お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/27

慶州天馬塚の金冠


『世界美術大全集東洋編10』は、朝鮮半島の古代文化を象徴するのは、新羅の金製品である。
今日までに金冠塚、皇南大塚北墳、天馬塚、金鈴塚、瑞鳳塚の合わせて5基の古墳から典型的な金製の新羅式冠が出土している。これらはみな新羅の都があった慶州の邑南(ゆうなん)古墳群に属する
という。
もっとたくさんあるのかと思っていた。
金冠塚に比べて立飾の枝が太くなり、列点文が2条になるなど、新しい要素が見られる。冠帯の左右には、冠垂飾が一つの金環から長短2条下がる。1条は、3枚の金板を折り曲げ、背中合わせにして作った三翼形垂下飾を先端に垂らす。中間の飾りは、細金板を二つに折り曲げた両端に輪を作り、細金板の周りを金線で螺旋状に巻き付け枝を出し、その先に心葉形歩揺を垂らした金具を9個連結している。他の1条は、華籠形中間飾りに3個の心葉形垂下飾を下げるという。
垂飾は新羅から出土した皇南大塚北墳金冠塚瑞鳳塚・金鈴塚の金冠にそれぞれついていて、飾り・金冠への取り付け金具はすべて異なっている。 
新羅式金冠は、鉢巻き式の冠帯に「山」字形を上下に3、4段連ねた立飾が正面と左右側面に一つずつ立ち、背面に鹿角形立飾が1対立つ形を典型としているという。
この型式のもっとも古い形は、邑南古墳群内の南に位置する校洞から出土した1段の「山」字形の立飾をもつ金冠である。金板には打出列点や蹴彫りがみられず、円形歩揺が冠帯と立飾につく簡素なものである。民家の塀の修理中に偶然発見され、金製耳飾り、金銀装素環頭大刀、三葉文環頭大刀などが合わせて届けられた。遺構は後に調査され、直径15.6m(復元)の積石木槨墳であることが判明した。これらの遺物は、おそらくこの古墳からの出土と見てよく、古い様相をもっており、金冠も新羅初期のものと見てよいだろう。新羅は、歴史書によれば377年に中国の前秦に使者を送ったという記事があるので、4世紀後半には成立していたとみてよいという。
これが慶州で最初に作られた金冠らしい。1段の「山」字形の立飾というが、太い幹と枝の樹木を表したとみる方が自然だろう。側面の立飾は樹木形なのか、鹿の角形なのか、木の葉のような歩揺があるので樹木形のようだ。 『図説韓国の歴史』は、祭政一致時代の韓国の王は、王であるとともに、祭祀を司るシャーマンであった。新羅(シルラ)や百済(ペクチェ)、伽耶(カヤ)国などの故地から出土した金冠や金銅冠なども、シャーマニズムにかかわる冠物とみて大きな間違いはない。聖樹を立て飾りに用いたそれらの冠は、生命樹つまり樹木信仰の具象化した形だとわたしは思う。横に鹿の角を立てた冠などがシベリアのシャーマニズム文化圏でも見られるという。
シベリアと新羅・百済・伽倻の間には高句麗という国があったのに、高句麗にはこのような冠はないようだ。高句麗を経由せずに、どのようにしてシャーマニズムや樹木形や鹿の角形の立飾のある冠が伝わったのだろう。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)

2009/02/24

慶州天馬塚の冠飾


鳥翼形冠飾 金製 高45.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、金冠塚からの出土例と、形態や文様が非常に類似する。しかし、中央上部の突起が5つから3つに減り、左右の鳥翼形装飾が金冠塚のものよりも直線的に上に長く伸びる点が異なる。被葬者の着用品ではなく、木槨内の副葬櫃から蝶形冠飾と一緒に出土した。鳥が力強く羽ばたく姿を連想させる左右対称の構図である。
冠飾の内面には、複雑な文様が透彫されており、唐草の蔓と類似する。5世紀中葉の金属工芸品にみられる図案を考慮すると、龍文が唐草文のように変化したものとみられる。龍文の周縁には、裏側から打ち出して装飾した列点文が施されており、冠飾の周縁には、列点文と波状列点文が施されている。金糸を用いて約400個以上の円形の歩揺をびっしりと取り付けて、華麗に装飾している
という。
これだけの歩揺がついていると、歩くとにぎやかな音がしたのだろうか。よく似ている金冠塚出土の鳥翼形金冠はこちら  蝶形冠飾 金製 高23.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
1枚の薄い金板を切り抜いて製作する点が特徴で、その製作技法と意匠が非常に特異である。全形は、義城・塔里3槨から出土した典型的な冠飾とは異なり、ふくろうのような鳥類が羽を広げた姿に類似する。
透彫文様と文様装飾部の周縁には、列点文が表現されている。中間と左右の羽根部には端の丸い猪目形の文様を、中央には5つ、左右にはそれぞれ3つずつ、透彫技法で施す。この文様は、主に6~7世紀の百済の金工品で大いに流行したもので、心葉形の変形とみられる。こうした文様が新羅の金属工芸品に現れるもっとも早い例としては金冠塚の冠帽があり、天馬塚出土品では、龍文が表現された銀製銙帯にもみられる
という。
心葉形の変形がこのような丸い猪目形になったという。心葉形は金冠塚出土垂飾耳飾(5世紀)に見られるが、一番下の大きなものが鎖で閉じられていて心葉形とわかるが、それ以外は心葉形だとは思ってもみなかった。猪目形がよくわかるものはこちら
そして、同じ天馬塚の金製冠帽では、猪目形の刳り貫きが変形して半環文になったという(「世界美術大全集東洋編10」より)。
このように5~6世紀の新羅でどんどん変化していく文様だが、百済では6~7世紀に金工品で流行したらしいが、中央アジアのティリヤ・テペ6号墳出土の金冠立飾にも猪目形の刳り貫きが見られる。それは前1世紀後半~後1世紀前半に作られたものである。 三角帽形をした内冠の前面にさし込んで装飾するというが、実際に被るとどのようになるのだろう。

