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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2023/03/31

唐時代の仏画にガラス器


北宋や遼代にもたらされた、あるいはつくられたガラス器が内モンゴル自治区通遼市ナイマン旗陳国公主の墓に副葬されていた。唐代以降どのようなガラス器がっくられたり、西方より将来されたりしてきたのだろう。
そんなことを思っている時に 『ガラスの来た道』という興味深い本が出版された。そこには唐代に描かれた如来立像がガラス器を持っていた。

薬師如来像 8世紀 新疆ウイグル自治区アアイ石窟 
同書は、アアイ石窟は、クチャにほど近い、突厥の南下を警戒する砦のそばに作られた仏教石窟で、砦の仏教徒のために8世紀に開削されたと推定されている(山田2020)という。
この「山田2020」というのは、山田勝久著「シルクロード 悠久の大地」(2020年 笠間書院)。
アアイ石窟は2005年に訪れた天山神秘大峡谷の中にあると現地ガイドの丁さんに聞いた。やや珍しい名称なので、記憶にとどまった。見学はできなかったが、暑いなかを歩き回った思い出が蘇ってきたので、峡谷については次回記事にすることにした。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟薬師如来立像  『ガラスの来た道』より

中国新疆壁画芸術編集委員会編2009年
同書は、この石窟には明らかに後期ササンガラスのカットガラス碗であるガラス器を持つ、薬師如来が描かれている。この場所はオアシスルートから草原ルートへ入るため北上する交易路にあり、ガラス器の交易ルートの途中にある壁画としても興味深いという。
薬師如来は左手に薬壺を持っていることもあるので、それがガラス器に変わっても不思議ではない。
新疆ウイグル自治区アアイ石窟薬師如来の持つガラス器  『ガラスの来た道』より

同書は、ササンガラスとみられるガラス器のある壁画の中で、キジル石窟は6-7世紀とされているが、莫高窟やクムトラ、アアイ石窟の壁画が描かれたのは唐代の8世紀と推定されている。しかしササン朝ペルシアは651年に滅びている。カットガラス器は伝来していたものを写したのだろうか、それとも図像として流行したものだったのだろうか。
このようにササンのガラス器など搬入ガラス器は供物を盛る器として使用され、そして仏陀や如来が持つ器としても描かれた。さらに北朝時代から製作され始めていた中国製吹きガラス器は一般の容器としてではなく、舎利容器など主に仏教関連のものとして使用されていく。つまり仏教とガラス製品は、この頃密接に結びついていくのである。何故なのだろうか?
一つには、仏教において、「瑠璃」は浄土を飾る七宝(金・銀・水晶・珊瑚・琥珀・瑪璃瑠璃)の一つとされている点があげられよう。当初この瑠璃が何を意味していたかは諸説あるがそれはさておき、東アジアでは仏教が広がるにつれて、「瑠璃」=ガラスとして、仏舎利或いは仏像、寺院等の荘厳にふさわしい材料として認識されていくのである。
もう一つには、魏晋南北朝時代に形成された、宝器としてのガラス器のイメージがあるのではないかと思う。『世説新語』に「(ガラス碗が)美しくてまことにすきとおって清らかである。ゆえに宝とされる」という文があった。また芸文類聚(巻73)には、晋の高官であり詩人の傳咸が「君子にキズがあったら君子でなく、ガラス器も汚れていたら宝器ではない」と述べる一文がある。この西方製ガラス器の「透明性」からくる「清らか」というイメージ、これが仏への供物を入れる器や仏たちが持つ器としてガラス器がふさわしい、と考える背景にあったのではないだろうか。
こののち中国や日本などの東アジアでは、ガラス製品の生産と製作自体は続いていくものの、主に仏教関連での物品としてであった。世俗の飲食容器や装飾品のためのガラス製品の生産製造は、近世まで見られなくなってしまうのである。ガラスと仏教が二重の意味で強く結びついたことがその背後にあるのではないだろうかという。

一方、日本では奈良時代に将来されたガラス器が正倉院に収蔵されていたし、その後戦国時代に国内でつくられていたこともわかった。
『戦国時代の金とガラス展図録』は、ガラス製品は平安時代後期から室町時代末まで輸入に頼るところが大きいといわれていました。しかし、一乗谷でガラス玉を製作していた工房跡が発見されたという。それについて詳しくはこちら

『ガラスの来た道』は、仏教と密接にかかわることとなったガラス器は仏教画にも取り入れられ、当時のガラス器がどのように使用されていたかを我々に示してくれる。有名なものは甘粛省敦煌莫高窟の壁画で、57窟をはじめいくつかの窟でガラス器を持つ仏陀像や菩薩像がみられる。そこには後期ササンガラスのカットガラス碗と思われるものをはじめ、いくつかのタイプのガラス器が描かれている。また敦煌の姉妹窟である楡林窟の壁画にもササンのガラス器が見られるという。
57窟の壁画にガラス容器は見つけられなかった。

薬師如来立像 初唐・貞観16年(642) 敦煌莫高窟第220窟北壁 薬師経変
『敦煌莫高窟3』は、東方薬師浄土に七仏と八接引菩薩が描かれる。初唐の壁画ではもっとも早い紀年名があるというだけで、一薬師如来が左手に持つ丸いものについての記述はない。
敦煌莫高窟第220窟北壁薬師経変うち薬師如来立像 初唐  『敦煌莫高窟3』より


如来坐像 7世紀 キジル石窟第189窟 主室穹窿頂
 『中国新疆壁画全集 キジル3』は、主室はドーム状の天井になっている。その頂部に描かれる最大の如来坐像は、偏袒右肩に大衣をまとい、右手は胸前で印を結び、左手は一つの藍色の鉢を持ち、そこから白い蛇形のものが龍頭を高く持ち上げるという。
この如来は釈迦だろうか。もし薬師如来ならば、薬壺から白い薬が溢れ出し、衆生を病から救おうとしている様子を描いたのかも。
キジル石窟第189窟 主室穹窿頂如来坐像 7世紀  『中国新疆壁画全集 キジル3』より


 『ガラスの来た道』は、仏教はシルクロードを経て漢代の中国へと伝わった。4世紀頃には社会に浸透し、南北朝時代には国家や貴族層が仏教を保護するまでになった。続く隋唐においても仏教は帝室貴族の保護を受けて栄えていった。インドとの間に仏僧の往来が行われただけでなく、朝鮮半島や日本から多数の僧が中国へと渡り、仏教を学び帰国している。仏教が隆盛をほこる中で、隋唐では多数のガラス製品が仏教寺院にて用いられることとなった。このような状況を受けて、7世紀ごろから東アジアで出土するガラス器は、墳墓の副葬品ではなく舎利容器として埋納されたものが圧倒的に多いという。

西方製ガラス舎利容器 西安東郊清禅寺舎墓出土 陝西歴史博物館蔵
同書は、最も早いものの一つは西安市東郊清禅寺舎利墓(589年埋葬)から出土したガラス製舎利瓶であろう。これは後期ササンガラス器で、淡緑色透明ガラスに浮出切子を装飾に持つものであるという。
陝西歴史博物館蔵西安東郊清禅寺舎墓出土西方製ガラス舎利容器  『ガラスの来た道』より


西方製ガラス舎利容器 陝西臨潼慶山寺出土 臨潼県博物館蔵
同書は、西安市臨潼慶山寺は741年に創建された寺であるが、その仏舎利塔の心礎からイスラームガラス器が舎利瓶として出土した。ガラス器は淡黄色をおびた無色透明の小瓶で、ガラス紐を網目状に貼り付けているという。
陝西省臨潼県博物館蔵慶山寺出土西方製ガラス舎利容器  『ガラスの来た道』より


白瑠璃舎利壺 唐時代 ガラス製 高9.2㎝ 胴長11.2㎝
同書は、日本では奈良の唐招提寺の西国舎利瓶があげられる。小塔の金亀舎利塔の中で仏舎利を納めて安置された瓶は、飴色がかった透明の色調を持ち、太目の短い頚部と肩の張った平たい胴部からなるシンプルな初期のイスラームガラス器である。頚部には金属製の蓋が被せられており、これは後につけられたものである。753年の鑑真和上の渡来時に将来された仏舎利を納めており、和上と共に、ないしはやや遅れる頃に日本へともたらされたのであろうという。
唐招提寺蔵白瑠璃壺 鑑真和上請来舎利納入  『鑑真和上展図録』より


