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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/04/29

古代ローマ 共同浴場


古代ローマの公衆浴場について『古代ローマ人の危機管理』は、古代ローマに登場したテルマエは、お風呂そのものよりも、お風呂以外の機能、例えば体操場などのレクリエーション、あるいは教育、社交、さらに治療・養生などの副次的な機能が期待される場合に使われる。テルマエの出現によって、入浴が一気に娯楽化し、生活や文化の一部を形成するようになったのであ る。首都ローマでは後4世紀には1日で数千人が利用できる大規模なテルマエが11箇所も存在し、呼び名は別としてもオスティアにも公衆浴場が少なくとも17箇所で確認できるという。
そんなに多かったとは。

オスティア・アンティカのフォロの浴場を見学した際、温浴室で当時としては大きいと感じた湯船や、

南面のパレストラ(運動場)側にアプス状の出っ張りに並ぶ2本の円柱などが残っていた。

そして『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』で、その張り出し部にも湯船があったことを知った。現在では取り除かれて、上の写真のように、排水口のようなものが露出している。
オスティア・アンティカ フォロの浴場の温浴室 『ANCIENT OSTIA』より

しかしながら、その想像復元図には疑問があった。南側の列柱が並ぶところには壁がなかったとは思われないし、まして大きな板ガラスが嵌め込まれていたとも思えない。
これでは外気が入ってきて、夏以外は寒かったのでは?
オスティア・アンティカ フォロの浴場温浴室の想像復元図 『ANCIENT OSTIA』より


そう思ったが、『古代ローマ人の危機管理』には、エルコラーノ(ヘルクラネウム)郊外浴場温浴室についての詳しい記述があり、また、窓ガラスが嵌まった写真も掲載されていた。
エルコラーノ郊外浴場外観 『古代ローマ人の危機管理』より

そこで、エルコラーノを見学した時の写真を見直すと、後79年に溶岩流で埋没した街ヘルクラネウム(現在のイタリア語ではエルコラーノとhを発音しない)の南東角を見下ろした時、四角い天窓がいくつかある平たい建物の遺構があった。
その時は何かわからなかったが、浴場の天窓だった。
『古代ローマ人の危機管理』は、「一日中陽光を入れることのできない浴室は、虫の喰った穴と呼ばれるだけであろう。皮膚を入浴でしめらせ、同時に日焼けさせなければならないのだ。また窓の外には田園風景や海が広がり、眺望も楽しむことができなければならない」(セネカ、Sen. Ep. 86)という新しい浴場が登場してくる。その実例として、ヘルクラネウムの「郊外浴場」がある。海岸沿いの崖下にあり、ヘルクラネウムの街ではもっとも低い場所に位置する。水道の供給を考えると、十分な水圧が確保できたはずである。南側の海に面する部屋には広い窓が穿たれ明るい浴室を実現していた。
熱効率を優先する以上に、伝統的、慣習的にバルネア、テルマエの窓は小さく、中は暗いものとして造られたと解するほかないだろう。しかし、後1世紀半ばころに発明された板ガラスをはめた広い窓によって浴室空間は劇的に変化し、セネカが求めた明るく景色のよい浴場が実現したのであるという。

回り込んで写した写真には、天井に四角い天窓がある階の南面には、確かに透明なガラスが嵌まっている。
『HERCULANEUM RECONSTRUCTED』は、この建物は、屋根がそのまま残っている数少ない建物の一つで、よく保存されているという。

拡大してみると、ほとんどの窓にガラスが嵌まっていて、アプスのような出っ張りの右の開口部のガラスは、横の方に立てかけてある。
でも、当時のものとはとても思えない。

同書は、天井の丸く大きな天窓(オクルス)によって光が入る前庭につながる当時の木製の①階段から入る。それぞれの部屋はローマ浴場では普通だった暖かさになっていたという。
しかしながらこの郊外浴場は閉まっていて、見学はできなかった。


