ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2012/10/30
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
そのような肌や暈繝はどのように変遷していったのだろう。以下の丸数字は前回の『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』からの引用の数字です。
それについてはこちら
北涼時代(421-439年)
275窟 菩薩頭部
太い隈取りが目を囲んで鼻の脇から頬の下を通り、耳の手前まで延びている他には顔の輪郭に沿った細い線と顎の先の丸みのある線などが顔には見られる。
下図の鼻筋が額と別になっているのは、何かで⑨鉛白の上に鼻が高く見えるような照り隈を施してしたからだろう。
『中国石窟敦煌莫高窟1』は、西域的な暈繝法が施されるという。
仏教東漸の時代、西域から伝わった最新様式が採り入れられたのだ。
キジル石窟77窟の伎楽天(3世紀末-4世紀中)や、トユク石窟41窟の仏立像(高昌郡ないし高昌国期:327-640)は、色彩変化が敦煌莫高窟よりも進んでいないため、隈取り自体はほとんどわからない。また、どちらの窟も顔に傷があるので、顔の細部はわからない。トユク石窟の方は、顔の輪郭に隈取りが少し現れている。
そういえば、以前にキジルとトユクの暈繝について書いていた。それを見ていると、キジル石窟では、時代が下がっても、暈繝法は同じだ。
その記事はこちら
どちらの窟も下の275窟の変化の少ない箇所と比べると分かり易い。
『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』に記載された顔料の種類から、肌の色は⑨鉛白だが、鉛白だけでは真っ白になるため、下地に薄く⑧水銀朱を塗った上に⑨鉛白を塗って肌色にしていたのだろうか。
その上に⑧水銀朱をぼかして塗り、輪郭や胸などの筋肉、顔に立体感を出していたようだ。
このような図を見る限り、鼻筋は通っているが、額と異なった色になっているようにも見えない。
北魏時代(439-534年)
251窟菩薩頭部
隈取りを施す部分は北涼時代とほぼ同じだが、北涼時代には目から頬に一筆書きのように太い隈取りを入れていたが、北魏になると隈取りは目から鼻の脇を通って顎に達するようになる。
上図と全く同じ菩薩の画像。
鼻や目には白い照り隈(ハイライト)がはっきりと残っている。この顔料は変色していないので、⑤のカオリンだろうか。
やはり下地に⑧水銀朱、その上に⑨鉛白を塗って肌色にし、さらに隈取りとして⑧水銀朱を塗っていたのだろう。この図は⑧水銀朱の隈取りの濃淡までよく残っている。
西魏時代(535-556)
285窟脇侍菩薩頭部
『中国石窟敦煌莫高窟1』は、頬を染める暈繝法を採っているという。
ここで北涼・北魏の西域様式とは異なった暈繝法が出現した。都の長安で流行していたものが敦煌にまで西漸してきたのだろうか。
『中国の仏教美術』は、この天井および、西壁を除く北、東、南各壁は白地に、細面の天人や菩薩が、天衣を長くなびかせ描かれている。これは漢民族士大夫の美意識にかなった「秀骨清像」と評される様式であるという。
やっぱり中原の様式で描いていたのか。
同書は、西壁は地が赤く、人物像は立体感を出すため暈取り(くまどり)が施されている。下地が赤く、暈取りを用いるのは、インドの絵画に比較的近い技法であるという。
285窟は中原と西域の暈繝法双方で窟を荘厳する、国際色豊かな石窟だった。
伏斗式天井に浮かぶ飛天
敦煌莫高窟の飛天の中で一番気に入っているのが285窟のものだ。今まで気づかなかったが、よく見ると頬が少し赤くなっている。
肌の色も地の色も白いままなのは頬に⑧水銀朱を使っていないからだろうか。
北周時代(557-581年)
ところが北周になると、隈取り法は西域風にもどっている。
北周時代末隋初期(6世紀末)
同書は、顔面の暈繝法に新たな様式が出現する。それは小さな円状のものであるという。
頬と顎の丸い輪っか状の隈取りはどんな効果を生んだのだろう。鼻には照り隈が見られる。西域様式の系統かな。
