お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/01/29

ホケノ山古墳2 石積木槨墳の天井はどっち?

 
ホケノ山古墳は纏向型前方後円墳だ。『有年原・田中遺跡公園の冊子』は、2世紀の有年原1号墳丘墓は、ホタテ貝形で、弥生時代の墳丘墓の突出部が祭祀の場として発達したのが前方後円墳という。纏向型は弥生時代の墳丘墓の発展した形なので、前方部が短く、バチ形に開いている。そのまま前方部をのばして後円部との比率が1:1になったのが箸墓古墳だったと記憶している。

しかしながら『シリーズ遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』で清水氏は、3世紀前後の中国(漢王朝末期から三国・西晋王朝時代にかけて)では、神仙思想が流行する。
中国大陸は西が高く東が低いという地形から、西の最高峰崑崙山には西王母と呼ばれる仙人が、東の海の果てにある蓬莱山には東王父が住んで、その周りに仙人の楽園があるとの考え方があった。
中国の沂南画像石墓に描かれた仙人たちの絵では、西王母や東王父は大きな壺の上に座っている。つまり、崑崙山や蓬莱山は壺の形をした山(もしくは島)であるとの考えである。その考えを知った倭の大王やその身内の者たちは、自分たちの奥津城(おくつき、墓所)に壺の形の墳形を採用するのである。それがバチ形に開く前方後円墳の形になったものだ。そして、最初にとり入れられたのが纏向古墳群の西支群であったと見られる
という。
壺の形とは思いも寄らなかった。清水氏が「西王母の坐る壺」としてあげている例は、沂南画像石墓入口(後漢後期、2-3世紀、山東省)の右下に見られます。
この時期の壺は底部が多少なりとも尖っているけど、後円部が尖っているというのは見たことがないなあ。
纏向型前方後円墳が、弥生時代の墳墓の発展した形ではなく、中国の神仙思想からきた形だったとは。そういえば、当時の信仰がどんなものだったか、考えたことがなかった。 清水氏は、南北に長い石積槨は、全長約10m、幅約6m、高さは現状では1.5mを測り、天井にはいわゆる「天井石」がなかった。石槨内にはおびただしい河原石が充満しており、床面には6個の柱穴があったことから、天井部には丸太か太い板材でもって「蓋」をつくって、その上に大量の小型の河原石をのせたものと考えられるという。
墓壙は深さは半分程度だが、桜井茶臼山古墳に匹敵する規模だ。墳頂部に輪郭だけでも表してあれば、大きさが把握できたのに。

桜井茶臼山古墳は板状の石を面のように積み重ねたものだったが、ホケノ山古墳は河原石を積み重ねた石積槨だ。これはホケノ山古墳が桜井茶臼山古墳よりも古いからだろうか。
葺石や石槨に河原石を使ったホケノ山古墳よりも、それらを使わない石塚古墳の方が一段階古いかと推定されるというので、纏向石塚古墳と桜井茶臼山古墳の間に、ホケノ山古墳が築造されたのだろうか。石塚古墳についてはこちら

ホケノ山古墳は何時造られた古墳だったのか。
清水氏は、箸墓古墳の被葬者について、3世紀後半期に確立した大和政権の初代大王の墓であろうとし、出土土器より、箸墓古墳より、ホケノ山古墳は一段階古い古墳とすることから、ホケノ山古墳は3世紀半ば頃とみているようだ。石野氏も3世紀半ばという。