同書は、これら舎利容器に転用されたイスラームガラス器は高級品ではなく、むしろ本来は何か製品を詰めた容器として西方から輸出された可能性も考えられる器である。一般的なガラス器の転用品としての使われ方が興味深い。
さて舎利容器は西方から搬入されたものだけでなく、中国でも7世紀ごろから製作されている。緑色の透明な鉛ガラスの小瓶で、宙吹きで作られ、膨らんだ胴部と細長い頚部を持つものが多い。他の用途のものが転用されたわけではなく、はじめから舎利容器として製作されたようだという。


中国製ガラス舎利瓶 陝西省臨潼慶山寺出土 臨潼県博物館蔵
同書は、甘粛省涇川大雲寺舎利塔基出土の石函(694年埋蔵)内の舎利瓶、西安市臨潼慶山寺塔下出土舎利瓶(741年建立)などが見られる。また朝鮮半島では中国製の舎利瓶も多数みられるものの、8世紀頃にはその影響を受けて自前で舎利瓶を製作していたと考えられるという。
陝西省臨潼県博物館蔵慶山寺出土中国製ガラス舎利瓶  『ガラスの来た道』より


法隆寺五重塔出土舎利容器 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館1988より
同書は、大陸製の鉛ガラスの舎利容器は奈良時代の日本にももたらされており、奈良県法隆寺五重塔心礎埋納舎利瓶や、滋賀県崇福寺塔址出土舎利瓶がある。大陸に渡った仏僧が経典などと共に持ち帰ったものだろうかという。
法隆寺五重塔出土舎利容器 飛鳥資料館1988  『ガラスの来た道』より
 

紺琉璃杯 るりのつき 中倉 高11.2㎝ 口径8.6㎝ 重262.5g 正倉院宝物 宮内庁蔵
『ガラスの来た道』は、正倉院に伝わる紺琉璃杯は、紺色の杯の胴部に同色の円環を2個貼り付けて文様としたもので、東方に伝来した後に銀製の脚台が取り付けられている。長安の貼付円環文を出土した埋納容器からは日本の和同開珎が出土しており、正倉院の紺琉璃杯が唐との活発な交流の中でもたらされたことが伺える。またこの銀製の脚台がつけられた場所はわかっていないが、脚台に刻まれた龍の文様に百済系の工人が関与した可能性が、近年の研究で指摘されている(奈良国立博物館2012)という。
坏の表面には輪っかがたくさん並んでいる。アアイ石窟に描かれた薬師如来が左手に持っていたのは、このような円環の小さなものが貼り付けられていたのだろうか。
正倉院中倉蔵瑠璃坏  『第64回正倉院展図録』より


貼付け円環文ガラス器 西安南郊何家村空窖蔵出土 陝西省博物館蔵
『ガラスの来た道』は、この埋蔵品は長安城内に埋蔵された壺から出土したもので、約270点の金銀器と、ビザンチン銀貨・ペルシア銀貨・和同開珎など外国の貨幣と中国の貨幣などと共に出土しており、この壺は当時の活発な東西交流の様子を伝える、まさにタイムカプセルであったという。
陝西省博物館蔵西安南郊何家村空窖蔵出土貼付け円環文を持つガラス器  『ガラスの来た道』より

貼付け円環文ガラス器 中国製または新羅製 慶尚北道漆谷郡松林寺五重磚塔基壇出土 韓国国立中央博物館蔵
『ガラスの来た道』は、緑色舎利杯は松林寺五重磚塔の基壇部から発見された亀形石函に納められた、黄金製の舎利厨子の中に安置されていたもので、さらに舎利杯の中には仏舎利を納めた緑色ガラス舎利瓶が置かれていた。舎利杯は緑色透明な杯の胴部に、同色の円環文を上下に各6個ずつ貼り付けて装飾としている。
なお舎利を納めたガラス舎利瓶は中国製または新羅製のものであるという。
韓国国立中央博物館蔵慶尚北道漆谷郡松林寺五重磚塔基壇出土舎利荘厳具 中国製または新羅製 『ガラスの来た道』より


『ガラスの来た道』は、この次にもたらされたものがイスラームガラス器である。実は末期ササンガラス器なのか初期イスラームガラス器なのかの区別は難しい。いずれにせよ東方へはササンガラス器の終焉とほぼ切れ目なくイスラームガラス器がもたらされており、ササンガラスからイスラームガラスの技術系譜と、そして途切れない交易状況は興味深い問題であるという。


イスラームガラス皿 陝西省扶風法門寺地下宮殿出土 法門寺博物館蔵
『ガラスの来た道』は、陝西省扶風県法門寺地下宮殿からは8-9世紀頃の皿・瓶・杯・茶托付茶碗など、20点もの状態も内容も非常に素晴らしいイスラームガラス器が出土した。
法門寺は唐代に高い名声を誇った寺で多数の皇帝がその地下宮に宝物を奉納したが、874年に最後の奉納がなされた後、1000年以上の長きに渡り地下に埋もれたままであった。その宝物はガラス器を始め、金銀器、陶磁器、絹織物と非常に多様かつ多量で保存状態も良く、唐代の工芸技術や当時の東西交流を良く伝えるものである。各々の遺物の奉納年は不明だが、最後の奉納が明らかなため、納められたイスラームガラスの製作年代の下限もまた確定できる。法門寺のイスラームガラスは、イスラームガラスの編年にとっても重要な遺物なのである。
内面に線刻文で忍冬文を施して金箔をはめ込んだ忍冬文皿、文様をラスター技法で焼き付けた柘榴文黄文皿など、文様のある多数の皿という。
法門寺博物館蔵陝西省扶風法門寺地下宮殿出土イスラームガラス皿  『ガラスの来た道』より


イスラームガラス瓶 陝西省扶風法門寺地下宮殿出土 法門寺博物館蔵
同書は、円環文や花形文を貼り付けた瓶などが見られるという。
法門寺博物館蔵陝西省扶風法門寺地下宮殿出土イスラームガラス瓶  『ガラスの来た道』より


白瑠璃瓶 正倉院宝物 宮内庁蔵
同書は、日本にも8世紀ごろから多数のイスラームガラス器がもたらされている。正倉院に納められた白瑠璃瓶もイスラームガラス器である。その類例品は9-10世紀ごろとされている。実はこののち日本も含め東アジアにおけるガラス器は仏教と深いつながりを持つようになるという。
白瑠璃瓶 正倉院宝物 宮内庁蔵  『太陽正倉院シリーズⅠ 正倉院とシルクロード』より


後半は唐時代の仏画と離れてしまった😆



関連記事

参考文献
「ガラスの来た道 古代ユーラシアをつなぐ輝き」 小寺智津子 2023年 吉川弘文館
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所編 1999年 文物出版社
「太陽正倉院シリーズⅠ 正倉院とシルクロード」 1981年 平凡社
「鑑真和上展図録」 2009年 TBS 

2023/03/24

遼時代陳国公主墓とその副葬品


遼という国について『図説中国文明史8』は、契丹の勢力拡張は大規模なものでした。西は、もと突厥や回鶻に従属していた遊牧部族を滅ぼすとともに、タタールなど北方の諸部族を鎮圧し、今のモンゴル国オルホン河上流にあったかつての回の都市に鎮州(軍事基地の名)を置きました。また東は、唐文化の影響の強い渤海国を降伏させ、彼らを通じてさまざまな唐文化を吸収し、さらに東方の高麗(10-14世紀に朝鮮半島を統一した王朝)に遠征して、朝貢に同意し和議を求めるよう迫りました。契丹はきわめて短期間のうちに、突厥のあとを継いでもっとも中原を脅かす政権となりました。 
しかし、ほんの短い間の繁栄をへて、遼朝は急速に混乱と衰退へと向かいますという。 
その短い繁栄期に若くして亡くなった陳国公主の墓には贅を尽くした品々が副葬されていた。

いろいろな書き方があって混乱するが、「内モンゴル自治区哲里木盟奈曼旗青龍山鎮遼陳国公主駙馬合葬墓」は、後に行政区名が変わって「内モンゴル自治区通遼市奈曼(ナイマン)旗陳国公主墓」となった。
「燕雲台」という遼時代の歴史ドラマを見ていた。全てが史実とは思っていないが、当時の暮らしや服飾、室内のしつらえなどを知る手がかりとなるからだ。しかしながら、ガラス容器は登場しなかったように記憶している。
その主人公は第5代皇帝景宗の皇后となった女性。陳国公主は景宗と皇后の孫にあたる。