『古代ローマ人の危機管理』の郊外浴場平面図(レーザースキャニングによる)
1:出入口階段 2:ホール 3:例浴室 4:プール 5:焚口(地下) 6:サウナ室 
7:ボイラー室 8:待合室 9:温浴室 10:浴槽 11:微温浴室 12:プール付温浴室          
エルコラーノ郊外浴場 平面図(レーザースキャニングによる) 『古代ローマ人の危機管理』より

同書による解説
③冷浴室(フリギダリウム)
アーチ型の天井の天窓から光が入る。砕いたレンガとモルタルで覆われた大きな浴槽と、第4様式の壁面装飾がある

⑥サウナ室
ラコニクム(サウナ)に蒸気を通して床や壁を暖める装置があった。また、直下にボイラーがない場合には、浴槽の底にある大きめの穴がボイラーにつながっていて追い焚きをしていたという。

⑪テピダリウム(微温浴室) 
テピダリウムには、中央に7人の神話の英雄が描かれた白い漆喰の壁がある。それは男性用であることを表している。木枠は当時の物で、注目に値する

⑫温浴室(プール付温浴室)
大理石の床と床板がある
それだけではなく、ほぼ部屋いっぱいにつくられた大きなプールの底には丸い穴がある。
同書は、直下にボイラーがない場合には、浴槽の底にある大きめの穴がボイラーにつながっていて追い焚きをしていたという、その穴だろう。
エルコラーノ郊外浴場プール付微温浴室 『HERCULANEUM RECONSTRUCTED』より

想像復元図
『古代ローマ人の危機管理』は、やっと温泉のようにふんだんに水が使えるようになったのであろう。後1世紀は、まさに「明るく」、「温かい」そして「清潔な」 新しい浴場、テルマエが登場する時期といえる。その中でも、トピックの窓でも取り上げたヘルクラネウムの「郊外浴場」は 、 テルマエの原形として、後の帝政期の大テルマエを想起させる「新しい浴場」である。
想像上のテーマの漆喰壁の装飾は、第4様式の装飾では一般的なものという。
エルコラーノ郊外浴場プール付微温浴室想像復元図 『HERCULANEUM RECONSTRUCTED』より


『古代ローマ人の危機管理』は、南側に広がるナポリ湾の眺望を楽しめる広い窓をもつヘルクラネウムの「郊外浴場」では、テピダリウム(微温浴室)やカルダリウム(温浴室)の浴槽に排水口があり、お湯はきちんと交換されていたようであるという。
これはオスティア・アンティカのフォロの浴場カルダリウムの写真。これを見た時に大きな排水口だと思ったが、やっぱりこれは排水口で間違いなかった。


古代ローマのハイポコースト
『古代ローマの危機管理』は、これは後のほとんどすべてのテルマエにいえることであるが、ボイラーは浴槽だけでなく、建物全体を暖めており、壁中に埋め込まれたチューブ状のレンガは壁の中に空気層を作ってボイラーからの熱気を循環させていた。おそらく壁を触ると人肌ほどには暖かかったはずであり、逆にボイラーを止めてしまうと、建物全体を暖めるのにずいぶん時間がかかったはずである。もし、お風呂のお湯を抜いて空焚きをすれば、 衛生上もかなり効果があったと思われる。
こうした仕組みの登場は、セネカ(後1世紀半ば)や小プリニウス(後1世紀末から後2世紀はじめ)の時代と考えられる。セネカはのちにハイポコースト(hypocaust)と呼ばれる壁暖房のシステムのことに触れている (Sen. Prov. 4.9)という 。
共同浴場微温浴室と温浴室のハイポコースト想像復元図 『望遠郷 ローマ』より 

『望遠郷 ローマ』は、「微温浴室」と「温浴室」では、浴室の床や浴槽の底を素焼きのレンガを積んだ支柱で高くし、火室で加熱された空気が床下に広がるようになっている。つまり、床下暖房のなされた空間なのである。壁の仕上げ材の下には、厚い上塗りをされ、断面が矩形の陶製の導管が通っていて、熱い空気や煙を通しているという。
オスティア・アンティカのフォロの浴場でも、側壁にテラコッタの管が並んでいた。