壁画に古代朝鮮人 ウズベキスタン、サマルカンド市アフラシヤブ都城宮殿址出土 ソグド時代(7世紀後半)
『図説韓国の歴史』は、ソグド時代の壁画には、古代朝鮮人とみられる2人の人物が描かれていた。鳥羽冠をかぶり、環頭大刀を佩き(はき)、拱手している姿は、高句麗人か新羅人を彷彿させる。高句麗は突厥と交渉をもっていたので、中国を経由しない「ステップ・ロード」ルートにより、西域との直接接触を強く示唆するもので、三国時代の文物にみられる西域的要素はこうした経緯によるものと考えられるという。
668年に高句麗は唐と新羅によって滅ぼされ、統一新羅時代になるのだが、この壁画製作時期の7世紀後半は、三国時代の高句麗から行った人たちなのか、新羅から行ったのか、それとも統一新羅時代のどちらかの人たちなのか、微妙なところやなあ。 朝貢図 陝西省乾県乾陵陪葬墓出土、章懐太子墓・墓道東壁 唐・神龍2年(706) 西安市陝西歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』で杜暁帆氏は、長安の鴻臚寺、礼賓院の官吏が3人の周辺異民族の使節を連れ、大唐王朝に拝謁(朝貢)する途中の風景であるという。
唐朝文官は籠冠を被り、赤色長袍をつけ、笏を持って綬帯を引きずる後ろからついて行くこの使節たちは、『唐書』に記載のあるタジクないしペルシア、高句麗ないし日本などの民族であると考えられるという。
使節の前にいる人物はタジクもペルシアも東方アーリア系なので、どちらかわからないが、後方の人物は、日本人ではなく統一新羅の人で、高句麗系か新羅系かはわからない。『黄金の国・新羅展図録』は、金冠と共に、金製冠帽と冠飾も着用者の社会的地位や身分を示す重要な威信材であった。冠帽と冠飾は別々に出土することもあるが、本来はセットであったと考えられる。
冠飾はも冠帽の前面にさし込んで、冠帽とセットで用いられる装飾品である。新羅人と高句麗人は、高句麗の古墳壁画や記録にみられるように、羽毛や鳥翼形装飾を冠飾として好んで用いた。
鳥翼形と蝶形の冠飾は中央アジア・アルタイ地方のパジリク遺跡の積石木槨墳でも出土しており、両地域間の関係を暗示している
という。
パジリク遺跡は紀元前5~4世紀の古墳群で、5号墳からフェルト製の王権神授を表した壁掛けが出土したことで有名が、同遺跡から鳥翼形や蝶形の冠飾が出土したことは知らなかった。

またここでも中央アジアというか、北方ユーラシアとの交流が見えてきた。草原の道で中国を介さずに行き来できた証明にはなるが、時代が違いすぎるようにも思えるなあ。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」 森浩一監修 1988年 中央公論社
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館 
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」  1998年 小学館


2009/02/20

慶州天馬塚の金製品

 
天馬塚は、封土もしっかりと残っていて、学術的に発掘された積石木槨墳である。発掘の様子はこちら。そして、山字形金冠が出土したことから王陵とされているが、金冠だけでなく、他にも豪華な金製品が木槨内より出土している。