陳国公主墓(夫駙馬との合葬墓) 11世紀前半 内モンゴル自治区通遼市ナイマン旗
 『図説中国文明史8 草原の文明』は、遼の陳国公主(王女)と駙馬(公主の夫)の合葬墓は、現在発見されている契丹皇族の陵墓のなかでもっとも完全な、また出土文物のもっとも多い墓です。公主が亡くなったのは遼の聖宗の開泰7年(1080)、時代は政治・経済・文化がもっとも華やかだった遼の中期にあたり、そうした豊かな経済基盤が、公主の埋葬をこれほど豪華なものにしたのでしょう。陳国公主は聖宗の同母弟だった耶律隆慶の娘で、亡くなった時はまだ18歳でした。駙馬の蕭紹矩は、聖宗の妻仁徳皇后の兄で、公主より先に亡くなり、公主は死後に夫の墓に葬られましたという。
内モンゴル自治区通遼市ナイマン旗 陳国公主駙馬合葬墓概念図 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


合葬墓概念図
 『図説中国文明史8草原の文明』は、墓室は漢族の身分制度に照らして建造されており、木造をまねたレンガ造りの墓室には壁画が描かれ、墓道・天井・前室・東西の側室・後室からなり、全長は16.4mあります。墓門の入り口の上には、彫刻されたレンガで木造風の屋根が作られ、装飾画が施してありました。このような構造は、宋代の中原北部の墓に多く見られますという。
通遼市ナイマン旗陳国公主駙馬合葬墓 11世紀前半  『図説中国文明史8草原の文明』より


墓道西壁壁画 11世紀前半  
鞍には雲気を描いた布が掛けられた馬を牽く人物が描かれる。
陳国公主駙馬合葬墓墓道西壁壁画 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より

側室のドーム天井概念図
同書は、側室と後室が円形のドーム形天井になっているのは、契丹人の住居であるフェルト製テントに倣ったものにほかならず、北方民族の特色をも兼ね備えていますという。
陳国公主駙馬合葬墓側室のドーム天井概念図 11世紀前半  『図説中国文明史8草原の文明』より

後室の合葬状況
同書は、発掘現場の陳国公主と駙馬の合葬のようす。これは考古学者もはじめて目にした、契丹大貴族独特の葬俗の全貌であった。
契丹人は中原に侵入したのち漢文化の影響を受け、貴族はおもに土葬をおこないました。さらには豪華な墓室をつくり、車馬や生活用品を副葬品とするなど、珍しい宝物をあつめて墓室を満たす厚葬の風がおこり、契丹の埋葬はかがやかしい時期を迎えます。
陳国公主は、生前身分が高かったのはもちろんですが、死後も遼朝で最高級の墓を手に入れました。墓には精巧につくられた金銀器・玉器・水晶・瑪瑙等の製品が副葬されただけでなく、さらに身体を金や銀でおおい、頭からつま先まで、金銀でできた契丹貴族独特の死に装束を身につけました。『遼史』によれば、これら「遺体をおおった儀式用品」は、皇帝から贈られた物だったといいます(礼志嘉儀)。ここにも契丹貴族の厚葬の気風を十分にうかがうことができるでしょうという。
陳国公主墓後室棺内 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


鳳凰文冠 1具 銀、鍍金 11世紀前半 開泰7年(1018) 高32㎝ 幅27㎝ 頭径18.5㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
 『草原の王朝契丹展図録』は、陳国公主の仮面の上におかれていた冠。薄い銀板4枚で左右、前後を銀針金で繋いで成形し、台輪に挟みこんで留め、左右の両側に冠体よりも高い翼状の飾板を取り付けている。冠体の正面には左右に対向する鳳凰と、その上に火焔宝珠、周囲には雲文に花唐草を透かし、鳳凰の羽、雲文、花唐草の筋などを蹴彫によって細かく表わしている。
背面の上半は唐草を透彫するが、下半は銀板だけで透かしや文様を施していない。冠の頂には細かく花脈を透かした十二花弁の台座を置き、その上に髪を丸く纏め、髭をのばし、頭に冠を載せた道教の元始天尊坐像を据える。光背の縁には9個の霊芝が飾られている。このような双翼を持つ冠はアルホルチン旗遼墓などの女性の墓から3例が出土しており、契丹での貴婦人葬に好まれた装飾冠であったことが窺われるという。
陳国公主墓後室出土鳳凰文冠 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より

同展図録は、左右の翼にも天空へと羽ばたく鳳凰を正面と同様の手法で表すという。
陳国公主墓後室出土鳳凰文冠 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


水晶首飾り 1連 水晶 11世紀前半 開泰7年(1018) 全長142㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主に付けられていた152個からならなる水晶の首飾り。大きさは大小不規則で、稜をいくつも立てた不定形の形状である。色は無色透明で、中央に孔をあけて連撃している。公主には髪に琥珀と真珠、首にこの水晶、胸に大形の琥珀3重の輪状の飾りが施されていた。その夫蕭紹矩公にも大形の現珀をはじめ多くの宝飾品が副葬されていて水晶のほか玉、琥珀、瑪瑙、真珠、金、銀など外国産と考えられる材料がふんだんに使用されているという。
陳国公主墓後室出土水晶首飾り 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


琥珀首飾り 1連 琥珀、銀 11世紀前半 開泰7年(1018) 外周長159㎝ 内周長113㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主が付けていた琥珀製の首飾り。大小2重から成り、外側は7個の親珠の間に5連の琥珀子珠を銀鎖で繋いでいる。合せ口の2個を除く5個の親珠は人の拳ほどもある大きなもので、龍や蓮華を浮彫している。子珠は最大で長さ2cm、直径1.5㎝で、棗の種の形であるが不整形で、大きさも異なっている。また内側は鳥、魚、動物、花などを細緻に彫った親珠7個の間に子珠を一連銀鎖で繋ぐ。内側の子珠は、外側の玉と比べ丸く成形しており、大きさも0.8㎝前後に統一している。最下の親玉の右に円筒形、左に露形の垂飾を下げる。夫の蕭紹矩公にも獅子、龍を彫った琥珀親玉に7連の子玉を繋いだ鎖と、龍、魚を彫った5個の琥珀製親玉とした2重の首飾りが副葬されていた。琥珀は中原では装飾具としては多くは用いられなかったが、契丹では装身具にしばしば用いられていたという。
陳国公主墓後室出土琥珀首飾り 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


琥珀髪飾り 1組 琥珀、真珠、金 11世紀前半 開泰7年(1018) 縦14㎝ 横21.4㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主の髪飾り。厚さ1.1-1.35㎝の琥珀に線彫、透彫を加えて2個の龍を彫り、それを対向するように置き、その顎から4連の真珠を銀線に通して繋ぐ。龍形の裾の3ヶ所に小孔をあけ、そこに金製菱形の親垂飾を2段に垂らし、さらに1段目は左右、2段目は中央と左右に木葉形の小垂飾を下げている。陳国公主の服飾品は、金、銀、玉、琥珀などが多く、真珠は少ない。『契丹国志諸小国貢物』21巻によると、高昌国、亀茲国、于闐国、大食(イスラム圏の国)国、甘州、涼州から3年に1度、大使としておよそ400人余りが派遣され、契丹国に真珠、乳香、琥珀、瑪瑙などが献上されたという。真珠も、イスラム圏から渡来したものであろうという。
琥珀の龍の下に小さな葉のような歩揺がさがっている。歩揺は文字通り歩くと揺れる飾りで、騎馬遊牧民の装飾で紀元前よりあるが、こんなに後の時代にもその面影が残っていた。
陳国公主墓後室出土琥珀髪飾り 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


龍文腕輪 1対 11世紀前半 開泰7年(1018) 直径6.3-5.1㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、金製の腕輪で、陳国公主の右腕に1対で付けられていた。C字形を呈し、表面に2頭の龍が絡み合う姿を彫り、両先端に龍頭を肉彫で表している。全体の形は蜜蜂の巣からとった蜜蠟を原型製作に用いた蝋型鋳造によって作り、絡み合う体の線や鱗、蛇腹などを彫金によって細かく表現したと考えられる。公主の左腕には宝相華文を打ち出しした、これよりも薄い腕輪が同じように1対付けられていた。契丹の女性は腕輪を一腕に2輪付けることが慣習であったかもしれない。蕭紹矩公には、右腕に鎖状の単純な腕輪が1連巻かれていたという。
陳国公主墓後室出土龍文腕輪 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