墓室内に石が充満しているというのは、慶州の積石木槨墳と構造が似ているが、5-6世紀とホケノ山古墳よりも後の時代のものだ。南シベリア(アルタイ地方)のパジリク5号墳は前405年と、年代も距離もかけ離れている。  発掘写真ではよくわからないが、細い4本の柱が木棺と木槨の間にあり、6本の割柱が木槨を内側から支えているように見える。そして短辺の中央に太い柱がそれぞれある。この12本の柱はどのような役目があったのだろう。 清水氏は、石積みのなかに柱を立てて、板を並べた木槨がつくられ、そのなかに割竹形木棺が安置され、いずれも真っ赤な朱が塗られていたという(出土した壺と同じ形の土器を並べている)。
模型図を見ると、木棺の周りの4本の柱は、木棺を固定するために立てられているようだ。 ところが、『遺跡を学ぶ051邪馬台国の候補地・纏向遺跡』で石野氏は、その構造は幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いがあり、そのなかに組合式のU字底木棺を納めていたようだ。そして、板囲いのなかには、板囲いをおさえるための6本の柱とは別に、4本柱と、棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設をおおうような、切妻造りの建物が墳丘のなかに設けられていたのであるという。
切妻屋根とはゴルディオンのミダス王の墓室(前8世紀後半)みたいやなあ。規模はだいぶ違うけど。 ところで清水氏は、ホケノ山古墳は、天照大神をつれて元伊勢をめぐった豊鍬入姫命の御陵とされ、地元での信仰の対象とされたため、大きな盗掘をまぬかれた前方後円墳であるという。それなら副葬品もそのまま残っていたのだろうか。

天井から落ちこんだ河原石がぶつかったためにこまかく割れていたが、直径19.1㎝の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国製の鏡が中央部で見つかった。このほか内行花文鏡のかけらが数片出てきた。
漢王朝(紀元前2世紀-2世紀)の時代には、内行花文鏡や方格規矩鏡など文様に機械的な幾何学文を描いたものが好まれるが、漢帝国末期(2世紀)には神仙思想の流行により神仙そのものをモチーフとした鏡が好まれるようになり、仙人とその守護者である動物を描いた神獣鏡が大流行するのである。その一つが画文帯神獣鏡である。
葬られた権力者は、生前に大切にしていた愛用品の鏡を持って、仙人として蓬萊郷(死者の楽園)へ入ったことであろう
という。
私は古墳から銅鏡が出土するのは、舶来の貴重な品を副葬するほどの権力者だったということと、キラキラ光る鏡が魔除けになったのだろうということくらいしか考えたことがなかった。
品物だけでなく、思想まで入っていたのだ。 清水氏は、もちろん仙人の好むとされる赤色の塊・水銀朱を、棺に入れたり棺内を真っ赤に塗ったりもしている。
初期大和の前方後円墳の被葬者は、大陸文化の影響を十二分に受け取ることのできた人物たちであったことは言うまでもない
という。
水銀朱などの赤い色も、魔除けではなく大陸の神仙思想だったとは。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ035 最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
「シリーズ遺跡を学ぶ051 邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)

2010/01/26

ホケノ山古墳の墓室は斜め

 
ホケノ山古墳は箸墓古墳の近くにある。発掘調査が行われる予定のない箸墓と違って、2000年に、大和古墳発掘調査委員会(会長・樋口隆康橿考研所長)の手によって墳頂部の調査がおこなわれ、後円部中央から石積木棺墓が発見されて大騒ぎをした(『遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』より)。
その上、見学できるように整備されているという。それは是非見に行かねば!