金製冠帽 高19.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
様々に透彫された金板を組み立てて冠帽にしてあるのを『黄金の国・新羅展図録』でみていたが、国立慶州博物館で実際に目にすると、思っていたよりもずっと小さかった。頭に被ることはできないので、髷にでもかぶせるものだったのかと思った。
図録は、金冠塚から出土した冠帽と非常に類似し、新羅の冠帽の中でももっとも華麗なものである。前面に2枚、後面に1枚、上部に1枚の計4枚からなる透彫された金板を組み合わせて作られている。規格と形態からみて、白樺樹皮で作られた帽子にかぶせて装飾したものと推定されるという。
帽子にかぶせたものだったのだ。勾玉や歩揺で装飾された「山」字形の立飾のついた金冠がハレの日用なら、ケの普段使いの冠として使われたものだろうか。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、天馬塚からは、ほかに白樺樹皮製冠帽が6個出土しているが、そのうち形がわかるのは2個である。一つはこの金製冠帽と同じく側面が半円形をなすもの、他は頂部が平らな台形をなすものである。
木棺内で被葬者が身につけていた金冠などの装身具が葬送用あるいは特殊な儀礼用とすれば、石壇上にあったこの冠帽は日常的に使用されていたものと見ることもできる
という。
白樺樹皮製冠帽のうち、金製冠帽と同じ形のものにかぶせるものだったのだろか。
図録は、冠帽は、多様な文様を精巧に透彫して美しく製作されている。文様の種類としては、猪目文やT字文が大部分で、このほかにも菱形文、半環文、変形龍文などがあり、錐状の道具で裏側から打ち出して表現した小型突起による装飾もみられる。このうち半環文は、金冠塚から出土した冠帽の例をみると、天馬塚の蝶形冠飾で確認される猪目文が変形したものとみられる。文様がない余白は、直線または曲線の打出列点文で装飾され、金板の連結部分は厚みのある金帯を当ててから金糸で連結しているという。
それぞれの文様が素晴らしい。半環文が猪目文の変形したものというのも興味深い。蝶形冠飾については次回。
また、皇南大塚南墳出土の銀製冠帽には金銅製の唐草文のような変形龍文の透彫が取り付けられているが、そこには列点文はない。
このように、文様の変化や技術が進んだことが、5世紀中葉の皇南大塚南墳、後半の金冠塚、6世紀初の天馬塚の出土物からうかがえて面白い。  銙帯(かたい)一式 金・瑪瑙・硬玉製 長125.0㎝ 6世紀 国立慶州博物館蔵
『黄金の国・新羅展図録』は、主に銙帯は、皮革や布で作られた帯の表面を金・銀・金銅・銅などの薄い金属板で装飾したものである。
この銙帯は、薄い金板を切り抜いたり、打ち出して製作した44枚の銙板・垂飾、帯端金具、および13組の腰佩などから構成されている
という。
慶州博物館では末広がりの筒状のものに巻き付けるようにして展示してあり、実際に身に着けるとどんな感じかわかるように工夫されていた。しかし、残念ながら暗くて細かいところまでじっくり見ることができなかった。
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、類似した文様の銙板と垂飾は、1990年に発掘された中国、遼寧省朝陽市の王子墳山墓群からも出土している。天馬塚と組み合わせも同じ金銅製帯金具で、3~4世紀の鮮卑の墓と考えられている。また、高句麗の都のあった中国、吉林省集安市の山城下330号墳からも透彫唐草文の銙板が出土しており、これによって新羅の帯金具の系譜を北方に求めることができる。さらにこの帯金具の影響は倭にも及び、福岡県飯塚市櫨山古墳から天馬塚とまったく同じ文様の金銅製の銙(東京国立博物館蔵)が出土しているという。
銙帯と腰偑は、壺杅塚・瑞鳳塚・金冠塚・皇南大塚北墳などから出土しているので、新羅独特のものかと思っていたが、北方系のものだったようだ。 
※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「図説韓国の歴史」(金両基監修 1988年 河出書房新社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」(2004年 奈良国立博物館)
「天馬 シルクロードを翔る夢の馬展図録」(2008年 奈良国立博物館) 

2009/02/18

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-壺杅塚

 
路西洞には大小の積石木槨墳がいくつもあったが、平たい瑞鳳塚以外には漢字の名称がなかったので、大きな円墳と双円墳の間を少し歩いただけで、1つ1つ古墳を見て回るということをしなかった。だから壺杅塚がどこにあって、どんな風に残っていたのかわからない。

壺杅塚(こうづか、ホウチョン) 6世紀前半
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、1946年に国立中央博物館によって発掘された。壺杅塚は径16m、高さ5mに復元される積石木槨墳で、隣接する銀鈴塚とともに瓢形墳をなす。木棺内に仰臥伸展葬された被葬者は、金銅製の冠・履・金製耳飾り・銙帯・指輪などの装身具、太刀を帯びていた。棺外には、青銅容器・漆塗り鬼面・馬具・鉄鋌などが副葬されていたという。
壺杅塚でも様々な副葬品が出土している。金銅冠が出土したということは、墓主は王ではないことになる。漆塗りの鬼面は副葬品としては珍しい。見てみたいものだ。