龍文帯金具 8枚 金 11世紀前半 開泰7年(1018) 縦10.8-12.6㎝ 横6.4-6.6㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主の腰に、絹の帯に銀糸で綴じ付けられていた金製帯金具であるが、絹帯は腐食して失われている。大きさは大中小の3種で、中央から左右に小さくしており、いずれも頂を丸くして側縁と底縁は直線とし、四側ともに縁を立ち上げている。文様は昇り龍と下り龍を4個ずつ中央に大きく配し、その余白には波濤に屹立する岩を表している。龍の姿態には4タイプがあり、それを2個ずつ用いているところから龍を浮彫した型があって、それに金板をあてて打ち出したと考えられる。波や岩はそれぞれの大きさによって位置や数が異なっているという。
陳国公主墓後室出土龍文帯金具 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より

帯やベルトに金具や玉を綴じ付けることは唐時代から多く行われており、唐の影響を受けているが、これほど大きな金具を用いることはなく、契丹独自に発展したものと見られるという。
陳国公主墓後室出土龍文帯金具の一つ 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


鳳凰文靴 1足 11世紀前半 開泰7年(1018) 銀、鍍金 高37.5㎝ 底長29.2㎝ 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、陳国公主の長靴で、遺体の脚に踵をあわせるように置かれていた。銀の薄板製で、脛部は左右2枚の板を側面で重ねて小孔をあけ、銀の針金を刺し通して留めている。また足は底と甲とを同じ方法で繋ぎ、脛部と針金で接合する。脛部の正面の外寄りに、翼を広げ、尾羽を長く伸ばして上方へと向かう鳳凰を線で表し、その周囲に先端に花文、霊芝風になった太い唐草を配し、この鳳凰と唐草の文様部だけ鍍金を施している。この銀に文様部だけ鍍金を施すのは唐時代に盛行した銀器の装飾法であるという。
陳国公主墓後室出土鳳凰文靴 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


線彫は彫線が楔形となった蹴彫によるもので、公主の鳳凰文冠と同様の技法である。この蹴彫は、唐時代の金銀器の文様表現に多用されており、その技術を継承していると言える。しかし、鏨使いが、唐時代は楔形と楔形が接し、連続した線に見えるのに対し、これは楔形と楔形の間隔が開いている点が異なり、唐時代よりは精緻さに欠けているという。
確かに楔形と楔形の間隔があいているが、破線と思えば違和感はない。
陳国公主墓後室出土鳳凰文靴部分 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


龍文化粧箱 1合 銀、鍍金 11世紀前半 総高22・口径25.5・底径21 内蒙古文物考古研究所
同展図録は、食籠形の大形の盒子で、中に紅、白粉を入れた銀盒子が納められていて、陳国公主の化粧具として副葬されたと見られている。中ほどに合せ口があり、合せ口をはさんだ蓋と身は帯状に段を設けており、蓋はその上にゆるい曲線を描いて頂部へと狭めていき、頂部はわずかに甲盛りをつけている。身も同様に底へと少しすぼめており、外開きの高台を付けている。
また側面は蓋の上段と身の下段は蹴彫で宝相華と鳳凰を右回転で4つずつ、また蓋と身の合せ目の帯には四花文を散らしている。高台の底縁には魚々子による小円文を巡らしている。文様部はすべて鍍金を施している。
合子は銀の鍛製で、蓋の表板と身の底板は別材を鑞付している。低い筒状で、身と蓋はほぼ同じ高さとなる。身の内側に別材で立ち上がりを設け、そこに蓋がはまるようにしている。このうちの1合に今は黒く変色しているが頬紅、もう1合に白粉の化粧品が入れられていた。罐も銀の鍛製、肩に張りのある小形の壺で、蓋は縁周りを平らにして、中央部に膨らみを持たせ、環状の蔓のような鈕を付けている。
龍文化粧箱に納められ、陳国公主、蕭紹矩公の棺台の前の供物台に置かれていたという。
陳国公主墓出土龍文化粧箱・合子・小罐 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


化粧箱蓋
頂部には頭を中心において、その左にある火焔宝珠を銜えようと体を反転させる龍を大きく表し、雲を二つ尾の先近くに配している。 
龍の表現は輪郭線を鏨で深く幅広に鋤取り、裏から打ち出してわずかに盛り上げ、片切風な鏨によって小さな波形をいくつも彫って鱗として、毛や雲の筋は細い蹴彫で表している。
銀器は唐時代に多く作られており、西安市何家村からは巧妙精緻な文様部だけを鍍金した銀器が数多く出土しているが、それらに比べると、文様の余白の部分に魚々子を打っていないことや、線彫りの鏨使いに精巧さは見られないなどの相違がある。その表現の大らかさが契丹の金銀器の特徴とも言えるであろう。年代が知られることからも契丹金銀器の基準となる作品といえるという。
陳国公主墓出土龍文化粧箱蓋 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


水注 1口 銀 高10.3・口径4.7・底径5.6 内蒙古文物考古研究所蔵
11世紀前 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、小振りの水注。銀板で各部分を鎚鍛し、蠟付して形成している。身はふっくらとした阿古陀形で肩が大きく張り、口は立ち上がりを高くして、肩に稜をたてた注口を付け、底には裾開きの高台を設けている。蓋は被せ蓋で、甲盛りがあり、頂に宝珠形の鈕をつけている。胴から底へとすぼまる所と口の立ち上がりに、丸みを帯びた扁平な把手を取り付け、把手上方の鎧と蓋の鈕際を鎖で繋いでいる。
中国における銀製のこのような把手付きの水注は陝西省か872年の年号を記した宣徽酒坊銘のある作をはじめ唐時代には少なからず見られる。概してそれらは胴がやや細く、縦長の形状を示していて、この銀壺のように胴が大きな作は見られない。東側室にあったもので、この室には青磁碗や托、匙など生活に関わる用具の副葬品が多く納められていたという。
陳国公主墓東側室出土水注 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


青磁輪花碗 1口 磁器 11世紀前半 高7・口径18.8・底径6 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、高台を削り出し、高台際から丸みを帯びながら体部をつくり、若干反り返る形で口縁にいたる。体部には均等に10ヶ所に棒状のものを押し当てて輪花を成形する。全般に軽く、胎土は精錬され灰色を呈する。釉は濃いオリーブグリーンの色を出しており、全面施釉後、畳付を中心に削り取っている。そして、僅かではあるが高台の内側に砂が付着している。契丹の領域内において、青磁はごく一部の例外を除いて、基本的には中原地方からもたらされたものが中心である。本作品は陝西省耀州窯で作られた11世紀前半の典型的な器形であり、越州窯とは趣の異なる北方青磁の優品であるという。
陳国公主墓東側室出土水注 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


盞托 1口 銀 11世紀前半 総高7.7・口径8.2・底径6.5 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、銀製の茶盞托。土居、羽、酸漿の3部分をそれぞれ、薄い銀板を鎚鍛して、蠟付している。土居(高台)は、底へと外反して、側面に「中」字のような符号を線刻する。また羽は浅く反らせ、酸漿は鋺形を呈している。中国で茶が飲まれるようになったのは唐時代からで、西安和平門から大中14年(860)の銘がある銀製の盞托が出土している。契丹で飲茶が行われるようになったのは唐の影響であり、公主の日常用具として副葬されたと見られる。東側室にの銀壺の近くに置かれていたという。
陳国公主墓東側室出土盞托 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


銅広口盆 1口 銅 11世紀前半  高19.2・口径57.3・底径32.3 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、朝顔形に底から口へと大きく開いた盆で、青銅を鎚鍛して成形している。
この盆の製作地はイランと考えられており、同地からもたらされたものは、このほかにもガラス製品が7点陳国公主墓から副葬品として発見されている。『契丹国志』にある大食国(イスラム圏の国)との交渉が具体的に窺われる。墓室の供物台の下に置かれていたという。
陳国公主墓東側室出土銅広口盆 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より

細部の文様
同展図録は、内側の縁下の側面に圏線を数条線刻して、魚々子による連円文を上下に巡らし、その間に幾何学文を表し、その余白は魚々子を密に隙間なく打っている。また底には大きな円文を2条1組で3条、同心円状に線刻し、その内に六芒星文と円文を表し、余白に魚々子を打っているという。
陳国公主墓東側室出土銅広口盆の文様 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


水晶杯 11世紀前半 陳国公主・駙馬合葬墓出土

陳国公主墓墓室出土 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より



関連記事

参考文献
「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス 展図録」 編集九州国立博物館 2011年 西日本新聞社
「図説中国文明史8 草原の文明 遼西夏金元」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社

2023/03/17

遼の公主墓にもイスラームガラス


2012年、大阪市立美術館で「草原の王朝契丹 美しき3人のプリンセス展」を見た。その3人のプリンセスの中に遼の陳国公主(開泰7年、1018没)が含まれていて、さまざまな副葬品が展示されていて、その中にイスラームガラス容器が2点あった。