ホケノ山古墳は桜井茶臼山古墳とは約2.5㎞の距離でほぼ南北に位置する。国道165号線から168号線に出て北上。箸墓大池から狭い道に入って回り込む。
箸墓の後円部と家並みの間の道路は更に狭かった。これが「上ツ道」だそうです(同書より)。 ホケノ山古墳の道も狭い上にカーブが多く、探し出せないのではと思うほどだった。三叉路には案内板や矢印がたくさんある。自転車や徒歩で古墳巡りをする人達がいて、この道で間違いないことがわかる。ここで左折して巻向川沿いの道へ。巻向川に沿う道に出たら少しは広くなった。すぐにホケノ山古墳の案内があって迷わずにすんだが、最後の左折がギリギリだった。なんとか曲がるとすぐ右手に駐車場があった。 駐車場を出ると説明板があり、そこからホケノ山古墳が見渡せたが、距離が足らずに左端が切れてしまった。
桜井市教育委員会作成の説明板は、この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる3世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の1つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纏向遺跡の南東端に位置します。
周濠や墳丘は前方部前面が旧纏向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりとしませんが、全長は85m前後と考えています。今回復元している前方部については調査区において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括れ部のデーターを基にして復元したものです
という。 
ホケノ山古墳も自然の地形を利用して築造されていた。それにしても、えらくのっぺりとして盛り上がりの少ない古墳やなあ。
『シリーズ遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』は、全長約80m、後円部径約55m・高さ約8m、前方部長約25m・高さ約2mの「纏向型前方後円墳」である。
纏向型前方後円墳とは、寺沢が提唱した、全長、後円部径、前方部長の比率が3対2対1となり、前方部が三味線のバチ(撥)形に開く前方後円墳のことで、纏向遺跡のなかから出現し、初期の段階で全国に広まると規定した。
ホケノ山古墳の前方部はバチ形に開くものの、その先端部は旧河道によって削られ、正確な数値を測定するまでには至っていない
という。
確かに前方部は端に行くほど広がっている。 古墳を道路が寸断しているとは。おかげで断面の構造が見えるけど。  前方部の一角から見たところ。ここからはもう一つの角がどこにあるのかわからない。  後円部は3段に造られていた。葺石の様子がよくわかるように整備されている。どの石も河原石のように丸味がない。 しかし、墳丘の上まで行ったが、墓室はどこにもなかった。私がホケノ山古墳を見たかったのは、墓室が桜井茶臼山古墳のように中心軸上にあるのではなく、斜めに造られていることを知ったからだった。 そして、古墳公園のように整備されていて、レプリカにしろ、墓壙が見学できると思ったからだったので、がっかり。 

※参考文献
桜井市教育委員会作成の説明板
「シリーズ遺跡を学ぶ051 邪馬台国の候補地・纏向遺跡」(石野博信 2008年 新泉社)
「シリーズ遺跡を学ぶ035 最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)
 

2010/01/22

桜井茶臼山古墳見学会4 前方部は資材の搬入路?


西側へと回る。墓壙壁という札のある部分は他のところよりも白っぽい。
白い色の土を盛ったのですか?
元々あった山の岩盤です。茶臼山古墳は山を利用して造ってあるので、ある部分は岩盤を掘り下げて、足りない部分は土を盛り上げて後円部が築かれたのです。天井石は二上山から運ばれました
更に研究員は、岩盤がどういう岩か説明してくれたが、忘れてしまった。自然の地形を利用した方が土を盛り上げるよりも造りやすかっただろう。 粘土による被覆の後は、墓壙の上部を埋め、さらに周囲より高く土を盛り上げて、方形の壇を築いています。その規模は、南北長11.7m・東西幅9.2mを測り、高さは1m未満と推定されます。壇の上面は、板石と円礫で化粧し、縁近くに体部を半ば埋めた二重口縁壺が並んでいたようです。また壺の内側の広場では、火を使用した儀礼のおこなわれたことが、周辺に流れおちた炭から推定されますという。 
前方後円墳は、埋葬は後円部に、祭祀は前方部で行われたといわれていたのでは。
先ほどの布掘り掘り方の溝で少し姿を現していたのことだ。前方部の説明板にあった平面図は調査区と石室・方形壇というタイトルだった。この見学用通路の外側に布掘り掘り方がめぐり、壺が並んで、その内側に方壇があっのだ。  粘土による被覆というのは、版築で粘土を突き固めながら盛りあげたということだろう。北辺に版築の層が見られる。こちらは岩のない部分だったようだ。
中国で見た版築の層は一定の高さに積み重ねてあったが、どうも日本の版築は適当なように思うなあ。 墓壙の南辺西半部は、切り通しのように掘り下げられ、前方部から続く作業道となっています。石室に用いられた石材や木棺は、そこから運び込まれたのでしょうという。
切り通しというのはこの窪みのことだろうか。
前方後円墳は後円部に埋葬され、前方部で祭儀が行われたと思っていたが、どうも祭儀は墓室の上で行われ、前方部は石室を造る資材の搬入路に過ぎなかったようだ。  見学用通路の最後の角の外側に天井石が並んでいた。平たい板状に割れ易い石のようだ。 見学用通路を一周すると柵があってもう一周することはできない。一方通行になっている階段と前方部へ。
見学者たちが立ち止まって見ているのは説明パネルです。 前方部にあった写真パネルの中に、木棺を搬出する様子がたくさんの画像で示してあった。最後にスロープから下ろす場面があったので、やっぱり前方部に上がる時に使ったスロープだと確信したが、今見ると下は道路になっているので別の場所のようです。 画像の中には、前方部にあった写真パネルを撮ったものもあります。