青銅盒の外底には「乙卯年国岡上広開土地好太王壺杅十」という銘が鋳出されており、壺杅塚の名はこれにちなむ。高句麗の広開土王の没後3年、長寿王3年(415)にあたる乙卯年に高句麗で製作されたことが明らかである。古墳の築造年代は、他の伴出遺物から6世紀前半代とみられるという。
小さな青銅製の容器とはいえ、高句麗の王の名が鋳出された品は珍しい。それが王陵ではないところから出土している。当時、路東洞路西洞と続いていただろう味鄒王陵地区の古墳群でも、王陵ではない小さな墓から異国より伝来した品々が副葬されていた。よほどの功績のあった者だったのだろうか。
『黄金の国・新羅展図録』は、この碗は高句麗で製作されたあと、高句麗もしくは新羅でしばらくの間伝世され、この古墳に副葬されたと考えられる。瑞鳳塚古墳出土の銀碗銘とともに高句麗と新羅の関係を物語る文字資料として重要であるという。 日本の古墳同様、新羅の古墳でも文字資料が出土しないので、発掘調査しても古墳の墓主が不明のものがほとんどだ。壺杅塚出土の青銅製盒には文字があったが、新羅の王の名がないので、どの王の時に新羅にもたらされたのかも特定できない。
高句麗の長寿王は、413-91年と文字通り大変な長寿の王で、エジプトのラムセス2世に匹敵するくらいの長い治世であり、高句麗の全盛期だったという。この青銅製盒は、高句麗の長寿王がどれだけ新羅に影響力があったのか、あるいは朝貢してくる周辺の国々の使いにそれぞれ下賜した量産品だった可能性もあり、当時の高句麗の大国ぶりを示すもののようだ。しかし、その長寿王でさえ、陵墓がどれか特定されていないらしい。

金冠塚に副葬された「延寿元年辛卯」銘のある銀盒も長寿王なら、417年の訥祇(ヌルギ)王の即位にさいしても関与したのも長寿王、5世紀中葉の王陵、皇南大塚南墳に副葬された高句麗系の銀冠の制作時期も長寿王の時代だった。5世紀末に長寿王が没して新羅への高句麗の影響が弱まったため、王家に伝世していたこの青銅製盒は、そのために親族か家臣に下賜されたものだったのかも。 

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「韓国国立中央博物館図録」(1986年 通川文化社)

2009/02/16

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-瑞鳳塚

 
金冠塚のそばから路西洞古墳群に入っていくと、右側に金鈴塚よりも低く広大な土壇がある。というよりも、ほぼ地面と同じレベルなので歩いていても気づかない。

路西洞 瑞鳳塚 5世紀中葉
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、発掘を視察・参加したスウェーデン(瑞典)のグスタフ・アドルフ皇太子の国名の「瑞」と出土した金冠の鳳凰飾りにちなんで「瑞鳳塚」と名づけられた。
墳丘の規模は径36.3mで、その高さは10m以上と推定され、金冠塚に接するほどになるという。封土のすべてを取り除くという全面発掘がなされたため、従来明瞭でなかった点が解明されている
という。
金冠塚は右端の向こうで見えていない。瑞鳳塚は現在双円墳の墳丘跡として残されている平面よりも、封土の分だけ膨らんでいたので、金冠塚まで迫るほどだったらしい。

削平され畑地となっていたが、南北の長径52m余、東西の短径35m、高さ7mの楕円形を呈していたという。1926(大正15)年に小泉顕夫によって発掘された。墳丘の周囲に、幅1.8mの帯状の外護列石がめぐらされた瓢形墳で、北墳ののちに南墳が造られていた。発掘は北墳のみおこなわれたという。
しかし発掘の後は住宅地となっていたらしい。瑞鳳塚に沿って歩いたが双円墳だとは気づかなかった。そういえば路西洞古墳群には双円墳がもう1つあった。 地山層を掘り下げ、東西4.7m南北3.7mの木槨、内部に東西3.8m、南北2.0mの木棺を納める。木槨の下層は掘削した地山上に褐色粘土を敷いて平らにし、偏平な割石を二重に敷き、その上にバラスを10㎝ほどの厚さに敷いて基礎としており、さらに多量の朱(酸化鉄粉)が散布していたという。朱を全面に塗布したのち木槨を組み、積石し、その表面を粘土でおおったのであるという。
今まで新羅の古墳について調べていて、「基礎全面に朱を塗布する」ということが明記されたものは、この瑞鳳塚だけである。日本の古墳にあるはずだ。藤ノ木古墳の石棺に、外側も内側も朱が塗られていたが、6世紀後半とされているので、瑞鳳塚の方がずっと早い。日本では魔除けだと思うが、瑞鳳塚の場合はなんのためだろう。
木槨内は盗掘もなく完存していた。硬玉・瑠璃製の勾玉で飾られた金冠・金製勾玉・魚形などの装身具、瑠璃碗・瑠璃杯、青銅鐎斗、漆匙、銀製盒が出土しているという。