ガラス幾何学文瓶 開泰7年(1018) イスラームガラス 高25㎝口径7.5㎝ 底径11㎝ 内モンゴル自治区通遼市ナイマン旗陳国公主墓出土 内蒙古文物考古研究所蔵
『草原の文明契丹展図録』は、水平に広がる大きな口縁部と少し上部が拓ずった湯桶状の円筒形同部を円錐形長頸がつないでいる。胴部と頸部の高さの割合はほぼ同じである。わずかに凹んだ底にはポンテ痕が認められるため、宙吹き技法で作られた。比較的薄手の胴部に対し、底は少し厚めに仕上げられている。器体には気泡が見られ、一部に銀化が認められる。頸部、肩部と胴部に、同心円や幾何学文などを削りだしている。
器形は10-11世紀にペルシャで作られたガラス器と一致することから、本作品もその頃ペルシャで造られ、シルクロードを経由して内蒙古まで運ばれてきたものと考えられる。
陳国公主墓は1018年に埋葬されていることから、この長頸瓶については、ペルシャでの制作後あまり時間を経ずにプリンセスとともに副葬されたことになるという。
藍玻璃刻花葡萄唐草文盤の文様の繊細さとは反対に、胴部を巡る文様は雑な仕事のように感じる。
内蒙古文物考古研究所蔵陳国公主墓出土ガラス幾何学文瓶 11世紀前半  『草原の王朝契丹展図録』より


ガラス長頸瓶 開泰7年(1018) 東地中海地方製作(イスラームガラス) 高17㎝口径6㎝胴径9.5㎝底径5.8㎝ 同墓出土 内蒙古文物考古研究所蔵
同展図録は、逆円錐形の頸部は球形の胴部に取り付けられ、円座をともなう。紐状ガラスを網目状に10段重ねて厚手の口縁部と球形の胴部をつなぐ取手とするほか、胴部には乳状突起を5段にわたって作り装飾としている。底面にはポンテ痕がみられることから、宙吹き技法で器形をととのえられている。器胎には気泡が見られ、表面は一部銀化している。口縁部上面に、淡青色のエナメル彩色を加えている。
成分分析によれば、この作品は酸化ナトリウム(20.6%)を多く含んでおり、エジプトやシリアで製造されたガラスの組成割合とよく似ているため、東地中海地方で制作されたものと考えられるという。
器形自体が完成度の高くない作品に見える。そして乳状突起も形が整っておらず、配置も適当な印象を受ける。
それでもイスラームガラスは、珍重され、副葬されるほど貴重なものだったのだろう。
内蒙古文物考古研究所蔵陳国公主墓出土ガラス長頸瓶 1018年  『草原の王朝契丹展図録』より


陳国公主墓出土のガラス容器は別の書物にも記載されていた。

玻璃突起装飾鉢 11世紀 イスラームガラス 高6.8㎝口径25.5㎝ 
内モンゴル自治区哲里木盟奈曼旗青龍山鎮遼陳国公主駙馬合葬墓出土 内蒙古自治区文物考古研究所蔵
『世界美術大全集東洋編5』で真道洋子氏は、無色透明で、表面が白く銀化している。底部から口縁部にかけて、なめらかに広がりながら立ち上がっている。底部の高台と胴部中央部の突起状の装飾は本体から削り出されており、このことから判断すると、製作の初期段階で鋳型や研磨技法を用い、本体はかなり厚手に作っていたと考えられる。突起部分はかなり鋭利に突出しており、高度な技が必要であったと思われる。このような研磨技法は、イラク、イラン方面で古くから技術伝統が存在しているが、この例のような器形と装飾の組み合わせはきわめてまれで、貴重な資料であるという。
イランで制作された浮出円形切子碗は6世紀頃のもの。その後このようなガラス器はすたれたのだと思っていた。器形も突起の形も異なるが、11世紀に突然出現したとは思われない。おそらく連綿と続いていたのだろう。 
内蒙古自治区文物考古研究所蔵遼陳国公主駙馬合葬墓出土玻璃突起装飾鉢 11世紀  『世界美術大全集東洋編5』より


陳国公主の墓はいろいろな書き方があって混乱するが、「内モンゴル自治区哲里木盟奈曼旗青龍山鎮遼陳国公主駙馬合葬墓」は、後に行政区名が変わって「内モンゴル自治区通遼市奈曼(ナイマン)旗陳国公主墓出土」となった。
また、墓名も2つあるが、陳国公主は遼第6代皇帝聖宗の同母弟耶律隆慶の娘、夫の府(駙)馬は蕭紹矩、聖宗の妻仁徳皇后の兄で公主よりも先に亡くなり、公主は死後夫の墓に合葬された( 『図説中国文明史8』を要約)。


関連記事

参考文献
「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス 展図録」 編集九州国立博物館 2011年 西日本新聞社
「図説中国文明史8 草原の文明 遼西夏金元」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社

2023/03/10

北宋・遼のガラス


北宋・遼の時代には、不思議な形のガラス製品がつくられている。現代作家たちの書物や展示会などを驚きをもって見ていったのと同じように、興味がつきない。
前回に引き続き、北宋・遼時代の塔基や墓室から発見されたガラスを見ていくと、


玻璃三足壺 北宋・10世紀 中国 高8.8㎝口径3.1㎝ 河南省新密市法海寺塔塔基出土 新密市人民文化館蔵
同書で真道洋子氏は、この3本の足を持つ壺形の容器は、河南省密県(新密市)法海寺の北宋代の塔基から発見された、瓢形瓶をはじめとする一連のガラス製品の一つである。丸くふくらんだ胴部に短い頸部がついており、頸部と胴部の境目には、くっきりとしたくびれがついている。おそらく、はさみのような道具ではさんだのであろう。口縁部は内側に折り返されている。
この容器でもっとも特徴的な点は、容器の下部につけられた3本の足である。溶けたガラスを容器本体に当てて引き伸ばし、先端部を少し折り返し、安定した足を作り出している。これによって、この容器は中国古代から存在する鼎に類似した器形になっている。あるいは、この形状を意識して製作されたものかもしれないという。
3本の脚で器体を支えるものは、中国の鼎だけでなく、ギリシアの幾何学様式時代(前1050-700年)でも脚の長い青銅製の鼎があった。実用品であったものが、神殿への奉納品となっていったという。
また、黒海とカスピ海の間にあるカフカス(コーカサス)山脈の南方にあったウラルトゥ(前9-6世紀)でも三脚の上に大鍋をおくということが行われていたという。
なぜ椅子のように四脚ではなく三脚なのだろう。四脚では床や地面が真っ平らでないとガタガタする。三脚ならどんなところに置いても安定すると昔聞いたことがある。三脚は伝播していったというよりは、経験的に分かったものなのだろう。
それにしても凝った脚である。
河南省新密市法海寺塔塔基出土新密市人民文化館蔵 玻璃三足壺 北宋・10世紀  『世界美術大全集東洋編5』より


玻璃鳥形裝飾 北宋・10世紀 中国 高6.0㎝ 河南省新密市法海寺塔塔基出土 河南省、新密市人民文化館蔵
真道洋子氏は、法海寺の塔基から、他の小型のガラス容器とともに発見された製品の一つである。
淡い緑色の透明素材で作られており、現在は、表面の一部が白く銀化している。丸く吹いた胴部の中央にガラス紐が巻かれ、さらにその紐部分と肩部をガラス紐でつなぎ、そこにリング状のガラス紐が二つ吊り下げられている。鳥の首部分は長く、最後にガラスの先端をはさんで仕上げ、鳥の顔の部分を作り出しているという。
上の鼎と同じガラス工房、あるいは工人によって製作されたものだろうか。腕の見せどころが満載の作品だ。
 河南省新密市法海寺塔塔基出土新密市人民文化館蔵玻璃鳥形裝飾 北宋・10世紀 『世界美術大全集東洋編5』より


玻璃鳥形裝飾を見ていると、イスラームガラスの影響が思い浮かぶ。
『イスラーム・ガラス』は、紐装飾は、ローマ・ガラスで最も多用されていた加飾技法であり、現代に至るまで長く行われてきた最も普遍的な装飾技法である。しかし、紐装飾と一口に言っても、細部を見れば形態は多様である。容器の頸部や胴部に螺旋状に細いガラス紐を巻き付ける形態が基本であるが、紐の幅や本体への溶け込み方、色調なども様々である。
ガラス紐を単純に巻き付ける以外にも、巻き付けた紐を波状やジグザグ状、蛇行状にしたり、三角、八の字状、星形に細工したりする例に見られるように、より装飾的にガラス紐を細工することも行われているという。
上の2作品よりもずっと複雑な装飾だが、このような紐装飾のガラス容器の請来によって、中国のガラス工人が触発され作られた作品という可能性もあるのでは。
出光美術館蔵貼付・紐装飾容器 『イスラーム・ガラス』より


