟 敦煌莫高窟3』も主尊を阿弥陀とし、左右に侍するのは迦葉・阿難、続いて観音・勢至として、それを特に問題にしていない。

それはともかく、樹下説法図は中央の釈迦も顔が黒く変色しているが、全体的に観音菩薩側の菩薩たちの方が白いまま残り、勢至菩薩側の菩薩たちは黒ずんでしまっている。菩薩たちは皆同じような秀麗な容姿に描かれていたのだろうが、現在は観音菩薩が変色せずに残っているために目立つのだ。
描かれた当初は左の勢至も右の観音と変わらない色白の菩薩だったはずだが、経年変化で鉛白が黒く変化してしまっている。両者をを並べてみると、とても同じような菩薩を描いたとは思えない。
『シルクロード2敦煌砂漠の大画廊』は、まるで水彩のようにうす紅色で描かれ、輝くばかりであるという。
中央寄りの阿難の顔には、観音菩薩よりも頬と瞼の赤みがはっきりと残っている。しかし、変色は外側の菩薩は顔にも体にもみられ、阿難の体には部分的に見られ、観音菩薩の両腕にさえ忍び寄っている。
分厚いガラスを通して、小さな菩薩像がまとった金色の装身具に目を凝らすと、それが平面ではないことに気が付く。
特に金冠は、その等間隔に配された凸の点々が打ち出し列点文を表しているようだ。冠の中央には微笑むというよりは笑っているような化仏の坐像が描かれ、左右には緑色の色彩が剥落しながらも残っている。それぞれ貴石の象嵌を表しているのだろう。
同書は、その美肌を飾る瓔珞と冠は、金色に彩られている。クローズアップして見れば、それはただ筆で描かれているのではない。宝石と見えるひと粒ひと粒が堆く盛り上がっている。
これが、聞くところの「攊粉堆金(れきふんたいきん)」であった。金粉を漆で固め、一層一層塗り上げていく技法である。常書鴻さんによれば、それは隋の時代にはじまっているが、唐で完成した。なかでも57窟のそれは美しく、しかも完好な形で残っているという。
しかし、『敦煌石窟 精選50窟ガイド』は、体中に飾られた胸飾、碗釧、臂釧などの装身具は、瀝粉堆金(れきふんついきん)という技法で制作し、きらびやかで華麗である。
瀝粉堆金-石膏を細かな泥にし、パイプつきの革袋に入れ、それを絞りながら図案を描く技法を瀝粉という。それを乾燥させ、にかわを塗った上にさらに金泥(金彩)を塗りつける技法は堆金である。初唐から始まり、宋や西夏時代に一般化されたという。
私は瀝粉堆金で「れきふんたいきん」と読み、途中の工程はどちらかわからないが、最後は金箔を貼り付けるのだと思っていた。
瀝粉堆金かどうかわからないが、装身具や千仏の顔が金色のものは隋時代(581-618)にも見られる。

菩薩立像 敦煌莫高窟404窟西壁龕内南側 隋(581-618)
盛り上がりはわかりにくいが、内側の首飾りを見ていると、金箔の四角いものが、首飾りの線からはみ出ている箇所があるので、金箔を貼り付けているのがわかった。
金泥と金箔では輝きが異なる。金箔の方がずっとキラキラと輝いて見える。
暗い石窟内で、小さな照明にも輝くのは金箔だからではないだろうか。

おまけ
阿弥陀如来の坐す蓮台の下には、香炉のようなものの両側に獅子が描かれている。左右対称ではなく、左側の獅子は中央を向いているが、右側の獅子は外側を向いている。
このような獅子はマトゥラー仏やガンダーラ仏にも見られる。元来は主尊を守るために表されたものだろうが、獅子は様々な格好に表されていて、「遊び」の部分が残されているようで、このような獅子の姿を見るのも仏像・仏画を見る楽しみの一つとなっている。
いつかそのような獅子像をまとめたいと以前から思っているが、なかなか実現せずに、今日に至っている。
現在のところ、アップしてるものはクリーヴランド美術館蔵のマトゥラー仏のものだけだった。この像の台座は左側が欠けているが、右側に外側向きの獅子、中央に正面向きの獅子が残っているので、おそらく左側の獅子も外側を向いていただろう。
この残片が見つかって、左側の獅子が寝っ転がっていたとしても驚かない。
このマトゥラー仏の画像はこちら