金冠 高30.7㎝
「金冠の鳳凰飾り」はどこにあるのだろうか。この金冠には頭の形のような金の針金が見える。そして中央の「山」字形の立飾から、歩揺のついた何かが見え隠れしている。
北燕、遼寧省、憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠に似ているが、これが鳳凰の形をしているのかどうか。
『国立慶州博物館図録』は、その内側に内冠を形どっていることが特徴である。揺帯で内帽形の骨格を作り、幅約1㎝の薄い金板2枚の立飾りを十字形に交差させ、その先端には鳳凰とおもわれる三羽の鳥が枝に止まっている様子を表現した装飾がそびえ立っている。このような形の内冠は現在まで知られているものには、類を見ない独特の形式のものであるという。
針金状のものは内冠というらしい。 玉類 ガラス・水晶・オニキス製 5世紀
『黄金の国・新羅展図録』は、数量からみて首飾よりは釧として用いられたか、それぞれ別の装身具に装飾品として用いられたものの集合体とみられるという。
下中央の緑色勾玉から2つ右に藍色のトンボ玉がある。小さな黄色の斑点がある。そして上中央の青色のガラス玉の左側に金層ガラス玉がある。解説には「黄色丸玉」とあるが、私には金層ガラス玉にみえる。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、銀盒には、細い針のようなもので銘文が刻まれていた。「延寿元年辛卯」につくられたもとわかる。高句麗長寿王39年(451)と考えるのが有力である。古墳の編年問題に関係して、崔囗鉉は銀盒の製作年代と埋葬年代をほぼ同時ととらえ、瑞鳳塚を5世紀中葉に位置づけるという。
5世紀半ばといえば、皇南大塚南墳と同時代になる。同じ頃に2人の王が亡くなったのだろうか。

双円墳についてはこちら
金層ガラス玉についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)

2009/02/13

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-金冠塚

 
路東洞の道を隔てた向こう側は路西洞古墳群となっていて、路東の大きな鳳凰台古墳をぐるりと回ると、路西の金冠塚が平たく横長に見える。入口を入ると写真のように見える。

金冠塚(128号墳) 5世紀末~6世紀初め
『国立慶州博物館図録』は、慶州市路西洞のある民家で敷地拡張のための整地作業中にこの古墳の封土を掘り込んだところ、多量の遺物が出土したため、収拾、調査された古墳である。以前にも、慶州の古墳の調査は行われていたので知識不足によって埋葬主体部の積石に達すると、これを普通の積石と誤認し、発掘を中止してしまったのであるという。
遺物出土前の状態に復元したものがこの形らしいが、それ以前に中止された発掘の時期には、積石木槨墳というものがまだ知られていなかったらしい。 『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、積石木槨墳の築造過程も究明され、副葬状況も復元された。長方形の墓壙を掘り、その中央に角材を組み合わせた槨を築き、内部に木棺を置き、冠などの装身具で盛装した遺骸を安置したのち、棺内に副葬品を納めた。さらに棺外の三方を囲むように鉄鋌300~400枚と鋳造斧形品が配されていた。槨は蓋をされ、四周に人頭大の河原石を積み重ね、さいごに盛土されている。墳丘は、径約46m、高さ12mと推定されているという。径は日本の丁瓢塚古墳の円丘部くらいかな。高さが全然違うけど。
『国立慶州博物館図録』は、装身具類、武器類、馬具類、容器類など4万余点にのぼる豪華な遺物が出土している。金冠塚の装身具類の中で金冠・冠飾・冠帽・銙帯、そして腰佩は天馬塚のものと似かよっているという。天馬塚が6世紀初なのでほぼ同時期のものということなのだろう。  金冠塚と名づけられたのは、この古墳から最初に金冠が出土したことからという。
『世界美術大全集東洋編10』は、一周する冠帯(台輪)の上に、「山」字形の立飾が前面と左右に合わせて3本、鹿角形立飾が後頭部に2本、合計5本の立飾がつく。「山」字形の立飾は、木の幹と枝を表現したもので、枝が左右に3本ずつ出ているので、三段対生樹枝形立飾ともいうという。
5世紀後半の皇南大塚北墳出土の金冠と同じく、立飾の縁に1条の打出列点文と冠帯の縁に蹴彫りによる平行線と波状の文様がつけられている。それにしても2つの金冠はよく似ている。鹿角形立飾も比べられたらなあ。  金冠だけでなく、鳥翼形金冠も出土している。こちらは天馬塚のものとよく似ているが、中央の突起が天馬塚のものは1つなのに対して、こちらは3つある。  それだけではない。このような材料までも副葬されていた。冠帽も出土したというが、それ以上のなにを金で造ろうとしていたのだろう。左下に束にして置かれているものは歩揺である。 垂飾耳飾りも出土した。このような装身具類だけではない。高坏や碗までもが金でつくられている。
こんなにキンキラ豪華に葬られた王は誰だったのだろう?