それが側壁に沿って並んでいたり、


管を接ぎながら、漆喰で固定して、おそらく天井に近いところまで壁面を暖めていたのだろうと想像した。
『望遠郷 ローマ』の想像復元図では、上部から蒸気が噴き出しているところまで再現されている。


最後になったが、共同浴場の大きな窓ガラスについて藤井氏は『古代ローマの危機管理』で、光は通しつつ開口部自体は防ぐ画期的な透明板の発明は、室内にいながらより明るく開放的で清潔な空間を求めた当時の人々のニーズに応え、一日中光をもたらすワイドな側窓を誕生させた。その萌芽は、ポンペイの中央浴場やヘルクラネウムの郊外浴場など1世紀後半の公共浴場に見ることができる。おそらく邸宅と異なり、人がいないときはむしろ盗むものがない公共浴場は、防犯よりも温めた温度と湿度を保ちつつ大きな開口部からの採光を得る必要性の方が高かったため、いち早く流行が取り入れられたのだろう。
ただし、セネカや小プリニウスが述べている「窓の景観」機能については、疑問が残る。なぜなら、鉱物製にせよ、ガラス製にせよ透明板を開口部にはめない方がよく見渡せたはずだからだ。当時の透明板はプライバシー保護の意識もあってか、消色した無色透明な高級ガラスも製造できる技術はあったにもかかわらず、ぼんやりと外の光が見える程度の半透明なものが多いからだという。
光も入るし、外の景色が何となくわかる程度だったのかも。



関連項目

参考文献 

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

HERCULANEUM RECONSTRUCTED」 ARCHEOLIBRI

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編


2022/04/22

古代ローマ オスティアのかさ上げ


オスティアではテベレ川の氾濫で洪水の被害もしばしばあった。
しかし、『古代ローマの危機管理』は、洪水は「脅威レベルは高い」が、予測が可能なためコントロールに成功したリスクである。ローマにおける洪水の歴史をまとめた研究によればローマを流れるティベリス川は定期的、おそらく数年に1回、雨期である秋から冬にかけて氾濫したことがわかっている。ティベリス川の上流で氾濫していれば、おそらく河口のオスティアでも同時に氾濫していた可能性が高い。つまり、定期的という点で、オスティアにおける洪水はかなり予測可能な災害であった。
オスティアを定期的に襲った洪水の痕跡は地盤のかさ上げという形で残っているという。

オスティア・アンティカの地図
オスティア・アンティカの地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


『古代ローマの危機管理』は、帝政初期にカルド・マキシムスが旧街道の道筋をそのままにかさ上げ修築され、その後2世紀後半に中央広場浴場がさらにかさ上げされた人工地盤上に建設されていくなかで、アウグストゥス帝時代の地盤面に立つローマおよびアウグストゥス神殿が保存されたために生じた人工的なものであるという。

オスティアの中心カピトリウムとフォロ周辺図
A:カピトリウム B:広場(フォロ) C:デクマノマッシモ通り D:ラレス・アウグストゥスのための小神殿 E:ローマとアウグストゥスの神殿 F:フォロのトイレ G:フォロの浴場 H:クリア 9:ディアナ通りのテルモポリウム
オスティア・アンティカ フォロ周辺図 『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL  EXCAVATIONS』より


同書は、オスティアの中心部には、「カピトリウム」を代表として、多くの公共建築物が建ち並ぶが、これらの建物は一挙に建設されたのではなく、共和政の末期からハドリアヌス帝の時代にかけて、徐々に整備されたため、「かさ上げ」の影響をもっとも多く受けた区域であるという。
予測可能であっても、街中に濁流や土砂が流れ込むのを防ぐ手立ては「かさ上げ」だけ。
洪水後の度にかさ上げをした。その証拠がフォロに示されていた。