関連項目
敦煌莫高窟275窟1 弥勒交脚像は一番のお気に入り
敦煌莫高窟の連珠円文は隋から初唐期のみ


※参考文献
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道第二巻 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送出版協会 
「敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド 莫高窟・楡林窟・西千仏洞」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局

2012/10/19

匈奴人の顔2


前回は匈奴が統治していた北涼時代(397-439年)、敦煌莫高窟に開かれた275窟の菩薩像や天人などを匈奴人の顔に当てはめてみた。

今回は他に残されたもので、匈奴人の顔を想像してみたい。
まず、北涼時代に造られた「北涼石塔」と呼ばれているものから見てみよう。

仏塔 五胡十六国時代・北涼、太縁2年(436) 高43㎝底径12㎝ 甘粛省粛州区博物館蔵
『中国国宝展図録』は、北涼(397-439年)は五胡十六国の1つで、現在の甘粛省に興った。中国の西に位置し、中央アジアやインドに近いこの地域から、北涼石塔とよばれる砲弾形の仏塔がこれまでに十数基見つかっている。
塔は、下から基壇、胴部、覆鉢、城塞文の区画、7重の傘蓋、鋸歯文のついた半球形で構成される。相輪は7重、頂部は土饅頭形で表面は周縁部を除いて無文だが、類品には蓮弁文を刻出する例がある。最頂部に穴をうがつ。塔の形状はガンダーラやカシュミールの作例の影響を色濃く示し、七仏と弥勒の組み合わせもガンダーラにはよくみられる。インドと中国の要素が融合し、当時の信仰のあり方をうかがわせる興味深い作である
という。
細長い顔の仏・菩薩が並んでいる。一見、顔の細部まで彫り込んでいないようにも見える。

同書は、覆鉢は、蓮弁の下に8個の龕を設け、7つの龕にそれぞれ禅定印を結ぶ如来坐像、残る1つに交脚弥勒菩薩像を配すという。
この時代の仏は、西方の右肩を出す偏袒右肩か、丸首で、衣文のドレープが幾十にも下に垂れる通肩の衣を纏って表されるが、この仏の服装はそのどちらでもないようで、古拙さを感じさせる。
8体すべて半眼にして下を向いているので、目が出ているかどうか判断できない。しかし、左右の横顔は深目高鼻とはいえない。
八角形の基壇の各面には、男女4体ずつ計8体の人物を線刻する。身なりはインド風であるが、これは中国の易経にある八卦に基づいて配置されており、老若男女の別は説卦伝の記述と一致するという。
頭光が見られ、肩から天衣が身体を巻いているので、天部だと思っていた。
顔は深目高鼻ではないようだ。
高善穆石塔 五胡十六国時代・北涼、承玄元年(428) 高44.6㎝ 蘭州市甘粛省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、高善穆の石塔は1969年に甘粛省酒泉城内から出土した。身部中層は弥勒龕の右隣の仏龕下から銘文が始まり、「高善穆為父母報恩・・・」と題した後に『増一阿含経』の「結禁品」の一説、続けて「承玄元年・・・」云々の発願文を刻み弥勒龕の下で終了する。承玄は匈奴族の北涼王沮渠蒙遜が使用した年号
という。
こちらの方が顔が丸い。
7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかである。なかでも化仏宝冠を載せる弥勒菩薩の図像は敦煌莫高窟第275窟本尊像に共通しており、中央アジア以西には先例が見当たらないため、涼州地域で新たに出現した可能性もあるという。
顔は丸いが、やはりつりあがり気味の半眼で表される。
仏の服装は通肩になっている。
最下層は花や瓶などの供物を捧げ持つ男4人、女4人の計8体の供養天が線刻されているという。太縁2年の石塔の説明にあるように、この供養天は八卦に基づいた図像のようだ。
左の供養天の頭部は、長い髪を部分的に剃り残しており、当時の若い匈奴人の髪型だろう。ではその顔だが、これでは深目高鼻とも偏平とも判断できない。
そう言えば、前漢時代の石彫に匈奴人が表されていたはず。