※参考文献
「桜井茶臼山古墳の調査」(2009年 奈良県立橿原考古学研究所)

2010/01/19

桜井茶臼山古墳見学会3 その上にベンガラ土で覆った

 
冊子は、さらに天井石は、ベンガラを練りこみ、赤色にした粘土によって被われていましたという。
見学していた時は天井石とベンガラの層の間には段差があって、その間には彩色していない土の層があったように見えたが、このように見ると、ベンガラ層の下にある土の層は、天井石の周囲を天井石と同じ高さにするために盛った土だったのだ。
粘土の上面には直径5-7㎝の円形の窪みがあり、先端の丸い棒でつき固めたことがわかりますという。
確かに丸い棒で突いたような跡が残っている。棒で土を突き固めるというのは版築では。すでに版築の技法が将来されていたのだろうか。それとも各地で普遍的に行われた工法なのか。 先行く人たちが外側を向くので、何かあるのだろうかと見てみると、穴があった。布掘り掘り方って何? 横に壺があった。下の方は版築の均質な土なのに、壺の周囲だけが砂利や根っこのようなものがたくさん混じっている。半周して北側から見る。被葬者は南北どちらに頭を向けていたのだろう。 こちらの天井石や控え積み石材は水銀朱の赤い色がよく残っている。 昭和24年に、盗掘を契機として最初の発掘が行われました。それから60年が経過した本年、再発掘を実施しました。
埋葬にあわせて副葬された器物には、玉杖をはじめとする玉製品や、鉄製・青銅製の武器類のほかに、多数の銅鏡があったようです。しかし、いずれも盗掘によって攪乱・破壊され、置かれていた位置や数量は不明です
という。
南面の積石の上部がないのは盗掘によるものらしい。それにしても不揃いな板石が平らな壁面のように整然と積み上げられている。
見学会からふた月余りの2010年1月8日、日本経済新聞朝刊に「銅鏡 国内最多81面出土」というタイトルで、副葬された銅鏡の調査結果が発表された。鏡が細片だったことについて同研究所は「破砕して埋納したのではなく、何かの理由で盗掘者が割った」とみているという。
この狭い空間で、粉々になるくらいに割ることのできるとは、銅鏡というのは見た目よりずっともろいものなのだろう。 また、同日の同夕刊には、「国内最長 ガラス製管玉も」という記事があった。
調査を手掛けた奈良県立橿原考古学研究所は「精巧な造りで、大王級の墓にふさわしい副葬品」としている。
今回見つかった管玉には気泡がほとんどなかった。高温で鋳造した上質の中国製ガラス棒の両端から穴をあけたとみられる
という。
どちらかというとこのガラスを見てみたいなあ。しかし、橿原考古学研究所附属博物館で『再発掘 桜井茶臼山古墳の成果』展が開催されているが、1月31日までとは短すぎる。