その南にはラレス・アウグストゥスのための小神殿
説明パネルは、フォロの中心に位置する大理石の基壇に安置された円形の記念碑は、皇帝を守ったラレス・アウグストゥスの神々に捧げられた小さな神殿である。
内部に壁龕があるレンガ造りの建物は、後51年に設立された教団を担当する司祭が費用をかけて建設したという。
建設当時はもっと地盤が低くかったし、上部構造も高かっただろう。


その奥にあるのは、ローマおよびアウグストゥス神殿
同書は、神格化されたアウグストゥス帝を祀る重要な神殿を簡単に廃止することはできず、その結果、貫通道路の中央部分からローマおよびアウグストゥス神殿のエリアは周囲にくらべ凹地となってしまったのであるという。


基壇部分が埋もれた付け柱
同書は、カルド・マキシムスと呼ばれる南北の幹線道路沿いに巨大な円柱ピラスター(付け柱)が残っているが、よく見ると基壇部分が地中に埋もれている。ピラスターを据えた後に、街路面がかさ上げされたためにこのような奇妙な風景となった。もちろん、発掘により柱礎が露出したが古代ローマ時代には埋没した状態であったという。
埋もれた柱は見学できなかった。
カルド・マッシモの埋もれた柱 『古代ローマの危機管理』より


同書は、ほかにも街路の舗石のかさ上げ工事が中断されたような痕跡や街路の下にモザイクが発見された例もあるという。

バルコニー通り 
『望遠郷 ローマ』は、4、5世紀に貴族が多くの建物を自分たちの邸宅に変えたさい, ほとんどの住民が町をあとにしたらしい。その後9世紀のサラセン軍の攻撃で、町は完全に放棄されたという。
街路の舗石のかさ上げ工事が中断されたような痕跡というが、次の洪水が到来する以前に、オスティアは人が住まない街となっていたようだ。
オスティア・アンティカ バルコニー通り 『古代ローマの危機管理』より


消防士の宿舎通り 街路の下にモザイクが発見された例
GOOGLE EARTHで見ると、この街路は通行止めになっているようだ。左側はネットゥーノ浴場外の貯水槽だろう。
オスティア・アンティカ 街路の下に舗床モザイク 『古代ローマの危機管理』より


ディアナの家のディアナ通り側(南面)
『古代ローマの危機管理』は、「ディアナ通り」の北側には店舗が並ぶが、その間口は街路面から0.8mも高い位置にあり、とても入りやすいとはいえないという。
店舗の出入口は地面よりもかなり高い。インスラへの入口には大きな石が2段に積まれている。ということは、せめて建物の中に入り込まないように、下部を街路よりも高く造ったのだろうか。

ディアナの家西面
南面よりもしっかりした段が設けられている。

ディアナの家の西向かいの角の建物
南側が高くなっているので、傾斜のあるところなら不思議ではないともいえるが、ディアナの家の方はこのような傾斜は見られない。


ディアナ通り南側のテルモポリウム
オスティア・アンティカ ディアナ通りのテルモポリウム 『ANCIENT OSTIA』より

テルモポリウムの入口付近
東側から西側へいくに従って、段が高く、あるいは深くなっている。
『古代ローマの危機管理』は、向かい側の「テルモポリウム」と呼ばれる居酒屋は、前面街路より床が低くなっている。これでは、雨が降ると雨水が内部に流れ込んでしまうため、入口に少し凸部を造って防いでいる。わざわざ床の低い建物を造ることはありえないため、この低さは「かさ上げ」の結果と見ることができるという。 
道路のかさ上げ以前に造られた建物だった。
オスティア・アンティカ ディアナ通り南側のテルモポリウム 『古代ローマの危機管理』より
これが浸水を防ぐ入口の凸部


北側のインスラと南側のテルモポリウム

反対側から見たディアナ通り
同書は、ディアナ通りの北側には店舗が並ぶが、その間口は街路側から0.8mも高い位置にあり、とても入りやすいとは言えない。
向かいの店舗は、将来のかさ上げを見越した建物といえるだろう。もし次に、0.6mほどのかさ上げが実施されれば、テルモポリウムは建て替えあるいは床のかさ上げを余儀なくされるが、向かいの店舗はちょうどよい床面になる(実際にはかさ上げされなかったが)。このように、建物に大きな影響を与える「かさ上げ」は、慎重に「計画」されなければならないが、オスティアの中心部では、やや場当たり的な対応、つまり街路を挟んで床面に大きな高低差が生まれるような結果を招いているという。
奥に見えるディアナの家もディアナ通りのかさ上げ以降に、「将来のかさ上げを見越して」床面を高く造ったものだった。

そのため、インスラで宿泊していた人々は、我々のように石段を登って入口に向かっただろう。では店舗へ出入りする人はどうしたのだろう?
店舗には四角い穴が並んでいるので、木の梁を渡した木造の天井だった。




関連項目

参考文献
OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS」 2013年 IL CIGOLI G.G.EDIZONI

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編

2022/04/15

古代ローマ オスティアのインスラ(集合住宅)


オスティア・アンティカについて『望遠郷 ローマ』は、オスティアは前87年の将軍マリウスの軍隊による略奪をはじめ、何度か大災害に見舞われ、大掛かりな復旧工事が行われた。将軍スラはオスティアの周囲に大城壁を巡らせ、アウグストゥス帝はフォロ(公共広場)や劇場をはじめとする大規模な公共建設事業を実施している。
クラウディウス帝以後は、新港の建設でオスティアの重要性が低まったが、この由緒あるローマの植民市は首都への食糧調達基地のひとつとなり、以後は特別に派遣された穀物管理官の管理下に置かれるようになった。ドミティアヌス、ハドリアヌス両帝の時代には、オスティアは巨大な公共建築、貯蔵庫、レンガ造りの集合住宅(インスラ)を特徴とする住宅地など、現在見られるような形に整えられた。
4、5世紀に貴族が多くの建物を自分たちの邸宅に変えたさい, ほとんどの住民が町をあとにしたらしい。その後9世紀のサラセン軍の攻撃で、町は完全に放棄された。オスティアの遺跡は19世紀、とくにファシスト政権下の発掘で発見された。商業で栄えたこのローマ植民市の歴史を魅力的に見せてくれるという。

オスティアの地図
オスティア・アンティカの遺跡地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


インスラの模型 ローマ文明博物館蔵
『望遠郷 ローマ』は、このオスティアのインスラは、 こうした大規模集合住宅のなかでも最も注目すべきひとつである。層状に重なった住宅は共同の階段をそなえ、アーケードのある中庭に面して開いている。このインスラは、浴場のある建物に結び付けられ、住人が直接行けるようになっている。
アウグストゥス帝が高さ20mに規制した、8、9階の集合住宅、インスラの存在が知られるようになったのは、オスティアの発掘によってである。 中庭(アトリウム)に入口があるドムスとは対照的に、インスラは模型からもわかるように街路側に入口があるという。
ローマ文明博物館蔵オスティア・アンティカのインスラ模型 『ANCIENT OSTIA』より

内部に入ることはできなかったが、ディアナの家もインスラだった。

ディアナの家 三階建て以上 2世紀前半
『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS』(以下『OSTIA』)は、ハドリアヌスの時代にさかのぼるディアナの家がある。これは、オスティアに広く普及しているタイプの住居の興味深い例で、中央に柱廊玄関のある中庭を備えた雑居ビルである。これらの高層住宅は、トラヤヌスの港の建設が人口の顕著な増加を引き起こす程度まで社会的および経済的生活を刺激した後1世紀の初めに必要になった。
中庭にディアナを表現したテラコッタプレートがあったことにちなんで名付けられたディアナの家は、オスティアで最も有名な建物の一つであるという。
2階の軒が各窓の上にアーチ状に迫り出しているのが特徴で、その上に3階があったとしたら、2階よりも面積が広い間取りだったかも。
洪水に見舞われた痕跡が、建物の壁に残っている。西面は北の方よりも南西が一番深く浸水したようだ。
オスティア・アンティカ ディアナの家 『ANCIENT OSTIA』より

『古代ローマの危機管理』は、う一つ、オスティアを特徴づけるのはインスラ (insula)、すなわち集合住宅である。もっとも有名な例は「ディアナの家 (IIII 3-4)」と呼ばれる地上階に店舗、上階に居室群をもち、上階へは街路に面した入口からアプローチする複合建築であるという。
Gismondi画ディアナの家想像復元図 『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS』より

説明パネルの1階平面図
(これでは何かわからないので、オックスフォード大学ジャネット・デイレーン氏のローマ都市オスティアの住宅1の平面図を参考に下図を編集)
A:入口 B:トイレ C:後に馬小屋となった部屋(不明) D:中庭 E:共同の泉水場 F:ミトレウム G:店舗(ほぼテルモポリウム) H:上階への小階段

中庭の泉水場と水道管
説明パネルは、中央の中庭の周りに部屋が配置され、そこには共同の泉水場があったという。
この泉水は、雨水を溜めたものだった。
オスティア・アンティカ ディアナの家 泉水場と水道管 『ANCIENT OSTIA』より

3間のアパート、後に2間がミトレウムに
説明パネルは、複数の階段があり、設備も不十分で、おそらく店員、労働者、港湾労働者が入居者の大半を占めていた。
右奥の1階にあるの2つの部屋は、ミトレウムに改装された。軽石の破片で飾られた壁龕は、ミトラが生まれた洞窟を模倣していたという。
ミトレウムとは、ミトラ教の信仰のための集会所で、最後に天国に召される前にアポロンとミトラの勝利を祝う饗宴をする場所という。
ローマのサンクレメンテ教会地下にはミトラ神が牛を屠る浮彫(2世紀、『イタリアの初期キリスト教聖堂』より)があったが、ここにはなかったのかな。
オスティア・アンティカ ディアナの家ミトレウム 『OSTIA』より

蛇足だが、インスラではなく浴場に付設されたミトレウム(地図の外)もあった。

七賢人の浴場のミトレウム
『望遠郷 ローマ』は、フォーチェ通りとアウリー ギ(御者)通りに挟まれた 一角には、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス帝時代にみごとな建物が建てられた。「セラーピスの集合住宅」と「御者の集合住宅」と呼ばれる2つの建造物もここにあり、その間には、住民専用の 「7賢人の浴場」と呼ばれる浴場 がある。「7賢人の浴」の主室、もとは円蓋が掛かっ ていた円形の大冷浴室(フリギダリウム)の床には、狩猟場面や唐草文様がモザイクで描かれている。隣接する小部屋にはソロンタレス、キロン、ペリアンドロス、ビアス、クレオブロス、ピッタコスのギリシア7賢人がギリシア名とともに描かれているという。
オスティア・アンティカ 七賢人の浴場のミトレウム 『OSTIA』より

ミトラの浴場のミトレウム
『OSTIA』は、浴場(南から)2つのプールのあるカルダリウム(温浴室)、後陣の形をしたプールのあるフリギダリウム(冷浴室)、北の入り口の側面にある2本のコリント式の円柱のある通路エリア、ユリシーズとサイレンを表した舗床モザイク。そして最後に、帝国時代後期に復元された部屋で、後陣が後ろにあり、中央にキリスト教の教団の場所として使用されていた。
北東の角にある階段は、改築でミトレウムになった地下に通じている。最奥部には、非常に刺激的な雰囲気の中で天窓から光を浴びる、雄牛を屠るミトラの浮彫があった(オリジナルは博物館)という。
オスティア・アンティカ ミトラの浴場のミトレウム 『OSTIA』より

ミトレウムはこんな風に雄牛を屠るミトラ神を礼拝するのが一般的だった。


ディアナの家1階の店舗(テルモポリウム)
四角い穴が水平に並んでいるのは、木の梁を挿し渡したからだ。
『古代ローマの危機管理』は、もっとも単純な木梁による架構は、向かい合う壁に穴を開けて材木を挿し込む方法である。ポンペイやヘルクラネウムで一般的に見られる架構で、オスティアにおいてもよく見かける。この架構の場合、火事になると木梁は燃えてしまうため、当然、上階は崩落する。問題は火災後の再建である。
新しく材木を挿し込むことになる。よく考えると、穴の深さいっぱいに木材が入っていたとすると、同じ長さの 木材を壁に挿入することはできない。少し短い材木を入れることになり当然、強度は少し落ちてしまい、火災前とまったく同じには修築できないという。

同書は、そこで、オスティアにおいて考えられたのがコーベル(持ち送り)である。壁に穴を開けるのは同じであるが、多くの場合、石製のコーベルを挿し込み、その上に木梁を載せる。こうすれば梁穴による欠損によって、壁体 の強度が落ちることもなく、火災後の再建も容易であるという。
オスティア・アンティカ エパガシアーナのホレア街路側倉庫 『古代ローマの危機管理』より

同書は、コーベルを石製にすることで、耐火性能は高まったが、桁が木製であるため、類焼の危険は依然として残る。そこで次に考案されるのが、レンガ製の帯状のコーベルである。こうすれば桁は不要であるが、たとえ桁を載せたとしてもレンガによって被覆されるため耐火性はさらに増していく(実際には高さを調節する、つまり床を水平にするために桁を載せることが多かった)という。
オスティア・アンティカ ショーヴェとガニメデの家 『古代ローマの危機管理』より


『OSTIA』は、古いポンペイタイプの家(前1世紀-後1世紀)は一般的に豪華な特徴があり、水平に配置され、広い面積を占め、アトリウムと庭園の内部のオープンスペースに向けられていた。ポンペイに建てられた最後の家に関しては、約半世紀後に建てられたオスティアのブロックは一般の人々のためだけで、占有するスペースは少なくなった(300-400㎡)。それらは4-5階建てで、中庭から、また外壁の窓付きバルコニーから光が入ったという。
ポンペイが別荘地で、オスティアが港湾都市という違いが住居に現れている。また、ポンペイやエルコラーノは後79年のヴェスヴィオ山の噴火で埋もれたが、オスティアはそのような災害に遭わなかったため、その後も都市として発展した。


ディアナの家地階の交差ヴォールト及びヴォールト天井
『古代ローマの危機管理』は、オスティアのヴォールト天井には、ほとんどの場合、平レンガ(薄い板のようなレンガ)によるライニング(内張)が施されており、レンガの断熱効果によってコンクリートに熱が伝わるのを遅らせることができ、崩落の危険を低減する効果があったと考えられるという。
地階というのは、地上階、日本風に言えば1階である。

オスティア・アンティカ ディアナの家地階の平レンガ内張 『古代ローマの危機管理』より

また、ディアナの家の地階では、火災の痕跡があるという。
『古代ローマの危機管理』は、おそらく後4-5世紀にこの住宅が放棄されたあと、火事が発生し、そのまま放棄されたものであるという。
火災に遭った後も、ローマン・コンクリートで造られたヴォールト天井は、平レンガによる内張が功を奏したため。その効果を知っていて平レンガを使ったのか、単なる装飾だったのか。

同書は、古代ローマのコンクリートは、型枠一体型、つまり型枠も固めてしまう方法が一般的であったため、立体的な曲面を造り出すヴォールトや交差ヴォールトの型枠は、内側から正方形の大きめの板のようなレンガを貼り付けて造られたという。
型枠としての平レンガは焼け落ちたものもあるが、ヴォールトは残っている。
オスティア・アンティカ ディアナの家地階奥の廊下天井に残る火災の痕跡 『古代ローマの危機管理』より


絵のあるヴォールト天井の共同住宅
『古代ローマの危機管理』は、「絵のあるヴォールト天井の共同住宅 (III.V.1)」という名前の建物は、地階の入口付近に共同噴水、カウンター付きの食堂(テルモポリウム)、中廊下に面する個室群(裏に台所があり、一種のホテルであった)、外から入れる階段室につながる上階も中廊下に面した個室、共同のトイレと下水、台所、簡易浴室など、まるでビジネスホテルのようである。
人口100万人を要するローマに食料を供給するため、小麦の収穫期には多くの季節労働者が働いていたはずで、これらの人々を収容する目的で集合住宅が生まれたのかもしれない。他にワインやオリーブ油などの液体、美術品なども多く運び込まれた。
小さな集合住宅であるが、四方を街路に面し独立した建物となっているという。
簡易浴室というのは湯船のあるお風呂のことだろうか。小さくてもローマ浴場のようなものだったのだろうか。

『OSTIA』は、後120年にさかのぼる絵のある集合住宅がある。それは、多くの点で現代の家の平面に通じる間取りである。実際、部屋に通じる長い中央の廊下が多くの共同空間につながっている。したがって、中庭はなく、唯一の光源はすべての部屋にある外側の窓になるという。
独立した建物だからこそ、四方に窓をあけることができた。
オスティア・アンティカ 絵のあるヴォールト天井の共同住宅 『古代ローマの危機管理』より

平面図 
同書は、矢印は地階(1階)にある入口の位置としている。
オスティア・アンティカ 絵のあるヴォールト天井の共同住宅平面図 『古代ローマの危機管理』より

2階中廊下
オスティア・アンティカ 絵のあるヴォールト天井の共同住宅2階中廊下 『古代ローマの危機管理』より

地階の一室
高いとこに窓があるのは防犯のため? そして木製の梁を通すのではなく、ヴォールト天井にしたのは火災に強いから?
正確にはも四隅から稜線を張り出した交差ヴォールト天井。
フレスコ画が中庭を描いたものかよく分からないが、季節労働者の宿泊用の部屋とは思えない、凝った天井画である。
オスティア・アンティカ 絵のあるヴォールト天井の共同住宅地階 『古代ローマの危機管理』より

天井は平レンガの内張に漆喰を塗り、フレスコ画を描いたのだろう。
小川拓郎氏の交差ヴォールトの稜線に着目した古代ローマ建造物に関する分析-オスティア遺跡の交差ヴォールトを例として-は、オスティアの南西部に位置する絵画ヴォールトの家(II,V,1)は天井画ごと地上階の天井ヴォールトが保存されている。天井画に関しては古代ローマ帝政期の邸宅のもので、ほとんど損傷がない状態で発掘された数少ない例である。
図12は同建物 IV 室の天井画(左図)と稜線(右図)を正投影で示している。
古代ローマ帝政期の天井画の特徴として中心がある点対称の構図が挙げられる。このような点対称の天井画を描くときに、稜線が直線であるほうが構図になじんで綺麗に見えるため、稜線を調整した可能性が考えられるという。
「図12」は同サイト(PDF)にあります。

絵のあるヴォールト天井の共同住宅
絵のあるヴォールト天井の共同住宅寝室 『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS』より


水平に四角い穴が並ぶ建物、石製コーベルが挿し込まれた建物、冷浴室制帯状コーベルがある建物と、高層の建物の歴史を辿ることもできるオスティア・アンティカの遺跡であるが、フレスコ画が残っている建物もある。
全てをじっくりと見て回るには、おそらく1日では足りないだろう。



関連項目

参考サイト
オックスフォード大学ジャネット・デイレーン氏のローマ都市オスティアの住宅1の平面図

参考文献
OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS」 2013年 IL CIGOLI G.G.EDIZONI

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編
「建築巡礼12 イタリアの初期キリスト教聖堂」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社