鳥翼形金冠についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社) 

2009/02/10

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-金鈴塚・飾履塚


味鄒王陵地区古墳公園と太宗路を隔てて、北側にある古墳群は路西洞・路東洞、あるいは路東里・路西里古墳群と呼ばれている。
1986年出版の『韓国中央博物館図録』には古墳公園として整備した頃と思われる写真があった。平たくなってしまった古墳は多かったが、それでも豪華な副葬品がたくさん出土したという。  1988年出版の『韓国の古代遺跡1 新羅篇』には、公園として整備される前、あるいは発掘調査前の写真があった。民家の中に古墳が残っているといった感じだ。飾履塚や瑞鳳塚はどこなのかまったくわからない。この写真を見ても、こんなにたくさんの古墳が今までよく残ったものだと思うが、民家の下などにも古墳はたくさん残っていたのだ。 路東洞 金鈴塚(127号墳) 6世紀前半
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、1924年に梅原末治・小泉顕夫・沢俊一によって発掘された。墳丘が半壊された状態で調査がはじまり、家屋の床下におよんだが、補強工事をして発掘が継続されたという。積石木槨墳は完存し、しかも金冠・冠帽・腰佩・金銅製履などの多数の副葬品が原位置のまま発見された。「宝冠の頂から足玉までの距離が1mを超えず、しかも冠・釧・指輪・帯・腰佩あるいは、腰にさげた金の小鈴など一様に小形で可憐な趣のものが多いので、被葬者が子供であった」(有光教一)と推定されている。特異な遺物としては、彩画のある白樺製冠帽、金釧・船形土器・ローマンガラスがあり、騎馬人物形土器はとりわけ有名であるという。
金冠が出土したのに子供だったとは、子供の王だったのかも。金冠の大きさは子供の頭に合っていたのだろうか。腰にさげた金の小鈴が腰佩と独立して下げていたのかどうかわからないが、不思議なことに、その金鈴が出土したために「金鈴塚」と名づけられたのに、金の鈴は博物館でも見なかったし、どの本にも載っていないのは残念。 金鈴塚出土 騎馬人物形土器 6世紀前半 21.3㎝ ソウル、国立中央博物館蔵  
『世界美術大全集東洋編10』は、長方形の板の上に騎馬人物が載る土器で、馬の飾りや人物の姿から見て、主人と従者と思われる。日常容器の土器とはまったく異なり、この土器のみからでは年代を決めることはできない。胸に細長い注ぎ口が、臀部に広口の受け口がつくという。
この土器を見ていると、天馬塚の白樺製障泥(あおり)が、馬にどう付けられていたかがわかる。
この土器も残念ながら国立慶州博物館では展示されていなかったので、図版でしか知らないのだが、勝手に酒器だと思っていた。子供の墓の副葬品だとすると、子供用の器かおもちゃのようなものだったのかも。主人と従者(下写真)が1対になっているのは、同墓出土の1対の舟形土器と共通するという。 路東洞 飾履塚(126号墳) 5世紀第4四半期
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、金鈴塚とともに発掘された。発掘の結果、径30m、高さ6m以上の規模と推定されている。木槨内では、遺骸の頭部に副葬品櫃を設けている。木槨直上に置かれた状態で鉄矛2・有棘利器2・鎌1が出土しており、墳丘の築成の過程で祭儀の執りおこなわれたことがうかがえる。装身具のなかで、白樺製冠帽・金製耳飾りはあるが、金・金銅製の冠をもたず、釧・腰佩・環・環頭太刀など銀製の装飾品の多い点は興味深い。また金銅製履・龍鳳文透彫り金銅鞍・杏葉などの馬具も他に類例をみないものである。山字形金冠をもたないこともあり、王陵には比定しえないが、王族・上層階級の墓であることは疑いないという。
飾履塚出土 金銅製飾履 5世紀後半~6世紀初 長(左)32.0㎝ ソウル、国立中央博物館蔵 
古墳の命名の由来となった金銅製履は長さ32.7㎝で、3枚の銅板からなる。文様の系譜は中国の南朝の流れをくむものであり、全体に南朝的要素の強い副葬品を有していることは注目されるという。 『世界美術大全集東洋編10』は、飾履は1枚の底板と2枚の側板よりなる。この飾履が有名になり古墳の名称ともなったのは、底板の見事な文様に由来する。9個の亀甲文を一列につなげ、その内に鬼神と双鳥を交互に配し、踵側の下から2番目には八弁蓮華文を入れる。左右にも半亀甲文を縦一列に並べ、鳥、人面鳥身像、怪獣を対称に配置している。現実の世界にない空想の動物を表した履は、今のところこれが唯一である。周縁には火炎文が爪先に向かって立ち上がり、仏像の光背文様との類似を見せる。側板も同様に亀甲文を配し、鳳凰、怪獣などの動物をを入れて、周縁には火炎文を表すという。
仏教美術のモチーフがこの飾履に使われているとは。新羅で仏教が公認されたのは法興王14年(528)、6世紀前半のことなので、それ以前につくられたこの飾履は、南朝で作られ、新羅へもたらされたのだろう。これだけ平らになってもなお、埋葬施設が壊されず、盗掘にも合わずに残っていたのは積石木槨墳の構造のおかげだったに違いない。
5世紀中葉には北朝と通交するのに高句麗を介さなければならなかった新羅だが、5世紀第4四半期には、直接南朝と通交できるようになったのだろうか。それとも、南朝へは高句麗を通らなくても船で行けるので、南朝とは以前から交易でもあったのだろうか。