玻璃方形四足盤 遼・10世紀 中国 高2.0㎝長9.9㎝ 遼寧省瀋陽市法庫県葉茂台鄉葉茂台7号遼墓出土 遼寧省博物館蔵
真道洋子氏は、4本の足を持つ小型の盤。緑色の小さな盤で、周囲は銀で縁取られている。4-5㎜の厚さがあり、比較的厚手である。厚さ2㎝ほどの鋳造したガラスの塊から、内部と脚部を削り出していったものと考えられている。上から見ると、中央部に円形の彫り込みがあり、そのまわりから四隅に向けて葉状の削りが4か所配置されている。そして、その葉状の裏面に、削り出された4本の足が存在している。
この製品の類例は乏しく、製造地に関しても中国説と中近東説に分かれており、定まっていないという。
これは四脚だが、ガタガタしないように入念に削られたのだろう。
中国のガラス製品と中近東のガラス製品では成分が異なるのでは?とは言っても同書は四半世紀も前に出版されたもの。現在ではどちらか判明しているかも。
でも、真道氏はその著書 『イスラーム・ガラス』を出版される以前にトルコで交通事故に遭い亡くなった。
 遼寧省瀋陽市法庫県葉茂台鄉葉茂台7号遼墓出土遼寧省博物館蔵 遼・10世紀 『世界美術大全集東洋編5』より


玻璃葡萄房 北宋・10世紀 中国 長16.0㎝ 河北省定州市静志寺真身舎利塔塔基地宮出土 定州市博物館蔵
真道洋子氏は、静志寺の塔基から発見された葡萄房のガラス細工は、じつに繊細で写実的に表現されている。一粒一粒が不透明の暗紫褐色ガラスでできており、銀化によって多少変色している。粒の大きさは1-2㎝ほどで、全部で39粒残っている。細い吹き棹で一つずつ吹いたのであろうか。内部は中空で、外面に渦を巻くような筋が見られる。成分は高鉛ガラスであり、中国で製作されたものと考えられている。
房を束ねる茎の部分は紙製で、細く撚り合わされている。時間の経過によって茶色に変色しており、それが、より実物に近い印象を作り出しているという。
経年変化のために、本物のブドウのようにブルームがついているよう。銀化と共にガラス作家の意図しない現象が、作品を別物に見せることもあるのだ。
 河北省定州市静志寺真身舎利塔塔基地宮出土定州市博物館蔵玻璃葡萄房 北宋・10世紀『世界美術大全集東洋編5』より



参考文献
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館
「草原の王朝 契丹 美しき3人のプリンセス 展図録」 編集九州国立博物館 2011年 西日本新聞社
「図説中国文明史8 草原の文明 遼西夏金元」 稲畑耕一郎監修 2006年 創元社

2023/03/03

中国に渡来したイスラームガラス


前回南宋時代の仏画に阿弥陀如来や観音菩薩がガラス容器を持っているものが中国で作られたものではないことに気がついた。そこで今回はイスラームガラスに似たものがないか調べてみた。

阿弥陀三尊像 南宋時代・13世紀 絹本著色 川崎美術館旧蔵・九州国立博物館蔵
『よみがえる川崎美術館展図録』は、阿弥陀如来は正面を向き、右手は施無畏印とし、左手は腹前で掌を上に向けて水瓶らしきものを捧げ持つという。
細長い首に丸い胴部の水瓶で、紺色か緑色のよう。
九州国立博物館蔵阿弥陀三尊像部分 南宋・13世紀  『よみがえる川崎美術館展図録』より


グリーン・ガラスの瓶 7-8世紀 口縁部径2-3㎝ フスタート出土 アテネ、ベナキ美術館蔵
『イスラーム・ガラス』は、イスラーム最初期から存在する器形として、口端を内側に折り返した口縁部と細長い円筒形の頸部に、球状の胴部を持つ特徴的な小瓶である。これは7-8世紀のシリア、エジプトに広く分布する(Hadad 2005、 nos.182-188)。また、フスタート遺跡やラーヤ遺跡の出土品では、折り返し方にやや差があるものの、口縁部はほぼ真横に外側へと折れ、口端を内側に折り返しているという。
径が2㎝とすると、高さは10-15㎝ほどだろう。
ベナキ美術館蔵グリーン・ガラス瓶  『イスラーム・ガラス』より

同書は、グリーン・ガラスの色調に関しては、オリーブグリーンから緑、青緑などの緑系の幅広い色調および濃淡差が見られる。考古学的見地と化学組成の両面から、グリーン・ガラスが8世紀に製作されたものであることは明らかである。
9世紀になると、この時期の化学組成と推定されているFustat-Chunk-2がガラス溶解用のタンクの壁に付着していたことから、フスタートでガラス素材作成の第一次溶解も開始されていたことは確実である。
器形に関しては、グリーン・ガラスの完形品が残っていないため推定になるが、瓶とビーカーが存在していることがわかるという。
フスタート出土グリーン・ガラス原料塊  『イスラーム・ガラス』より

しかしながら、阿弥陀三尊像が描かれたのは南宋時代(13世紀)なので、フスタートで製作されてから時間が経ちすぎているし、仏画のガラス器は球形というよりもやや下ぶくれの形に見える。


阿弥陀三尊像内観音菩薩立像 南宋・12世紀後半 普悦筆 絹本着色京都市清浄華院蔵
『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』は、宝冠に阿弥陀如来の化仏いただく向かって右の観音は、左手に捧げ持つガラス碗に右手先でつまんだ柳枝を遊ばせているという。
確かに壺ではなく口が開いた小鉢のよう。他にも瓔珞などの飾りが描かれていて、それらもとんぼ玉かも知れない。
清浄華院蔵阿弥陀三尊うち観音像 南宋・12世紀後半  『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より


型装飾筒形容器 9-10世紀 高さ8㎝直径11.1㎝ コペンハーゲン、ダヴィード・コレクション 
『イスラーム・ガラス』は、イスラーム・ガラスにおける型装飾は、型に凹凸の文様を付けてその中に熱いガラス種を吹き込むことでガラスに文様を写し取っている。ダヴィード・コレクションなどには、型装飾のための金属製の型が保管されている。このような金属型は複数回使用することができた。
中東地域、おそらくシリアで使用されたのではないかと考えられているという。
この作品は円筒形に立ち上がっているが、仏画のガラス器は底径から口径へと少し広がっている。ぼんやりとであるが、文様が施されているように感じる。
ダヴィード・コレクション型装飾筒形容器 9-10世紀  『イスラーム・ガラス』より

イスラーム・ガラスの容器類 コルドバ、マディナート・ザフラー出土 ルーヴル美術館蔵
下段の高台のある丸まった底のある深碗形容器は色が薄いが、このような器の方が近いかも。
それとも前回紹介した中国で製作された玻璃広口鉢(北宋・10世紀)だろうか。
ルーヴル美術館蔵マディナート・ザフラー出土イスラーム・ガラス容器  『イスラーム・ガラス』より 


阿弥陀净土図 阿弥陀三尊像の観音菩薩立像 南宋・淳熙10年(1183) 絹本着色 知恩院蔵
旧川崎美術館蔵阿弥陀三尊像の阿弥陀如来が持つガラス器を細長くしたような形。底が非常に小さいので、スタンドでもなければとても立たないのではないだろうか。
知恩院蔵阿弥陀浄土図部分 南宋·淳熙10年(1183) 『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』より