画像の中には、前方部にあった写真パネルを撮ったものもあります。

※参考文献
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」(2009年 奈良県立橿原考古学研究所)
日本経済新聞の記事 

2010/01/15

桜井茶臼山古墳見学会2 真っ赤という程でもなかった

 
途中のパネルにあった石室の発掘状況に真っ赤な天井石。どんどん真っ赤なイメージがふくらんできた。
見学会でもらった『桜井茶臼山古墳の調査』(以下、冊子)は、墓壙は南北約11m・東西約4.8m・深さ約2.9mを測りますという。 一方通行の階段を上り詰め、さてじっくりと拝見しようと思うと、「立ち止まらないで下さい」「先に進んで下さい」などという声が。しかしあちこちから聞こえるそのような声にも負けず、いろいろと写真を撮ってきました。
ところが、見えると思っていた石室は、ほとんど天井石で蓋をされていた。その上、石室の周囲の土が赤いので、第一印象は真っ赤というほどではなかった。
ただ、写真にとるとそうでもないが、非常に長い。たった1人のための棺を納めるのに、なんでこんなに長い必要があるのだろう。
そういうと、慶州の積石木槨墳以前の古墳も墓壙が細長かったなあ。 慶州の古墳についてはこちら この内部には木を刳り抜いた長い木棺が、ほぼ石室いっぱいの大きさに安置された写真パネルが前方部にあった。
冊子は、竪穴式石室の内部は水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方体の空間であり、南北長6.75m・北端幅1.27m・高さ1.60m前後を測ります。基底は南北に続く浅い溝状になっており、板石を二・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していました。という。
木棺には水銀朱は塗られていなかったのだろうか。
棺床の土は写真にはすでにないが、2010年1月8日付け朝日新聞朝刊は、石室内外の土をふるいにかけ、鏡の破片331点を見つけたという。 木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていましたが、遺存した棺身の底部分は、長さ4.89m・幅75㎝・最大厚27㎝を測る長大なものですという。
こんなに長い木棺というのは、副葬品をたくさん収めるためだろうか。
それとも、200㎏もの水銀朱が使われた(2009年10月22日付朝日新聞記事より)ほどの被葬者なので、大木をおしげもなく使うこともまた、その人物の権力の強さを示すものだったのかも。立ち止まるなと言われても、石室内部をのぞき込めるのはここ、階段を上がったところからだけなのに。
古墳の解説をする人はいなかったが、ところどころに橿古研の研究員がいて、見学者の質問に答えてくれる。
石が両側から斜めに置かれているのは丸太の木棺が安定するためですか?
それを考慮に入れて造られたのだと思います
中央に溝があるのは排水のためですか?発掘当初は石が中央まであったのですが、調査のために左右にずらせたのですなんと、新聞の写真を見て排水設備もあってすごいと思っていたのに。
わずかに開かれた隙間から石室をのぞくと、乾ききっていない底部は水銀朱の赤が鮮やかに見えた。  反時計回りに進んでいく。人垣に隙間もあるので、ゆっくりと見ていこう。 隣で見学していたお婆さんが質問した。
石室はベンガラを混ぜた土で覆われてたんですね
おっしゃる通りです気がつかなかった。ベンガラと聞いて探すと、ところどころに水銀朱とは違う赤さの土が残してあった。石室の石が水銀朱で染められただけでなく、その上にもベンガラで染めた赤い土の層があったのだ。
赤い色は魔除けの意味があるとどこかで聞いたか、読んだかしたような記憶があるが、冊子には記されていない。
天井石は大きいが、側壁に積み重なった石は平たくて小さく、このような自然石を集めたというよりも、細工して偏平な形にしたように見える。まるで塼(この漢字が入力できない場合は磚が使われる)を重ねたようだ。
慶州の模塼塔といわれる芬皇寺(634年)よりもずっと以前に築造されたものだが、同じように塼を模したのではと思うような石の積み方だ。しかし、当時は塼そのものがなかっただろう。この古墳以前から石を板状に割り、それを積み上げる壁や墓室があったのだろうなあ。 埋葬の終了後、全面に水銀朱を塗布した12個の天井石を懸架して、石室は閉じられました。いずれの天井石も長側面を平坦に加工して、隣りあう石材と並びよくしています。最大のものは、長さ2.75m・幅76㎝・厚さ27㎝あり、推定重量は約1.5tですという。
土を盛って見えなくなる天井石をここまで丁寧に板状にするとは。 画像の中には、前方部にあった写真パネルを撮ったものもあります。