『世界美術大全集東洋編10』では亀甲文とされていたが、私は亀甲繋文ということばを使っています。亀甲繋文については、金銅製履にも亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より亀甲繋文はどこから亀甲繋ぎ文の最古?をどうぞ

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「韓国中央博物館図録」(1986年 通川文化社)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)

2009/02/07

味鄒王陵地区古墳公園(大陵苑)に異国の煌めき


王妃の墓とされる皇南大塚北墳からは、金冠の他に金製の腕輪も出土している。

金製嵌玉釧 5世紀後半 金・藍色玉・青色玉 径7.0㎝ 国立慶州博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、幅3㎝の薄い金板の上と下の端を巻いて断面円形の箍(たが)状の縁を作った幅2.1㎝の腕輪である。左右の端は別の板を裏からあてがい、鋲で留めている。箍状縁のあいだには金板1枚を別に重ね、その上に金細線や粒金を鑞付してさまざまな形の区画を作り、そこに玉を嵌め込んで装飾としている。
夫人の左の腰の位置から、帯金具と重なって金製環状釧5個と玉類を連ねた釧とともに出土した。  ・・略・・  この釧も北方からの移入品であろうか(韓国宝物623号)
という。
確かに北方騎馬遊牧民の金と貴石の象嵌細工みたいやし、細かい粒金細工やなあ。  皇南大塚がある大陵苑は、味鄒王陵区とも呼ばれている。大陵苑には、柵で近づけない味鄒王陵を初め、大型の積石木槨墳が今でもたくさん残っているが、『韓国の古代遺跡1新羅』によると、どうもそれらの大墳墓の周辺には、小さな古墳がたくさん築かれていたらしい。
1973年の味鄒王陵地区古墳公園(大陵苑)公園計画にともない、13の地区および鶏林路(ケーリムノ)一帯の発掘調査が行われた。従来の知見をくつがえす多槨(葬)墓・竪穴式石室・甕棺墓など多種多様な構造の墓制が発見され、豊富な遺物が出土し耳目を驚かせたのであった。年代的に5世紀後半~6世紀後半の古墳群である。構造的1墳丘に1基の槨の築かれた単槨墓に対し、複数の槨をもつ多槨墓が明瞭となった。そしてさまざまな要因によって、削平された古墳がいかに多いかをものがたっているという。
本来は大古墳の周囲には小墳墓が密集していたのか。そういうと、南側の入口から味鄒王陵あたりまでは森になっていて、下側には小さな古墳がポツポツあったのには気がついたけど、それ以外にきれいに整備されたところにもたくさんあったとは思いもよらなかった。
削平されてはいても多くの埋葬施設・遺物が発見されるというのもすごいなあ。 大陵苑の東側に通る道路は鶏林路という。『黄金の国・新羅展図録』は、墳丘が失われた小型の積石木槨墳と甕棺墓など約100基の古墳が確認されたという。鶏林路古墳群ともいうらしい。

装飾宝剣 6世紀 金・瑪瑙製 長36.0㎝ 国立慶州博物館蔵  
鶏林路14号墳は、鶏林路古墳群の中の1基である。14号墳は、長さ3.5m、幅1.2mに過ぎない小型の積石木槨墳であるが、王陵級の大型古墳の出土品に匹敵する華麗な副葬品が出土した。
特に被葬者の腰部付近から出土した、金に各種宝石を嵌装した装飾宝剣は、剣鞘の表面に薄い金板で外廓をもうけ、その中に円形や木葉形に整形された澄んだ深紅色の紅瑪瑙を嵌入して装飾している。中国新疆ウイグル自治区、カザフスタンなどでも、この装飾宝剣の類例が確認されており、キジル石窟の壁画には装飾宝剣を着装した姿が描かれている。この宝剣のように、金色と瑪瑙の赤色を調和させた多彩色技法は、フン族のアッチラ帝国で大いに流行したもので、ドイツから西シベリアまで広く分布している。遠く東ヨーロッパや西域で流行した多彩色技法で製作された装飾宝剣は、当時の新羅が、国際交流を活発に主導していた中国・北魏と緊密な関係をもっていたことを示す好資料である
という。
この作品も大小の粒金が嵌め込まれている。鞘頂部の三つ巴の文様の1つ1つに花の茎と蕾のようなものがあって面白い。
慶州の大きな墳墓にも副葬されていない珍しいものが、こんなに小さな古墳から出土した。何かの功績で王が下賜したのだろうか。6世紀ともなると、新羅への高句麗の影響から脱し、北魏と親交があったらしい。
フン族の装飾宝剣はこちら
国立慶州博物館では展示されていなかったが、MIHO MUSEUMで始まった2009年春季特別展「ユーラシアの風 新羅へ」で見ることができた。想像していたよりも小さなものだった。 もう1つの有名なのはこのトンボ玉だろう。