形が似ているものには、

練り込み紐装飾容器 ニューヨーク、コーニング・ガラス美術館蔵
 『イスラーム・ガラス』は、巻き付けた紐を容器本体に練り込んで一体化させる装飾は、紀元前2000年紀半ばのガラス容器出現の時から見られる技法で、本体に巻き付けた色ガラス紐を引っ掻いて波状文や羽状文にして装飾性を高めている。その当時は容器本体の成形法はコア技法によるもので、イスラーム・ガラスの吹き技法による成形法とはまったく異なっていた。しかも古代オリエントでの練り込み紐装飾は不透明の多色であったが、イスラーム・ガラスでは主に青や紫、緑などの容器本体の色の上に不透明白のガラスを巻き付けている。これはローマ・ガラスでもすでに見られた装飾であるが、イスラーム・ガラスでは9世紀頃から盛り返し、12-13世紀を中心に流行したフスタート遺跡出土品に見られる練り込み紐装飾になると、きれいに発色して輝きのある青や紫、緑の色ガラスの上に、白の消色ガラス紐で直線、波状、羽状の文様が描かれ、ガラス紐部分は完全に容器と一体化して、凸部分は残されていない。
この装飾は、イスラーム文化圏からヴェネツィアにわたり、ヨーロッパのガラス工芸に浸透していったという。
白いガラスは口縁部にやや盛り上がりが残っているようなので、12世紀以前の作品だろうか。
仏画にはこのような白いガラスの練り込みはないが、この時代に流行した形かも知れない。
練り込み紐装飾容器 12世紀以前か コーニング・ガラス美術館蔵  『イスラーム・ガラス』より


仏画のガラス容器とは全く異なるが、中国にもたらされたイスラームガラス器は他にもある。

藍玻璃刻花葡萄唐草文盤 9世紀 イスラームガラス 高2.3㎝口径20.2㎝ 陝西省扶風県法門寺真身塔塔基地宮出土 法門寺博物館蔵
『世界美術大全集東洋編5』で真道洋子氏は、法門寺の地宮は乾符元年(874)に埋納されて以来開帳されておらず、約20点のガラス器を含む9世紀末までの文物をよく保存している。
盤の内側に先端のとがった道具で複雑な幾何文が彫られており、鍍金されているものもある。これに類似した盤はイランのニーシャープールにあるほか、同類の装飾技法を用いた製品は、イラクのサーマッラー、エジプトのフスタートからも出土している。このほかにも、シリアおよびイラン方面の初期イスラーム・ガラスの特徴を備えた出土品として、無装飾の青色盤、円環状と星形の貼付装飾が施された瓶、器具を用いて装飾された杯、ラスター彩碗などが発見されているという。
中央の矩形に石畳文が彫られているが、その線が微妙に真っ直ぐでないために味わいがある。イスラームの文様らしく、組紐の輪郭で仕切られ、その四面を尖頭アーチが囲み、その形がモスクのドームを想起させる。
石畳文だけでなく、文様の背景に極細の線が密に彫られていて、金粉あるいは金箔を埋め込む沈金のような仕上がりになっているのだろうか。
法門寺博物館蔵陝西省扶風県法門寺真身塔塔基地宮出土藍玻璃刻花葡萄唐草文盤 9世紀  『世界美術大全集東洋編5』より


玻璃細頸瓶・玻璃筒形坏 河北省定州市静志寺真身舍利塔塔基地宮出土 定州市博物館蔵
左:玻璃細頸瓶 9-10世紀 エジプト(イスラーム時代) 高17.7㎝ 胴径9.8㎝ 
同書は、切り離したままの口縁で、底部にポンテ痕はない。これは、ガラスをふくらませて胴部を引き伸ばした後に切り離しただけの、非常にシンプルな作りである。こうした瓶は、イラクのサーマッラー、シリアのハマー、エジプトのフスタートなど、中近東各地で発見されている。フスタートでは、コバルトを呈色剤とする製品と、原料として用いられたフリット(原料用の一次熔解ガラス)の両方が発見されている。コバルトを含む原料が輸入され、エジプトで製作されたことを示す貴重な資料であるという。

右:玻璃筒形坏 9-10世紀 高8.0㎝
濃青円筒形の坏
定州市博物館蔵河北省定州市静志寺真身舍利塔塔基地宮出土玻璃細頸瓶・玻璃筒形坏  『世界美術大全集東洋編5より』


璃切子瓶・玻璃瓶 イスラームガラス 河北省定州市静志寺真身舍利塔塔基地宮出土 定州市博物館蔵 
 『世界美術大全集東洋編5』で真道洋子氏は、静志寺の舎利塔は、北宋太平興国2年(977)に重修、封印されているが、この時代の宝物のほかに、塔基内部には北魏・隋・唐代の石函も埋蔵されており、隋代の青銅鍍金舎利函の銘文に玻璃(ガラス器)を奉納したと記されている。
ここからは、玻璃瓢形瓶10点、玻璃広口鉢1点、玻璃葡萄房1点の中国製ガラス、そして、8点のイスラーム・ガラスが発見されたという。

右:玻璃瓶 9-10世紀 高7.2㎝
やや小型で、肩部に丸みがあり、底部が厚くなったほぼ同形の無装飾小瓶も発見されており、蛍光X線分析の結果、アルカリ石灰ガラスであると判明しているという。

左:玻璃切子瓶 10世紀 高8.9㎝ 
全面にウィール・カット(旋盤による切子)装飾をともなう小瓶で、頸部および胴部とも円筒形であり、同類の製品は安徽省無為県の朱塔の塔基からも発見されているという。
定州市博物館蔵河北省定州市静志寺真身舍利塔塔基地宮出土玻璃切子瓶・玻璃瓶  『世界美術大全集東洋編5より』


玻璃切子瓶 10世紀 イスラームガラス 高12.5㎝ 安徽省無為宋塔基壇出土
同書は、安徽省無為宋塔の基壇から出土した、カット装飾が施された青緑色の小瓶は、典型的なイスラーム・ガラスで、イラン方面で製作されたものと考えられている。
製作技法は基本的には宙吹き技法であるが、形を整えるために、製作過程で型を用いたと考えられる。口縁部は焼き直して整えられた円形口縁で 底部は平底である。円筒形の頸部および胴部には、イラン方面で特徴的な幾何文が線カットで描かれているという。

また、『イスラーム・ガラス』で同氏は、カット装飾の一つである刻線装飾ガラスは、8世紀後半には登場したと考えられている。
10世紀末には、ほかのカット装飾とともに補助的に使用されることはあっても単独の装飾技法としては姿を消していたようであるという。
安徽省無為宋塔基壇出土玻璃切子瓶 10世紀  『世界美術大全集東洋編5』より


玻璃金蓋付把手瓶 10世紀 イスラームガラスか 高16.0㎝ 遼寧省朝陽市北塔出土 瀋陽市、遼寧省文物考古研究所蔵
 『世界美術大全集東洋編5』で真道洋子氏は、遼寧省朝陽市の遼代の北塔から出土した単把手の瓶は、わが国の正倉院に保管されていた白瑠璃瓶とほぼ同形である。しかし、中国の例は、瓶の内部にさらにガラスの小瓶が入れ込まれて二重となった、当時としてはきわめてめずらしい製品である。さらに、金の蓋がとりつけられている。
外側の把手瓶は、口縁部の一方をつまみ出してとがらせている。胴部は自然と下部に向かってふくらんでいる。底部は環状の台があり、安定がよくなっている。把手は口縁部から底部の下方に向けて直線的に伸び、把手を傾けて中の液体を注ぐときに親指を当てるための突起が丈夫につけられている。この器形はイランの金属器に一般的なもので、ガラス器にも同種の器形が存在している。内部の小瓶は、円筒形の頸部に、胴部から底部にかけてすぼまった状態の形状をしている。先に作っておいた小瓶を中に取り込むようにして、後から外部の把手瓶を作ったものと考えられるという。
遼寧省朝陽市北塔出土遼寧省文物考古研究所蔵玻璃金蓋付把手瓶 10世紀  『世界美術大全集東洋編5』より

イスラームガラス器さまざま スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『イスラーム・ガラス』は、ニーシャープールで見られるような高級ガラスではなく、主に日常生活で用いられた器類である。器種は、瓶および小瓶類、碗類、吸角器など、装飾技法では貼付装飾、紐装飾、カット装飾など初期イスラーム期の典型的な種類を見ることができるという。
向かって右から2番目に、ひときわ高い紫にも濃紺にも見える把手付瓶が置かれている。胴部に紐装飾が施されている。
その形から、玻璃金蓋付把手瓶もイスラームガラスであることは間違いだろう。
スーサ出土イスラーム・ガラス容器さまざま  『イスラーム・ガラス』より

注口付き単把手瓶 出光美術館蔵
『イスラーム・ガラス』は、口縁部の直下がすぼまっており、口縁部には注ぎ口となる尖った部分がある。頸部はほとんどなく、胴部は下膨れの形状が多く、底部には管状の高台が見られる例が多いという。
把手が小さいこと頸部に貼付の、胴部に一周する貼付状のものがあること以外は、朝陽市北塔出土の玻璃金蓋付把手瓶に似ている。
出光美術館蔵注口付き単把手瓶 『イスラーム・ガラス』より 