馬踏匈奴 霍去病墓石彫 陝西省興平市霍去病墓(前117年頃) 高168.0㎝長190.0㎝ 前漢中期(前2世紀)
『世界美術大全集東洋編2秦・漢』は、霍去病墓は武帝茂陵東北1㎞のところに位置する。祁連山をかたどったといわれる墳丘の高は25m、かつてはこの山上に石彫が置かれていたが、現在は茂陵博物館を兼ねる墳丘下に下ろして陳列されている。石彫の数は14点、臥牛、馬踏匈奴のほか、臥馬、躍馬、伏虎、野猪、石人、人と熊の像、怪獣が羊を食う像、臥象、蛙2体、魚2体などがある。
裸の馬が佇立し、馬の下には異貌の武人が仰向けになり、左手に弓、右手に短い矛を持って、前脚のあいだから顔を出しているという。
初唐期の則天武后の母を埋葬する順陵北門に並んだと比べると、顔が大きく、脚が細い。
仰向けの武人は、大きな顔をざんばら髪にして、口髭、頬髭、顎髭を生やし、耳は大きく眼窩はくぼんでいる。霍去病墓の石彫であることを鑑み、匈奴の武士とみなすのが妥当であろうという。
目は凹んで深目かも知れないが、鼻は高くなさそうだ。
ひっくり返して見ると、頬骨が高く、深目高鼻とも思えない。
匈奴と深く関わっていた時代の漢族なら、匈奴人の顔をよく表現しているかと思ったが、これではよくわからない。
それでも深目高鼻ではなかったようには見える。

関連項目
敦煌莫高窟275窟2 菩薩は匈奴人の顔?
動物頭の鹿角は中国の開明に?

※参考文献
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン
「中国国宝展図録」 2004年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館

2012/10/16

敦煌莫高窟275窟2 菩薩は匈奴人の顔?


北涼(397-439年)は五胡十六国のうち匈奴の沮渠氏が建てた国だった。
匈奴は最も古くから中国あるいは中原に侵入してきた騎馬遊牧民で、イラン系かモンゴル系やテュルク系かがまだよくわかっていない。匈奴がどのような顔の民族だったのか、非常に興味がある。
275窟が北涼時代に開かれたのなら、仏像や壁画に表されているのは匈奴人ではないのだろうか。272窟も北涼時代の窟だが、主尊は清時代の重修のため参考にならない。
『敦煌の美と心』は、この像は、まだ中国化されておらず西方的要素を多分にもっているが、顔をみると西域的ではない。
鼻は低く丸い顔に仰月形の唇をもつという。
西域に住んでいたのは、深目高鼻と漢民族が形容した容貌のイラン系の人々だった。
しかしこの菩薩の鼻は高くなく、目もくぼんでいないので、西域の人ではない。当時ここで生活していた有力な寄進者、あるいは支配者の顔を写したものだろう。
一般に、口口民族という場合、その集団が全て同じ民族というのではなく、支配者層がどの民族だったかをいうらしい。そうすると、この顔は北涼を建国した匈奴人の顔とみていいのではないだろうか。
窟の南北壁上段にはそれぞれ3体の塑造菩薩像が闕門龕に交脚の姿で坐っており、北壁東端の菩薩だけが樹木龕に半跏して坐っている。
中段の北壁には本生図が表され、南壁には仏伝図の内「四門出遊」の場面が表される。
南壁の塑造菩薩も主尊と同じように目が出ていて、深目高鼻の西方の顔ではない。
間の菩薩立像は変色しているのでどんな顔かわからない。
(画像に書籍名のないものは、敦煌石窟陳列館で写したものです。以下同じ)
敦煌の古い時代の壁画は変色や褪色のため、描かれた当時の姿をとどめていない菩薩や天人が多く見られる。そのような図を見ても、どんな容貌だったのかを想像するのは困難だ。
当窟の壁画も主尊脇侍や上段の菩薩立像のように変色しているものがほとんどだった。南壁中段の四門出遊図も同様だが、後世に造られた隔壁の痕跡の東側には変色を免れた箇所がありそうだ。
その部分を拡大すると、隈取りがやや見えるものもあるが、飛天の右の1体と伎楽天などが変色が少なく、顔がよくわかる。
その顔はやはり深目高鼻ではないが、漢族でもなさそうに見える。しかし、どの顔も伏し目がちで、主尊や龕内の菩薩のように目が出ているかどうかわからない。
伎楽天の右端の1体は顔の隈取りが現れているが、目は開いているが、主尊の目のように出ているようにも見えない。
その下の天人たちもおなじような卵形の顔に涼しげな表情をしている。特に目が出ているようにも思われない。
下段は南北壁ともに供養者がそれぞれ主尊に向かって並んでいるが、それぞれの顔を確認することはできない。
ひょっとすると主尊や龕内の菩薩などは、目力を表すために盛り上げたので、出ているように見えるだけかも。
このように匈奴人は深目高鼻ではなかったような気がするが、北涼時代の窟に残された菩薩や天人の顔から匈奴人の顔を決めつけるのは強引だろうか。

