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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/01/15

桜井茶臼山古墳見学会2 真っ赤という程でもなかった

 
途中のパネルにあった石室の発掘状況に真っ赤な天井石。どんどん真っ赤なイメージがふくらんできた。
見学会でもらった『桜井茶臼山古墳の調査』(以下、冊子)は、墓壙は南北約11m・東西約4.8m・深さ約2.9mを測りますという。 一方通行の階段を上り詰め、さてじっくりと拝見しようと思うと、「立ち止まらないで下さい」「先に進んで下さい」などという声が。しかしあちこちから聞こえるそのような声にも負けず、いろいろと写真を撮ってきました。
ところが、見えると思っていた石室は、ほとんど天井石で蓋をされていた。その上、石室の周囲の土が赤いので、第一印象は真っ赤というほどではなかった。
ただ、写真にとるとそうでもないが、非常に長い。たった1人のための棺を納めるのに、なんでこんなに長い必要があるのだろう。
そういうと、慶州の積石木槨墳以前の古墳も墓壙が細長かったなあ。 慶州の古墳についてはこちら この内部には木を刳り抜いた長い木棺が、ほぼ石室いっぱいの大きさに安置された写真パネルが前方部にあった。
冊子は、竪穴式石室の内部は水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方体の空間であり、南北長6.75m・北端幅1.27m・高さ1.60m前後を測ります。基底は南北に続く浅い溝状になっており、板石を二・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していました。という。
木棺には水銀朱は塗られていなかったのだろうか。
棺床の土は写真にはすでにないが、2010年1月8日付け朝日新聞朝刊は、石室内外の土をふるいにかけ、鏡の破片331点を見つけたという。 木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていましたが、遺存した棺身の底部分は、長さ4.89m・幅75㎝・最大厚27㎝を測る長大なものですという。
こんなに長い木棺というのは、副葬品をたくさん収めるためだろうか。
それとも、200㎏もの水銀朱が使われた(2009年10月22日付朝日新聞記事より)ほどの被葬者なので、大木をおしげもなく使うこともまた、その人物の権力の強さを示すものだったのかも。立ち止まるなと言われても、石室内部をのぞき込めるのはここ、階段を上がったところからだけなのに。
古墳の解説をする人はいなかったが、ところどころに橿古研の研究員がいて、見学者の質問に答えてくれる。
石が両側から斜めに置かれているのは丸太の木棺が安定するためですか?
それを考慮に入れて造られたのだと思います
中央に溝があるのは排水のためですか?
発掘当初は石が中央まであったのですが、調査のために左右にずらせたのです
なんと、新聞の写真を見て排水設備もあってすごいと思っていたのに。
わずかに開かれた隙間から石室をのぞくと、乾ききっていない底部は水銀朱の赤が鮮やかに見えた。  反時計回りに進んでいく。人垣に隙間もあるので、ゆっくりと見ていこう。 隣で見学していたお婆さんが質問した。
石室はベンガラを混ぜた土で覆われてたんですね
おっしゃる通りです
気がつかなかった。ベンガラと聞いて探すと、ところどころに水銀朱とは違う赤さの土が残してあった。石室の石が水銀朱で染められただけでなく、その上にもベンガラで染めた赤い土の層があったのだ。
赤い色は魔除けの意味があるとどこかで聞いたか、読んだかしたような記憶があるが、冊子には記されていない。
天井石は大きいが、側壁に積み重なった石は平たくて小さく、このような自然石を集めたというよりも、細工して偏平な形にしたように見える。まるで塼(この漢字が入力できない場合は磚が使われる)を重ねたようだ。
慶州の模塼塔といわれる芬皇寺(634年)よりもずっと以前に築造されたものだが、同じように塼を模したのではと思うような石の積み方だ。しかし、当時は塼そのものがなかっただろう。この古墳以前から石を板状に割り、それを積み上げる壁や墓室があったのだろうなあ。 埋葬の終了後、全面に水銀朱を塗布した12個の天井石を懸架して、石室は閉じられました。いずれの天井石も長側面を平坦に加工して、隣りあう石材と並びよくしています。最大のものは、長さ2.75m・幅76㎝・厚さ27㎝あり、推定重量は約1.5tですという。
土を盛って見えなくなる天井石をここまで丁寧に板状にするとは。 画像の中には、前方部にあった写真パネルを撮ったものもあります。

※参考文献
「桜井茶臼山古墳の調査」(2009年 奈良県立橿原考古学研究所)
朝日新聞記事