そして正倉院に収まっていたものは、

白瑠璃瓶 正倉院宝物
『正倉院とシルクロード』は、正倉院宝物の『白瑠璃碗』が「型吹き」の技法で製作されたのに対して、この作品は「宙吹き」の手法で製作されている。同種の作品はイラン高原でも出土しており、また当時の日本にこれだけのガラス製容器を製作する技術が既に存在していたとは考えられない点からして、当然この『白瑠璃瓶』も遠くイラン高原から流沙を越えて中国へ、更に日本に将来されたものと推測される。
ササン朝ペルシア時代のガラス製水瓶は当時の金属器の写しであり、ために胴部の側面の流れはきわめて直線的であるのに対して、初期イスラーム時代(8-9世紀ころ)になるとガラス製容器の製作技法は、とくに水瓶の宙吹きの技法が特に進歩し、ガラス独自の流水的な美しい胴部の線をみるようになる。この『白瑠璃瓶』にみられる胴部の曲線美もまたそれであり、その点からすれば初期イスラーム時代すなわち7世紀後半以降の製作ともなり、中国から日本に将来された時期も更にくだる時期と考えられようかという。
頸部に紐装飾はなく、胴部への膨らみは、上部は出光美術館蔵品に近く、胴部の張りは朝陽市北塔品に近い。また、把手も両者の中間である。
宮内庁蔵正倉院宝物白瑠璃瓶 『正倉院とシルクロード』より


玻璃·瑪瑙舍利、玻璃舍利瓶、金舍利盒 イスラームガラス他 10-11世紀 (金舍利盒)高8.8㎝幅3.6㎝ 陝西省西安市鉄仏寺塔基出土 陕西省、西安市文物園林局蔵
真道洋子氏は、陝西省西安市の鉄仏寺塔基に奉納されていた方形の小瓶は、典型的なイスラーム・ガラスの器形である。本来、中近東地域では、化粧顔料などを入れる容器として使用されていたものである。朝貢品目の中に、「眼薬を入れた玻璃容器」という記述があるが、それはおそらくこのような器形の小瓶であったと想定される。しかし、鉄仏寺出土の小瓶中には、舎利に見立てた瑪瑙とガラスからなる小珠が入れられ、白石で蓋がされていた。さらに、これが舎利容器であることが明記された金の舎利盒に収められていた。このことは、本来、別の用途で用いられるガラス器が、舎利容器に転用されたことを示しているという。
この時代、イスラーム圏ではごく普通に使用されていたガラス容器のようだが、これまで見たことがない形だ。四方を平面にして、曲面の肩の上に長い円筒形の首がつく。
西安市文物園林局蔵鉄仏寺塔基出土玻璃舍利瓶 10-11世紀  『世界美術大全集東洋編5』より


小型容器 ニーシャープール出土 イラン国立博物館蔵
『イスラーム・ガラス』は、すべての面が長方形の、長方体の胴部を持つ小瓶。香水瓶のようであるが、これもまたクフル顔料が内部に残存して発見されている例があることから、クフル顔料用容器であった可能性が高いという。
クフル顔料とは黒いアイラインを引くものらしい。上の玻璃舎利瓶によく似ている。
イラン国立博物館蔵ニーシャープール出土小型容器 『イスラーム・ガラス』より



玻璃把手杯 11世紀 イラン(テュルク系のセルジューク朝)より請来か 高11.4㎝口径9.0㎝ 内モンゴル自治区哲里木盟奈曼旗青龍山鎮遼陳国公主駙馬合葬墓出土 呼和浩特市、内蒙古自治区文物考古研究所蔵
同書で真道洋子氏は、内モンゴル自治区の陳国公主墓と遼寧省の耿延毅墓からは、ほぼ同形の把手瓶が出土している。陳国公主墓からは同種の把手杯が2点出土しており、完全な形で出土した。
製品は濃緑色で、宙吹き技法で製作されており、ポンテ痕も残されている。頸部は中央がややふくらんだ円筒形で、口縁部は焼き直されている。底部は低い高台があり、中央部が盛り上がっている。胴部の丈は頸部よりも短く、肩部が張り出しているのが特徴である。指当て把手のある単把手瓶の類例はイランのガラス器にも見られ、この玻璃把手杯も中近東地域、もしくはその近隣で製作されたものと考えられる。しかし、イランの例では胴部がほぼ球体であるのに対し、中国出土の例は、逆円錐形をしている点で異なっている。耿延毅墓と陳国公主墓の出土品はともに埋葬年代も近く、ほぼ同時期に中国にもたらされたものと考えられるという。
頸部が巨大で胴部が極端に小さいので、美しい器体とは思えないが、当時は西方より請来された貴重なガラス容器として珍重されたのだろう。
内蒙古自治区文物考古研究所蔵内モンゴル自治区遼陳国公主駙馬合葬墓出土玻璃把手瓶 11世紀 『世界美術大全集東洋編5』より

頸部が巨大で胴部が小さいガラス容器を『イスラーム・ガラス』で見つけた。

ガラス双耳壺 12世紀 スペイン、ムルシア出土
同書はで真道洋子氏は、ムラービト朝、ついでムワッヒド朝の支配下に入った12世紀以降、イベリア半島において実用的なガラス器の製作・使用が開始されたようである。
装飾ガラスの中で比率が高い型装飾ガラスを見ると、この地域の土器や陶器に特徴的な双耳壺を模した器形がある。この器形は東方のイスラーム・ガラスの中心地では一般的な器形ではなく、まさにこの土地のローカル性を示す器形と言えるという。
上の玻璃把手杯にもう一つ把手をつけるとそっくり。しかも双耳壺はスペインでもムルシアという地方で特徴的な土器や陶器の形ならば、玻璃把手坏は双耳壺の片方の把手が壊れてしまったものではないだろうか。
イスラーム・ガラスには違いないが、スペインからはるばる運ばれたガラス容器が、陳国公主の墓に眠っていたとは! と締めたかったが、時代が合わないことに気がついた。
スペイン、ムルシア出土ガラス双耳壺 12世紀 『イスラーム・ガラス』より


ガラス水注 10-12世紀 イスラームガラス 高12.7㎝底径5.8㎝ シリンゴル盟正藍旗ザンギンーダライ収集 内蒙古博物院蔵
同展図録は、藍色のガラスで、表面はかなり銀化している。注ぎ口は鴨の嘴状に整形され、弧を描く取っ手は半円形の当て具の突起とともに口縁部に取り付けられている。少し膨らんだ胴部中央部にはガラスでできた装飾帯が巡り、下には2重の円形台座がおかれている。底の内側には凹みがあり、ポンテ痕がみられることから、この作品も宙吹き技法によるものである。
西アジアあるいは中央アジアの雰囲気を色濃く示すこの作品は、イスラーム・ガラスに分類されるもので、その制作から遠くない時間に副葬されたと考えられる。契丹時代における西方との関係が大変密接なものであったことを物語っているという。
銀化の色合いが強烈で、厚作りの器体が洗練された形ではないことを、より印象付ける。
内蒙古博物院蔵シリンゴル盟正藍旗サンギーンダライ収集ガラス水注 11-12世紀  『草原の王朝契丹展図録』より


最後に、このようにガラス容器の研究をされていた著書の真道洋子氏について、 『イスラーム・ガラス』を監修された枡屋友子氏の以下の文で、真道洋子氏の訃報を知った。
2018年9月初めにイスタンブルで開催された国際ガラス史学会第21回大会に出席した真道は学会終了の翌日交通事故に遭い、同13日帰らぬ人となった。享年57歳。志半ばの本人にとってどれだけ無念であったことか、想像もできない。本書も初稿が出来上がって、刊行に向けていよいよ佳境に入るところであったし、次の発掘現場も彼女の参加を待っていたであろう。これからますます自由に研究の翼を広げるところだったはずである。かけがえのないイスラーム・ガラス考古学者であり、イスラーム物質文化」研究の同志であり、気の置けない友人であった真道洋子の死を心より悼む。



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参考文献
「よみがえる川崎美術館-川崎正蔵が守り伝えた美への招待-展図録」 神戸市立博物館・毎日新聞社 2022年 神戸市立博物館・神戸新聞社・毎日新聞社・NHK
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編6 南宋・金」 2000年 小学館
「イスラーム・ガラス」 真道洋子著・枡屋友子監修 2020年 名古屋大学出版会
「太陽シリーズ 正倉院とシルクロード」 松本包夫監修 1981年 平凡社