桜井茶臼山古墳見学会に行ってみた← →桜井茶臼山古墳見学会3 その上にベンガラ土で覆った

関連項目
桜井茶臼山古墳見学会4 前方部は資材の搬入路?

※参考文献
「桜井茶臼山古墳の調査」 2009年 奈良県立橿原考古学研究所
朝日新聞記事 


2010/01/12

桜井茶臼山古墳見学会に行ってみた


外観を眺めるだけのもの、遺跡として整備されたもの、その後の歴史の中で盗掘されたり崩壊して内部が露出したものなど、古墳はあちこち巡ってきた。
桜井茶臼山古墳の現地見学会が2009年10月29-31日の間開かれるというので、今回初めて発掘中の古墳を見てきた。もうだいぶ日がたってしまい忘れてしまったこともあるが、これ以上忘れへんうちにまとめておこう。

茶臼山古墳は各地にあるが、奈良県桜井市の茶臼山古墳は、朱塗りの石室が出土したことで注目された。同じ桜井市の箸墓古墳の南方にある。
下の航空写真(写真パネルを撮す)ではわからないが、実際は、後円部が北にある南北方向にのびる古墳だ。 大勢の見学者が来るので、テント張りの受付があった。 受付でパンフレットをもらう。A4サイズの一面に朱塗りの石室内部が写っていて迫力がある。平たい石をほぼ垂直に積み重ねている石室は初めてだ。見学用通路は前方部へと繋がっている。
この見学会のためにわざわざつくったのか?
出土物を搬出するために作られた足場ではなどと言いながら階段を上っていったが、本当かどうかわかりません。 前方部にはあちこちの木に説明パネルが取り付けてあった。発掘の様子などいろいろと予備知識が得られるようになっている。外から木々の繁った前方後円墳を見たよりも、歩くと前方部は長かった。 ようやく後円部の墳丘が見えてきた。
見学の足場が見える。見学者が列を成しているのかと思ったが、それほどでもないので、ゆっくりと見られるかも。 尚、画像には前方部にたくさんあった写真パネルを撮したものもあります。


関連項目
兜塚古墳とメスリ山古墳
桜井茶臼山古墳見学会4 前方部は資材の搬入路?
桜井茶臼山古墳見学会3 その上にベンガラ土で覆った
桜井茶臼山古墳見学会2 真っ赤という程でもなかった

※参考文献
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」 2009年 奈良県立橿原考古学研究所


2010/01/08

中国の連珠円文の始まりはトンボ玉の七曜円文?



洛陽の永寧寺塔跡出土の瓦当が連珠円文の最初だと思っていたら、後漢の瓦当にすでに連珠円文と思われる文様があった。 

軒瓦 灰陶 後漢(25-220年) 径49.5 個人蔵
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、漢時代には、前代以上に盛んに大型建造物が作られたが、その屋根の軒をこうした瓦が飾っていたのである。この瓦の瓦当には、型押しで「長生無極」の四文字が表されているという。
四文字の内側に連珠状のものがめぐっている。中央の大きな円文の周りに小さな珠がめぐっているので、これも連珠円文といってよいのでは。
それにしても、直径50㎝もの巨大な瓦が軒にずらりと並んでいた建物とは、どのようなものだったのだろう。 そのような見方をすると、円文の周りに円文のめぐるものが他にもあった。