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※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版社

2012/10/12

敦煌莫高窟275窟1 弥勒交脚像は一番のお気に入り



敦煌莫高窟は南から北へと流れる大泉河の西岸にあり、石窟は明沙山東端の岩壁に南北に並んで穿たれているため、石窟の東側が入口、奥の西壁が正壁となっている。

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敦煌と聞いて日本人が一番に思い浮かべるのは第57窟の菩薩立像だろう。
この菩薩は想像していたよりもずっと小さいために、やや膝を折り気味にして、しかも保護のために前に置かれた分厚いガラスの板越しに見なくてはならない。

観音菩薩立像 57窟南壁説法図脇侍 初唐(618-712年)
『敦煌の美と心』は、右脇侍菩薩は優美な容姿をもち、豪華な装身具で飾りたて、やや頭をかしげて蓮座に立つ。光背は円形で化仏のある宝冠をかぶり、細長の顔にうっすらと紅をさしたかわいい唇と細く切れ長の目、鼻筋の通った秀麗な容貌がきわだつ。
あらわにした上半身からスカートを思わす裙が垂下し、腹部で帯を結ぶ。上半身は瓔珞や胸飾り、碗釧(ブレスレット)で飾り、腹部を連珠文であしらった錦の僧祇支がつつみこむという。
左肩にいる阿難も、右肩に見える菩薩もやはり切れ長の目をしているし、阿難のまぶたや頬には紅をさしているのがはっきりとわかる。
尚、宝冠に化仏があるために観音菩薩とされている。詳しくは後日。
そして第57窟の菩薩立像と並んで代表的なのは第45窟の菩薩立像だろう。

菩薩立像 第45窟西壁大龕七尊像脇侍 盛唐・開元年間(713-741年)
同書は、脇侍菩薩は、頭部をかしげ、腰をひねるという三曲法を用い、大腿部から下は上半身の動的な姿態と異なり直立している。白い肌にくっきりと眉がひかれ、小さな口に紅をつけ、鼻すじがすっきりと通り、切れ長の目をした顔はかすかに笑みをたたえている
裸体の上半身の胸部に瓔珞、腕に碗釧をつけ、左肩から腹部にかけて衣をまとい、肉体にぴったりと纏りついた衣は腹部の前で帯を結ぶ。
菩薩の女性的な容貌と豊満であでやかな姿態が表出していて、文化の爛熟した唐代の開元年間を代表する塑像といえようという。
確かに完成した菩薩の姿かも知れない。
しかし、私の一番のお気に入りは第275窟の本尊、菩薩交脚像だ。