瑠璃・玉製首飾りうち中心の蜻蛉玉 直径1㎝ 5~6世紀 国立慶州博物館蔵
第6地区2号墳は1号墳に先行して築造されたようである。墓槨は4.2X2.4mの積石木槨墳である。
4号墓は、主槨に平行して副槨がある。主槨から装身具・馬具・工具・土器、副槨からは多量の土器と稲籾が出土している。主槨出土の頸飾りは瑪瑙・水晶・碧玉・瑠璃製の勾玉・丸玉・管玉・切子玉と象嵌瑠璃玉からなる。コバルトを下地として白・赤・黄・青・緑色で、2人の人物・6羽の鳥が表現されている。類を見ない造形である。
このガラス玉は西方からもたらされた。異国の人物像と花鳥文は西域独特のモチーフである
という。
西方と西域ではだいぶ違うが、北方騎馬遊牧民がつくったものではないだろう。ローマ帝国の広大な版図のどこかで作られたものだと思う。
それにしても、現在までの出土物では慶州で唯一という珍しいトンボ玉が、こんなに小さな墓に副葬されていたとは驚く。
このトンボ玉も国立慶州博物館では展示されていなかったが、MIHO MUSEUMの同展で展観されていた。しかし、直径1㎝なのでこんなによくはわからなかった。  この時代の慶州は、さまざまな異国から将来された宝物が満ちあふれていたようだ。

「ユーラシアの風 新羅へ」展はMIHO MUSEUMの後、岡山市立オリエント美術館古代オリエント博物館に巡回されるらしい。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)

2009/02/03

慶州、皇南大塚の謎

 
双円墳の皇南大塚の北墳は、作りは簡略化されたとはいえ、金冠が副葬されていた。金冠は王陵であることの証明ではなかったのか。それに金製の装身具など、多数の豪華な副葬品が出土している。 『黄金の国・新羅展図録』は、木槨上部から6対の耳飾が出土したが、そのうちもっとも華麗なものである。  ・・略・・  内側がやや凹んだペン先形の垂下飾が3個つき、それぞれに同じ形態の子葉がつけられているという。その内の1対はこちら
下写真の黒っぽいところが木棺内だとすると、金冠はその中央にある。腰偑の位置のすぐ上にあって、頭部に被ったというよりも、胸の上に置かれていたように見える。 金冠について『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、5世紀後半の皇南大塚北墳になると、立飾の縁に1条の打出列点文と冠帯の縁に蹴彫りによる平行線と波状の文様がつけられるという。
なるほど点々とした縁取りがついていることがわかる。 皇南大塚南墳出土の銀冠は、左右の立飾の側面を櫛の歯のように細かく切って一つ一つを捩り、鳥の羽を表現している。高句麗系の冠であり、義城塔里古墳第1墓槨からも同様の金銅製冠(ソウル、国立中央博物館蔵)が出ているという。
王の冠が銀製とは。当時は高句麗との関係から、銀冠であっても王が被らなければならない状況だったのだろうか。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、新羅は先進の高句麗に依存しつつ、この百済と対抗していく必要があった。中国と直接境を接していない新羅が前秦に通交したのは、高句麗を介してであり、417年の訥祇(ヌルギ)王の即位にさいしても高句麗が関与するというような状態だったらしい。
義城塔里古墳の金銅冠は国立大邱博物館で見た。こんなに手間なことをしてまで、わざわざ金属で羽のように見せなくても、鳥の羽くらいあっただろうと思うが、架空の鳥、鳳凰の羽なら、このようにねじって作る必要があったのかも。それにしても、製作技術が成熟していないような冠で、とても王が頭に被った物とは思えない。 南墳からは銀製冠帽も出土している。金製あるいは金銅製の透かし金具が部分的に残っている。銀冠よりずっとこなれた技術で製作されている。
王が先に亡くなり銀製の冠と共に南墳に葬られ、王妃が金冠を被って次の王となったというのは考えられないのだろうか?日本で686年に天武天皇が亡くなり、皇后持統が次期天皇となったように。
新羅で南墳が築造された5世紀中ごろの王は訥祇王(417~458)、北墳が築かれた5世紀後半の王は慈悲王(458~479)である。慈悲王が女王だった可能性はないのだろうか、などと思ったが、新羅の歴史というホームページの慈悲麻立干によると、慈悲王は訥祇王の長子らしい。
やっぱり高句麗の意向で王は銀冠を被り、埋葬されることになったのかなあ。王妃の時は高句麗の介入が弱まったので、金冠が副葬されたのだろうか。それで、本来は王のものである金冠が、王妃の頭部ではなく胸部に置かれていたのだろうか。

※参考サイト
新羅の歴史の慈悲麻立干

※参考文献
「図説韓国の歴史」 (金両基監修 1988年 河出書房新社)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「韓国中央博物館図録」 (1986年 通川文化社)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)