獣帯鏡 銅 前漢末(前1-後1世紀) 西安市南郊出土 径25.4㎝ 西安市文物管理委員会蔵
『世界美術大全集東洋編2秦・漢』は、半球形の鈕を中心に同心円の文様帯で区画した鏡である。鈕座には、放射文のあいだに芝草文を入れた文様帯と、その外側に9つの輻射文乳のあいだに雲気文を配した文様帯とがあるという。
鈕(ちゅう)の外側をめぐる輻射文乳が連珠円文に見えなくもない。
中国の青銅鏡についてわかる範囲では、戦国時代(前5~前3世紀)の金銀象嵌闘争文鏡には乳がなく、前漢になると4つのものもあるが、多数配置されるものも現れる(少ない図版からの判断です)。 しかし、遡る戦国時代には、非常に小さなものに連珠円文のような文様が見られる。

玻璃珠 山東省曲阜市魯国故城58号墓出土 戦国時代(前4-3世紀) 曲阜市文物管理委員会蔵
魯国故城内の墓域にある58号戦国墓から出土した一群の重層貼付同心寄円文珠の一つ。文様の周囲と中心が黄褐色の七曜円文を中央に配し、その周りに中央黄褐色の小同心円文と白・紺の同心円文を交互に配する。
中国独自とされる鉛バリウムガラスで作られており、中国製であることがわかる。同心寄円文は西方には見られず、中国化した同心円文の特徴と考えられる。一方、中心円まで同一色の七曜円文のみを配する珠は、メソポタミアのウルや  ・・略・・ 黒海北岸などで出土しており、西方に先行形態がある
という。
いわゆる戦国トンボ玉だ。西方から伝えられ、中央の小円文を同じ大きさの6つの小円文が囲む。合計7つになるため、七曜文あるいは七曜円文と呼ばれる。
七曜文を連珠円文と思ったことはないが、そうではないとも言い切れない。 西域文明的發現の『シルクロードのソグド錦』は、ソグド人はシルク貿易の仲買業に甘んじることなく、6世紀末には独自の絹紡績業を作り上げたという。
そうすると後漢(25-220年)には連珠文錦はなかったので、後漢の瓦当に見られるような中央部が無文の連珠文は他の作品から伝わったことになる。
それが西方から伝わったトンボ玉の七曜円文だったのかも。

※参考サイト
西域文明的發現のシルクロードのソグド錦 林梅村 (北京大学考古文博学院教授)

※参考文献
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005-2006年 岡山市立オリエント美術館他
「世界美術大全集東洋編2 秦・漢」 1998年 小学館

2010/01/05

中国の瓦にも連珠文



うっかりしていた。中国では連珠円文の錦ばかり探していて、瓦は全く念頭になかった。探してみると、直接韓半島や日本の瓦に影響したものかどうかわからないが、連珠文のめぐる瓦はあった。