菩薩交脚像 敦煌莫高窟第275窟正壁 北涼(397-439年) 塑造 
莫高窟は、第156窟の前室に墨書された「莫高窟記」によれば、前秦の建元2年(366)、沙門楽僔によって創建されたという。前秦は長安に都をおく氐族の国(『中国歴代帝王系譜』より)
『敦煌の美と心』は、五胡十六国晩期(366-439)の石窟は莫高窟に現存するものの中でもっとも古く、7つあり敦煌芸術の草創期にあたる。その様式は河西回廊の漢晋文化の伝統を受け継ぎ発展させたもので、造営には貴族や漢民族の篤信者があたっている。
ただこの時期の敦煌は、匈奴や鮮卑などの北方遊牧民が支配した「華戎の交わる」都市であり、西域諸国とも交流が盛んであったため、古拙で素朴な漢晋様式のなかにも、明らかに西域の芸術的特色がみられる。
その現存する最古の石窟で見学できるのが唯一この第275窟だ。
両肩をおおう衣は、ギリシア風の鋸歯文(のこぎりりの歯)を刻み緑色で装飾し、裸形の胸には西方文様を思わせる瓔珞や胸飾をつけ、菩薩がつけている羊腸裙は、当時敦煌で流行した服装であるという。
裙だけでなく、表現様式や文様などもすべて当時の最新流行のもので荘厳されたのだろう。

また、後壁は菩薩の左側と下部は当時のままだが、最上部と右側は後の時代の重修なので、妙な印象を受ける。
興味深いことは、本尊は塑像であるのに対し、壁面に脇侍菩薩が描かれていることである。
この妙な獅子の場所に、壁画の菩薩よりは大きな脇侍を置くこともできただろうに、なぜ脇侍をこんなに小さく描くにとどめたのだろう。こういう点も第275窟の面白いところ。
莫高窟の実測図には東入口から入って1/3の所に壁のようなものがあるが、後世に造られたもので、10年前にはすでに取り除かれていた。
窟頂は中国中原地域の木造建築を模しており、中央の両端を切妻形に折りあげた人字坡、すなわち人の字型の構造をしている。
奥行7mの正面に初期における最大の塑像といわれる高さ3.4mの交脚弥勒菩薩像が、人々を迎えるように両手をひろげ泰然と坐っているという。
敦煌莫高窟の受付や食堂のある建物の遙か左(三危山方向)に陳列館があって、様々な発掘資料などの展示と共に、幾つかの石窟のコピーがある。
フラッシュを使わなければ、カメラ・ビデオで撮影してもよいというので、ここも見学したかった。
何故なら、図版ではなく、実際に撮影したもので説明したかったからだ。しかし、その写真を見ると、やっぱり図版にはかなわないことが一目瞭然。明るさが足りない上に、照明の色が実物の色彩を分からなくしている。
それだけではない。目的を持って撮影したはずなのに、その目的に合う写真がとれていなかった。一番ほしかった入口から見た窟内全体の写真と、上下左右の切れていない主尊の写真がなかった。
窟に入って主尊を見ると、実際のものよりも小さい印象を受けた。それは本物の窟には照明がなく、扉口からの光と懐中電灯で見る像と、全体が照明されているコピー窟で見る違いかも知れない。
この獅子もお気に入りの一つ。笑っているような表情が良い。獅子というよりも犬のようだ。
もうかなり前のことだが、平山郁夫氏と東山健吾氏、そして真野響子氏が出演したNHKの『生中継 敦煌』という番組があった。

10年前、敦煌に来る前にその録画ビデオを毎日見ていたが、その度にこの獅子の後肢はどうなっているのだろうと不思議に思ったものだ。この窟を見学できたなら、一番にそれを確かめよう。
そして夢が実現した日、石窟専門のガイドさんの説明を聞きながら、ちょっとした隙にこの獅子の胴体を上からながめ、やっぱり後肢はないことを確かめた。
それにしても、胴体を直接壁と方形台座の隅から出すなんて、造った人は違和感はなかったのだろうか。
次にこちらの獅子にも後肢はないことを確かめた。
実際に石窟を見学しても、見ることはできないが、コピー窟でわかるものもある。
獅子が踏んでいる磚は、石窟では土を被ってよく見えないが、コピー窟では文様も再現されていた。中央に8弁の蓮華文、周囲に雲気文がある。
しかし、コピー窟で見ても、菩薩の裙の文様はわからなかった。

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※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1987年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン