オスティア・アンティカについて『望遠郷 ローマ』は、オスティアは前87年の将軍マリウスの軍隊による略奪をはじめ、何度か大災害に見舞われ、大掛かりな復旧工事が行われた。将軍スラはオスティアの周囲に大城壁を巡らせ、アウグストゥス帝はフォロ(公共広場)や劇場をはじめとする大規模な公共建設事業を実施している。
クラウディウス帝以後は、新港の建設でオスティアの重要性が低まったが、この由緒あるローマの植民市は首都への食糧調達基地のひとつとなり、以後は特別に派遣された穀物管理官の管理下に置かれるようになった。ドミティアヌス、ハドリアヌス両帝の時代には、オスティアは巨大な公共建築、貯蔵庫、レンガ造りの集合住宅(インスラ)を特徴とする住宅地など、現在見られるような形に整えられた。
4、5世紀に貴族が多くの建物を自分たちの邸宅に変えたさい, ほとんどの住民が町をあとにしたらしい。その後9世紀のサラセン軍の攻撃で、町は完全に放棄された。オスティアの遺跡は19世紀、とくにファシスト政権下の発掘で発見された。商業で栄えたこのローマ植民市の歴史を魅力的に見せてくれるという。
オスティアの地図
『望遠郷 ローマ』は、このオスティアのインスラは、 こうした大規模集合住宅のなかでも最も注目すべきひとつである。層状に重なった住宅は共同の階段をそなえ、アーケードのある中庭に面して開いている。このインスラは、浴場のある建物に結び付けられ、住人が直接行けるようになっている。
アウグストゥス帝が高さ20mに規制した、8、9階の集合住宅、インスラの存在が知られるようになったのは、オスティアの発掘によってである。 中庭(アトリウム)に入口があるドムスとは対照的に、インスラは模型からもわかるように街路側に入口があるという。
➒ディアナの家 三階建て以上 2世紀前半
『OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS』(以下『OSTIA』)は、ハドリアヌスの時代にさかのぼるディアナの家がある。これは、オスティアに広く普及しているタイプの住居の興味深い例で、中央に柱廊玄関のある中庭を備えた雑居ビルである。これらの高層住宅は、トラヤヌスの港の建設が人口の顕著な増加を引き起こす程度まで社会的および経済的生活を刺激した後1世紀の初めに必要になった。
中庭にディアナを表現したテラコッタプレートがあったことにちなんで名付けられたディアナの家は、オスティアで最も有名な建物の一つであるという。
2階の軒が各窓の上にアーチ状に迫り出しているのが特徴で、その上に3階があったとしたら、2階よりも面積が広い間取りだったかも。
洪水に見舞われた痕跡が、建物の壁に残っている。西面は北の方よりも南西が一番深く浸水したようだ。
『古代ローマの危機管理』は、もう一つ、オスティアを特徴づけるのはインスラ (insula)、すなわち集合住宅である。もっとも有名な例は「ディアナの家 (IIII 3-4)」と呼ばれる地上階に店舗、上階に居室群をもち、上階へは街路に面した入口からアプローチする複合建築であるという。
説明パネルの1階平面図
(これでは何かわからないので、オックスフォード大学ジャネット・デイレーン氏のローマ都市オスティアの住宅1の平面図を参考に下図を編集)
A:入口 B:トイレ C:後に馬小屋となった部屋(不明) D:中庭 E:共同の泉水場 F:ミトレウム G:店舗(ほぼテルモポリウム) H:上階への小階段
E中庭の泉水場と水道管
説明パネルは、中央の中庭の周りに部屋が配置され、そこには共同の泉水場があったという。
この泉水は、雨水を溜めたものだった。
F3間のアパート、後に2間がミトレウムに
説明パネルは、複数の階段があり、設備も不十分で、おそらく店員、労働者、港湾労働者が入居者の大半を占めていた。
右奥の1階にあるの2つの部屋は、ミトレウムに改装された。軽石の破片で飾られた壁龕は、ミトラが生まれた洞窟を模倣していたという。
ミトレウムとは、ミトラ教の信仰のための集会所で、最後に天国に召される前にアポロンとミトラの勝利を祝う饗宴をする場所という。
ローマのサンクレメンテ教会地下にはミトラ神が牛を屠る浮彫(2世紀、『イタリアの初期キリスト教聖堂』より)があったが、ここにはなかったのかな。
オスティア・アンティカ ディアナの家ミトレウム 『OSTIA』より |
蛇足だが、インスラではなく浴場に付設されたミトレウム(地図の外)もあった。
七賢人の浴場のミトレウム
『望遠郷 ローマ』は、フォーチェ通りとアウリー ギ(御者)通りに挟まれた 一角には、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス帝時代にみごとな建物が建てられた。「セラーピスの集合住宅」と「御者の集合住宅」と呼ばれる2つの建造物もここにあり、その間には、住民専用の 「7賢人の浴場」と呼ばれる浴場 がある。「7賢人の浴」の主室、もとは円蓋が掛かっ ていた円形の大冷浴室(フリギダリウム)の床には、狩猟場面や唐草文様がモザイクで描かれている。隣接する小部屋にはソロンタレス、キロン、ペリアンドロス、ビアス、クレオブロス、ピッタコスのギリシア7賢人がギリシア名とともに描かれているという。
『OSTIA』は、浴場(南から)2つのプールのあるカルダリウム(温浴室)、後陣の形をしたプールのあるフリギダリウム(冷浴室)、北の入り口の側面にある2本のコリント式の円柱のある通路エリア、ユリシーズとサイレンを表した舗床モザイク。そして最後に、帝国時代後期に復元された部屋で、後陣が後ろにあり、中央にキリスト教の教団の場所として使用されていた。
北東の角にある階段は、改築でミトレウムになった地下に通じている。最奥部には、非常に刺激的な雰囲気の中で天窓から光を浴びる、雄牛を屠るミトラの浮彫があった(オリジナルは博物館)という。
ディアナの家1階の店舗(テルモポリウム)
四角い穴が水平に並んでいるのは、木の梁を挿し渡したからだ。
『古代ローマの危機管理』は、もっとも単純な木梁による架構は、向かい合う壁に穴を開けて材木を挿し込む方法である。ポンペイやヘルクラネウムで一般的に見られる架構で、オスティアにおいてもよく見かける。この架構の場合、火事になると木梁は燃えてしまうため、当然、上階は崩落する。問題は火災後の再建である。
新しく材木を挿し込むことになる。よく考えると、穴の深さいっぱいに木材が入っていたとすると、同じ長さの 木材を壁に挿入することはできない。少し短い材木を入れることになり当然、強度は少し落ちてしまい、火災前とまったく同じには修築できないという。
同書は、そこで、オスティアにおいて考えられたのがコーベル(持ち送り)である。壁に穴を開けるのは同じであるが、多くの場合、石製のコーベルを挿し込み、その上に木梁を載せる。こうすれば梁穴による欠損によって、壁体 の強度が落ちることもなく、火災後の再建も容易であるという。
『OSTIA』は、古いポンペイタイプの家(前1世紀-後1世紀)は一般的に豪華な特徴があり、水平に配置され、広い面積を占め、アトリウムと庭園の内部のオープンスペースに向けられていた。ポンペイに建てられた最後の家に関しては、約半世紀後に建てられたオスティアのブロックは一般の人々のためだけで、占有するスペースは少なくなった(300-400㎡)。それらは4-5階建てで、中庭から、また外壁の窓付きバルコニーから光が入ったという。
ポンペイが別荘地で、オスティアが港湾都市という違いが住居に現れている。また、ポンペイやエルコラーノは後79年のヴェスヴィオ山の噴火で埋もれたが、オスティアはそのような災害に遭わなかったため、その後も都市として発展した。
ディアナの家地階の交差ヴォールト及びヴォールト天井
また、ディアナの家の地階では、火災の痕跡があるという。
『古代ローマの危機管理』は、おそらく後4-5世紀にこの住宅が放棄されたあと、火事が発生し、そのまま放棄されたものであるという。
火災に遭った後も、ローマン・コンクリートで造られたヴォールト天井は、平レンガによる内張が功を奏したため。その効果を知っていて平レンガを使ったのか、単なる装飾だったのか。
同書は、古代ローマのコンクリートは、型枠一体型、つまり型枠も固めてしまう方法が一般的であったため、立体的な曲面を造り出すヴォールトや交差ヴォールトの型枠は、内側から正方形の大きめの板のようなレンガを貼り付けて造られたという。
型枠としての平レンガは焼け落ちたものもあるが、ヴォールトは残っている。
⑭絵のあるヴォールト天井の共同住宅
『古代ローマの危機管理』は、「絵のあるヴォールト天井の共同住宅 (III.V.1)」という名前の建物は、地階の入口付近に共同噴水、カウンター付きの食堂(テルモポリウム)、中廊下に面する個室群(裏に台所があり、一種のホテルであった)、外から入れる階段室につながる上階も中廊下に面した個室、共同のトイレと下水、台所、簡易浴室など、まるでビジネスホテルのようである。
人口100万人を要するローマに食料を供給するため、小麦の収穫期には多くの季節労働者が働いていたはずで、これらの人々を収容する目的で集合住宅が生まれたのかもしれない。他にワインやオリーブ油などの液体、美術品なども多く運び込まれた。
小さな集合住宅であるが、四方を街路に面し独立した建物となっているという。
簡易浴室というのは湯船のあるお風呂のことだろうか。小さくてもローマ浴場のようなものだったのだろうか。
『OSTIA』は、後120年にさかのぼる絵のある集合住宅がある。それは、多くの点で現代の家の平面に通じる間取りである。実際、部屋に通じる長い中央の廊下が多くの共同空間につながっている。したがって、中庭はなく、唯一の光源はすべての部屋にある外側の窓になるという。
独立した建物だからこそ、四方に窓をあけることができた。
平面図
同書は、矢印は地階(1階)にある入口の位置としている。
2階中廊下
地階の一室
高いとこに窓があるのは防犯のため? そして木製の梁を通すのではなく、ヴォールト天井にしたのは火災に強いから?
正確にはも四隅から稜線を張り出した交差ヴォールト天井。
フレスコ画が中庭を描いたものかよく分からないが、季節労働者の宿泊用の部屋とは思えない、凝った天井画である。
天井は平レンガの内張に漆喰を塗り、フレスコ画を描いたのだろう。
小川拓郎氏の交差ヴォールトの稜線に着目した古代ローマ建造物に関する分析-オスティア遺跡の交差ヴォールトを例として-は、オスティアの南西部に位置する絵画ヴォールトの家(II,V,1)は天井画ごと地上階の天井ヴォールトが保存されている。天井画に関しては古代ローマ帝政期の邸宅のもので、ほとんど損傷がない状態で発掘された数少ない例である。
図12は同建物 IV 室の天井画(左図)と稜線(右図)を正投影で示している。
古代ローマ帝政期の天井画の特徴として中心がある点対称の構図が挙げられる。このような点対称の天井画を描くときに、稜線が直線であるほうが構図になじんで綺麗に見えるため、稜線を調整した可能性が考えられるという。
「図12」は同サイト(PDF)にあります。
絵のあるヴォールト天井の共同住宅
水平に四角い穴が並ぶ建物、石製コーベルが挿し込まれた建物、冷浴室制帯状コーベルがある建物と、高層の建物の歴史を辿ることもできるオスティア・アンティカの遺跡であるが、フレスコ画が残っている建物もある。
全てをじっくりと見て回るには、おそらく1日では足りないだろう。
関連項目
参考サイト
オックスフォード大学ジャネット・デイレーン氏のローマ都市オスティアの住宅1の平面図
参考文献
「OSTIA GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL EXCAVATIONS」 2013年 IL CIGOLI G.G.EDIZONI
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編
「建築巡礼12 イタリアの初期キリスト教聖堂」 香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社