残念ながら、この時期の窟は301窟だけで、このような図版しかなかった。如来像が隈取りの変化していないものだとしても、中央に縦線が走っていたり、顔面に青色が付着していたりして、本来の顔がわからない。
脇侍菩薩は、鼻筋の白が残っていて、隈取りの頬の輪っかがよくわかる。
隋時代(581-618年)
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、隋代は美術の統一があり、一番重要なものは暈繝法の刷新である。暈繝法は人物の造形と彩色の重要な方法である。
敦煌壁画は早くから暈繝法が二つあった。一つは西域式で、明暗で立体感を表す。この方法は淡肉色を塗り、その後起伏のある部分に重ねて塗り、鼻や眉稜などのような最も突出している部分には白粉でハイライト、照り隈を表す。これは凹凸法ともいう。もう一つは中原式暈繝法で、瞼や鼻、頬の突出している部分には臙脂や赭紅色を塗る方法である。
隋代にはこの二つの様式を折衷して絶えず新しい様式を模作した。その様式は4つある(字面で解釈)という。以下の分類は同書より。
1:凹凸法による重ね塗りと中原の伝統様式が結合した暈繝法
額から鼻梁、目、頬、口の周りに白い照り隈をつけたか、その部分を除いて赤く塗ったかだろう。
302窟人字坡窟頂部
上の本生図では頬、目、輪郭に隈取りが黒く、その他の部分が白くなっている。下の飛天は目、頬、窟頂の周囲、額から鼻にかけて白くなっていて、1類に該当する。
どちらも描いた当初の顔を想像することはできない。
2:中原の伝統的な暈繝法と西域の重ね塗りを結合させた暈かし塗り
何度も重ね塗りをしている。輪郭周辺には暈繝はない。眉稜、鼻梁、上瞼、下顎と頬に2-3層の重ね塗り、西域で好まれたハイライトを施した高い部位にはさらに紅色を加えるという。1よりは自然な暈繝法となっている。
420窟西壁龕内北側供養菩薩
1と逆のような暈繝法で、⑧水銀朱をぼかしながら何層も塗り重ねていったことがよくわかる。
420窟東壁門上説法図中比丘図
変色していない像では目の周りがほんのりと紅色で、肌色のところに黒く変化した箇所が見られる。
やはり⑧水銀朱の下地に⑨鉛白を塗って肌色にし、その上に淡紅色のぼかしを塗り重ねていったようだ。このぼかしは⑥ベンガラを使ったのだろう。
3:中原の発展した暈繝法
人物の両頬、上瞼、下顎に赤い色をつけて一定の立体感を表す
①暈繝自体に暈かしはみられない
404窟西壁龕内南側菩薩像
『敦煌莫高窟2』は、肌に重度の変色が見られる。ただし、輪郭線は細かい暈繝的な変化がある。人物の造形には魏晋以来の清秀的特徴があるという。
この像も「秀骨清像」にかなっていることを言っているのだろうか。
変色してしまうと唇以外はわからない。西域的な⑧水銀朱で隈取りするという方法ではなくなり、⑧水銀朱の上に⑨鉛白を塗って肌色にし、頬などに異なった顔料を使ったが、とんでしまったように見える。
尚、宝冠や瓔珞、頭光の外縁には金箔が貼られているが、瀝粉堆金かどうかは不明。
瀝粉堆金についてはこちら
②暈繝の中央を濃く、端を薄く暈かす
これは初唐の57窟の菩薩像などに見られる暈繝とよく似ている。
394窟西壁北側菩薩
髪の生え際と頬がほんのり紅くなっているように見える。
おそらく⑧水銀朱の地に⑨鉛白を塗って肌色にし、頬などには⑥ベンガラをぼかして上塗りしたのだろう。
4:何も塗らず、暈繝を施さない。上の2.3が隋代の代表的な暈繝法という。
57窟の観音菩薩や阿難に見られるような優美な暈繝法は、3の②で、西域のように立体感を出すことを求めなくなっていたのではないだろうか。
そのような暈繝法やはり中原から請来されたもので、隋時代にほぼ完成していたようだ。
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※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道2 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書