複弁蓮花文鐙瓦 陝西省咸陽市唐・太宗陵出土 7世紀半ば 東京国立博物館蔵
『日本の美術66古代の瓦』は、複弁蓮花文は中国では既に北魏に出現するが、花弁の端尖形を呈している。
弁端が丸く、切れ込みのある形は唐の太宗陵や長安大明宮址の瓦塼にみられるが、その初現の時期は南北朝末から初唐にかけての瓦が不明であるために、時期的にみて初唐様式と想定されているのである。ただし唐の鐙瓦は蓮花文のまわりに連珠文をめぐらし、周縁は広く無文に作るのが普通であり、しかも粗雑で創造的意欲に欠けるものが多い。つまり中国では当時の最高の宮殿や皇陵の瓦さえ、総て造瓦工の手にゆだねられる段階へ進んでい
たという。
連珠円文の中に蓮華があるのは唐時代の特徴とされているようだ。
周縁部が広いため、中房が小さくても連弁が短く幅が広く見える。
慶州雁鴨池出土の軒丸瓦(7-8世紀)もこのような短い蓮弁が二重になっている。中房も小さく蓮子の数は今見ると同じだ。蓮子がたくさんあると思っていたら、中心に1つ、その周りに6つ蓮子があるだけで、中房と蓮弁の間にも連珠円文があった。狭い周縁部に連珠文がめぐっていた。
日本では、本薬師寺跡出土軒丸瓦(7世紀末)が似ているような気がするが、中房はこの瓦よりも大きく、蓮子の数が多い。この瓦よりも狭い周縁部には鋸歯文がめぐっている。
それぞれに共通点と相違点があって、どこからの影響とは言い難いなあ。 獣面の屋根瓦(鬼瓦) 陝西省西安市大明宮遺跡出土 唐時代(618-907年) 中国社会科学院考古研究所蔵
『図説中国文明史6隋唐』は、宮殿の屋根の飾り。紋様の構図が全面に施され、線刻とレリーフと立体彫刻の技巧を用いてゆったりとして雄大な感じを与えているという。
開いた口の両側には前足が見え、威嚇的だ。屋根のどの部分に使われたのだろう、鬼瓦にしては刳りがない。上にカールしたたてがみが3対並び、その上には眉の端がカールして並ぶ。額の両側に渦巻いているのもたてがみのようだ。龍でも鬼でもなく、獅子のような獣だろうか。
慶州皇龍寺出土の鬼面瓦(7-8世紀)もこのように大きく口を開き、たてがみが上にカールしている。
方形の狭い周縁部の内側にぎっしりと連珠がつまっている。 獣面紋瓦当 永寧寺塔跡出土 北魏時代(519-534年) 中国社会科学院考古研究所蔵
『龍門石窟展図録』は、太和18年(494)、28歳の孝文帝は、北魏の都を100年続いた平城(大同)から洛陽へと移した。
平城に甍を誇った永寧寺の七重塔の洛陽移転も計画され、ようやく神亀2年(519)に、以前にも増す九重塔が天にそびえた。しかしこの塔は永熙3年(534)に落雷のために焼失し、以後再建されることはなかったのである
という。
北魏後半にはすでに周縁部が広いが、周縁部の広いのは戦国燕(前403-222年)の半瓦当にすでに見られ、中国の伝統のようだ。
大きめの連珠が密に並ぶのも中国の伝統だろうか。
獣面というが、頭部に蓮華状のものを頂いた鬼面に見える。皇龍寺出土の鬼面瓦も頭上に蓮華があった。
永寧寺塔跡はこちら また、永寧寺のあった北魏後半の都洛陽跡(現在の洛陽と鄭州の中間にある。白馬寺付近)はグーグルマップでこちら 蓮華化生瓦当 永寧寺塔跡出土 北魏時代(519-534年) 中国社会科学院考古研究所蔵 
複弁は左右に3つずつ配置され、上に向かって小さくなっていく。7つ目の頂部の蓮弁は化生菩薩の頭光になっている。
連珠は上の獣面紋瓦当に比べると小さく、しかも頂部が小さく左右対称ではない。笵を使って作られたにしては仕上がりがよくない。
類似の図様にホータン地方出土の如来坐像(ストゥッコ、6世紀頃)があるが、それは14の複弁の内側に連珠がめぐっている。 蓮華は複弁で、蓮華文として完成した表現となっている。中央に中房のある蓮華が変化したものだろう。これ以前にも連珠蓮華文瓦当がすでにあったことを思わせる瓦である。
しかし、現在のところ北魏後期より前の連珠蓮華文瓦は見つからない。
北魏前半の都、平城にあった頃の永寧寺にはどんな瓦が葺かれていたのだろう。このように連珠がめぐっていたのだろうか。

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」(稲垣晋也編 1971年 至文堂)
「図説中国文明史6 隋唐」(稲畑耕一郎監修 2006年 創元社)
「龍門石窟展図録」(2001年 MIHO MUSEUM)